「伸晃、吐いた。宏高、吐いた。延啓、吐いた…」石原良純が明かす石原家の過酷すぎる一日

石原良純 写真提供:新潮社
石原良純は、父を「子供に寄り添うタイプではなかった」と語る。それでも、海に連れ出される時間の中で自然の厳しさや広さを身体で知った体験は、やがて自身のものの見方や進路選択に影響を与えていく。幼少期の記憶をたどることで、世間ではあまり語られてこなかった父・石原慎太郎の素顔が浮かび上がる。※本稿は、政治ジャーナリストの石原伸晃、タレントで気象予報士の石原良純、政治家の石原宏高、美術家の石原延啓による著書『石原家の兄弟』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
子供の目線で相手をせずに
“大人遊び”を教える
折角、親父に僕の子供を会わせようと逗子まで連れて来たのに、親父の関心はものの半時で孫から艇に移ってしまったようだ。普通のお爺さんならば孫が来たら、それはそれは喜んで少しでも長く一緒に遊ぼうとするのだろう。ところがウチの親父は「子供は同じ事の繰り返しだ」と平気で言い放つ。挙げ句は、2人で艇で海へ出ようと僕を誘う。
たまの休みに一家団欒に出かけて来たのだ。僕だけ家族を残して勝手に遊べるはずもない。親父の頃とは時代が違う。いや、親父の時代にもそんな父親は、そうそういるものではなかったはずだ。
子供目線に降りての“子供遊び”はしない。“大人遊び”に子供を引き上げて一緒に遊ぶ。そうでなければ、自分が楽しくないから。それが親父のルールだった。だから時に、僕ら兄弟は小さい時から親父に海へ引っぱり出された。
お供をさせられるのは兄弟のうちのひとり。たまたま家で親父にでくわした兄弟が、その日のクルーになる。いつも怒っている父親と2人きりの時間と、軽快に海面を走る艇の楽しさ。子供にとって、恐さと楽しさがせめぎあう不思議な時間だった。
艇のことなどまるで分からない僕は、艇の中ではお客様扱いだ。親父に言われるままに、重し代わりに艇の上を右へ動いたり左へ動いたり。ロープを引けと言われれば引っぱり、放せと言われれば放り投げる。大声で怒鳴られても、新入り水夫に操艇を教えるキャプテンは、陸にいる時の親父よりもずっと優しく思えた。

石原慎太郎の愛艇“コンデッサ”で相模湾を往く石原ファミリー 写真:『石原家の兄弟』(新潮社)より
親父と一緒に海に出た
忘れられない母の笑顔
当時、乗っていたカタマラン(双胴船)は、若い親父の年齢にふさわしくやたらと速い艇だった。一旦、セールが風を孕むと艇は一気に加速する。双胴船の片側のハル(船体)は海面から浮き上がり、着水している片側のハルが海面を一文字に切り裂いていく。くっきりと航跡を残しながら艇は見る間に逗子の入江を横断する。グングンと目の前に磯場が近づき、このままでは磯の上に立つ“浪子不動”の石碑にぶつかると思ったところで、親父は風上に舵を切る。「タック」と親父の声に促され、僕はカンバス地のデッキの上を反対舷へとお尻で移動する。
速度が落ちるとバウ(艇の先端)が持ち上がり、スターン(艇の後端部)が下がる。ブクブクと泡を立て僕が座るカンバスが水面に沈みはじめる。何が起こるのか分からず水着のズボンを濡らして僕が怯えていると、艇はスターンを支点にクルリと向きを変えた。再びセールの反対面が風を捉えると、艇は一気に加速した。
風に鳴るセールの音。波飛沫、カンバス地のデッキに滲みる海水。傾く艇、波を飛び越える衝撃。子供の僕にとって、全てが新たな発見だった。
家族サービスなどという言葉には縁遠い親父が、珍しく家族旅行を言い出したのが、式根島へのヨットでのクルージングだった。
航海を前に母が大きな大きな縫い物をしていたことを思い出す。内骨の入った大きな丸い球は、気球のようだ。その気球は停泊時にはマストのブームに吊るされる。気球の4分の1が開口部になっていて、そこから風を取り込み、気球の下の吹き流し状の筒を通して狭いキャビンに涼しい空気を送り込む。海風を利用した、簡易クーラーということだ。
お手伝いさんと一緒に装置を組み立てている時の母は、とても楽しそうだった。もしかしたら、母にとって初めての航海だったのかもしれない。ヨット仲間の忘年会や夏の花火大会のパーティーでクルーと共に♪女は乗せない、コンテッサ♪といつも大声で歌って親父はご機嫌だった。そのコンテッサ号に乗って、親父と一緒に海へ出る。あの時の嬉しそうな母の笑顔は忘れられない。
気象予報士になったのは
俺がヨットに乗せたから
もう一つ忘れえぬ思い出は、式根島に上陸し、顔なじみの漁師さんの家に風呂を借りに行った時のことだ。
まず最初に風呂に入るのは親父。次はお母さん。あれっ、一緒に入ってしまうのかと子供の僕はドキドキしてしまう。すると母親から、「グズグズせずに貴方たちも入りなさい」と声を掛けられた。お母さんと一緒に風呂に入るのが、小学校高学年の僕には恥ずかしかった。まだまだ若かった母。その裸体がふくよかで、白く眩しかったことを鮮明に記憶している。
艇の上はとにかくヒマだ。ぼんやり時をやり過ごす他ない。ふと空を見上げると、白い雲が規則正しく並んでいた。雲は夏の南風に乗って南から北へ向かって動いていく。ところが1つだけ動かぬ雲を発見した。
伊豆七島の北から2番目の島、利島。その頂に、メロンパンのような雲が1つ乗っかっていた。艇はゆっくり島の横を通り過ぎる。雲の群れは北へと向かう。でも、島の上の雲だけジッと島の上から動かない。その時、風が変わり、バタバタとセールが音を上げた。「なぜ、あそこに雲があるのだろうか」「なぜ、風は変わるのだろうか」。そんなことを考えている奴が気象予報士になってしまう。
「お前が気象予報士になれたのは、俺がヨットに乗せてやったからだ」と親父は事あるごとに恩着せがましく言っていた。当たっているような、いないような。でも、僕の師匠はお天気博士の森田正光さんだと思う。
家族セーリングには、もう1つ過酷な思い出がある。夏休みに家族で伊豆下田へ出かけた時のこと。家族旅行に親父も参加するなんて珍しい事もあるものだと思っていたが、そこには魂胆があった。あらかじめ愛艇をクルーに命じて回航してあったのだ。石廊崎から西伊豆の妻良漁港までセーリングをすることになった。
石廊崎灯台の直下の入江は、切り立った崖に挟まれて細長く奥深い。入江の水面は静かでも外海へ出た途端に海は豹変した。大きなうねりが次々と沖から押し寄せ、磯に白波となって砕け散る。マストにぶつかる海風は、ヒューヒューと甲高い音を上げていた。
舵を引くのは親父。甲板長を務めるクルーの石川さんがその横に立つ。親父は何をしでかすか分からないから頼りになるのは石川さんだけだ。石川さんがニコニコ笑っているうちは、艇は沈まないと僕は信じていた。
石原家の人間にとって
海は帰る場所
うねりに弄ばれた艇は、まるで1階から2階、2階から1階へのように上下する。波の谷間に入ると360度の景色が失われた。母親と兄弟四人はコックピットの左右に分かれ手摺りにしがみついていた。
大きな波の中を艇は少しずつ、少しずつ進んでいく。当て舵をしくじるとバケツの水を思い切りブッ掛けられたように波がコックピットに飛び込んでくる。当て舵をしくじった親父を僕がジロッと睨むと、親父の目は“スマン”と笑っていた。ビショ濡れになった体は、真夏の陽射しに照らされていても冷えてくる。“スマン”じゃ済まない。やっぱり親父と一緒にいるとロクなことはない。
海岸線の断崖の上の国道をのんびりと観光バスが走っているのが見えた。バスの乗客は、真っ白いセールを大きく揺らし白波蹴立てて進むヨットを羨ましく眺めていたかもしれない。しかし、見ると乗るでは大違い。艇に乗る身は、生命の危機を感じていた。

『石原家の兄弟』 (石原伸晃・石原良純・石原宏高・石原延啓、新潮社)
下の弟たちは早々に顔が真っ白になって、マグロ状態。母親に膝枕をしてもらい身動きひとつしない。母親からして死んだ魚の目をして片手にビニール袋を握りしめている。体操座りで平静を装って座っている兄だが、ゲロの破片がひとつ小さく口の周りに残っていた。僕が必死に生ツバを飲み込んでいると、吐く時は首を伸ばして海へ吐きなさいと、石川さんがニコニコ顔で教えてくれた。
伸晃、吐いた。宏高、吐いた。延啓、吐いた。でも僕は吐かない。吐かない僕が、今日の勝者かもしれない。そんなワケの分からない優越感を頼りに、僕は荒れる海を乗り切った。あの意味なく兄弟全員で船酔いに苦しんだ航海が、僕にはそれほど悪い思い出として残ってはいない。
僕は月に一度、海に出る。今度は僕が、僕の子供を艇に乗せてやらねばならないから。それは親父をマネているわけじゃない。石原家の人間にとって海は遊びに行く場所ではなく、海は帰る場所なのだから。