72歳の医師が体重が10キロしかない6歳の男の子と運命の出会いをして「人生が変わった」理由

日本において、「70代」はもはやリタイアの年代ではないようだ。

厚生労働省の「高年齢者雇用状況等報告」の集計結果(2025年12月発表)によると、国では「70歳までの就業機会を確保すること(高年齢者就業確保措置)を、 事業主の努力義務としています」という。

なにより自身が健康であることも必要だが、70代になったからとリタイアをするのではなく、新しい挑戦をすることもできるかもしれない。

作家の町田哲也さんが出会ったのは、まさに人生の最終章で新しい挑戦をスタートさせた医師だ。

「エンドレス・チャレンジャー」という生き方を前後編にてお伝えする。

72歳で「運命の出会い」

70歳を過ぎて、人生を変える出会いをすることがある。信じてもらえるだろうか。本当の話だ。埼玉県鶴ヶ島市にある医療法人社団満寿会の理事長(当時)小川郁男は、2019年、72歳のときに運命の出会いをした。

相手は松本幹大(かんた)君。まだ6歳の男の子だが、体重は10キロしかない。目はほぼ見えず、言葉を発することもできない。先天性多発奇形症候群。体内の複数の器官に異常がみられる先天性の病気で、仮死に近い状態で生まれてきた。ある意味で、ここまで成長したことが奇跡ともいえる。

病院に連れてきたのは、母親の松本曜さん。埼玉医大病院で幹大君を出産。生後数ヵ月は肺動脈や気管切開、左足内反足など数々の手術に追われ、胃ろうをつけて食事を開始したのが3歳のときだ。 

72歳で「運命の出会い」, 「どうにかしなくちゃいけない」, 「医師の数が足りていない」耳鼻科を選ぶ, 父が認知症を発症

小川医師と幹大くん 写真提供/松本曜

幹大君は落ち着いてきたが、入間郡毛呂山町にある同病院は自宅から車で40分と遠く、毎回通っていては家族の生活が成り立たない。あくまでも診療のメインは病院だが、在宅ケアをサポートしてくれる診療所を探した末に見つけたのが、鶴ヶ島在宅医療診療所だった。

「もともとは当法人の老人保健施設の空いたスペースを活用して、医療型短期入所施設(ショートステイ)として、障害者を預かってきたんですよ」

小川は白衣を着て、額に額帯鏡をつけたまま思い出すようにいった。取材中も、隣にある診療所に来る患者が絶えない。小川は2ヵ所の耳鼻科で診療をしている。

72歳で「運命の出会い」, 「どうにかしなくちゃいけない」, 「医師の数が足りていない」耳鼻科を選ぶ, 父が認知症を発症

小川医師は「医師が足りていないから」と耳鼻科を選んでいた 写真提供/小川郁男

「どうにかしなくちゃいけない」

重症児たちの医療も大事ですけど、ママたちの話を聞いてどうにかしなくちゃいけないと思ったのは、子どもを支える親の負担です。24時間365日見守っているというのは、けっして大げさないい方ではないんです」

曜さん家族には、幹大君のほかに二人の男の子がいる。当時はまだ小学2年生と、保育園に通う5歳だった。夫は平日勤務なので、一人で子どもたちの世話をしながら幹大君の対応をしなければならない。

ゆっくりとだが、幹大君も着実に成長している。寝ている時間が長いが、起きれば足踏みや手を大きく振って動き、ベッドで回転しはじめる。とくに動くのが夜だ。夜11時から朝4時くらいまで起きていることが多く、疲れるまで動くのでその間に何をするかわからない。

胃ろうや点滴のチューブを抜かないように、夜間の手袋は必須だ。昼間に屋外で陽に当てたり、睡眠薬を処方したりしたこともあったが、睡眠時間はどうしてもコントロールできない。

「けっきょく親が合わせるしかないんですよね」

いつも寝不足で鬱状態になったこともあったが、今ではそんな生活に慣れたという。曜さんが否定的な言葉を発することはほとんどない。小川の医師としての40年の経験をもってしても、出会った頃、絶えない笑顔の陰にどんな思いがあるのか想像もつかなかった。

「医師の数が足りていない」耳鼻科を選ぶ

小川郁男は1947年、埼玉県で内科医を開業する父のもとに生まれた。川越高校を卒業後、日大医学部に進み、日大病院耳鼻科で医師としてのキャリアをスタートさせた。内科医として、父の病院を継いだのは弟だ。小川が耳鼻科を選んだのは、医者の数が足りていない現実をふまえてのことだった。

大学時代に打ち込んだのは山登りだ。山岳部に所属し、山にはじまり国内外の秘境に挑戦した。一つの成果が、日大チームとして挑んだ北極点踏破だ。植村直己による単独踏破の数日前、日本人として初めて北極点に到達したのが1978年。31歳のときだった。

72歳で「運命の出会い」, 「どうにかしなくちゃいけない」, 「医師の数が足りていない」耳鼻科を選ぶ, 父が認知症を発症

山岳部で医療担当に 写真提供/小川郁男

小川は医療担当としての参加だった。顧問である村山雅美と、ベースキャンプで話したことが忘れられない。南極に来てくれるドクターがいないとぼやく村山に、「建物もあるなんて、北極より過ごしやすそうじゃないですか」と発言。気づいたときには南極観測隊のメンバーになっていた。1979年に南極に行き、鶴ヶ島で開業したのは帰国後のことだった。

父が認知症を発症

持ち前の行動力が発揮されたのが、介護事業への参入だ。きっかけは、父が認知症を発症したことだ。当時は介護保険制度もなく、認知症の家族を家に隠す時代の名残りが残っていた。介護の負担の多くは、家を守る女たちに降りかかってくる。これでは家族も生活していけなくなってしまう。

父の死には間に合わなかったが、小川の母の最期は、自分が設立した特別養護老人ホームで看取ることができた。思えば問題意識は同じだった。家族の生活が成り立たなくなるような介護やケアはおかしい。患者だけでなく、家族の負担もどうにかしてあげたいという思いが、小川の医療の根底にあった。

小川が鶴ヶ島在宅医療診療所で、医療的ケア児の預かり支援をはじめたのは2020年。幹大君と出会った翌年のことだ。医療的ケア児とは、日常生活を営むために人工呼吸器による呼吸管理などの医療行為が恒常的に必要な児童のことで、全国に約2万人いると推計されている。

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写真提供/小川郁男

コロナ禍で、病院の運営はかつてない苦境に陥っていた。新規事業は延期するべきという声もあったが、貫いたのはママたちの負担が増すのを無視できなかったからだ。

「障害者の親はママだけではない」という声もあるだろう。もちろん、障害者のケアをしているパパもいるはずだ。しかし厚生労働省の調査報告書「医療的ケア児者とその家族の生活実態調査 報告書」(令和元年版)からもわかるように、父親が働き、ケアワークは母親が担っている家庭がほとんどだ。小川の強い意志は、日本社会における働き方や家族のあり方に対する問題提起でもあった。

2023年、医療型特定短期入所として鶴ヶ島ほっこり村診療所が開設される。小川は約40年間務めた医療法人の経営を息子に譲り、社会福祉法人忠黎会で介護と障害者医療に専念することにした。76歳にして、新たな挑戦のはじまりだった。

◇後編「「障害児を支える親の負担を減らしたい」72歳で運命の出会いをした医師が76歳で始めた挑戦」では、「ほっこり村」開設後のことを伝える。

小川郁男(おがわ・いくお)プロフィール

昭和22年埼玉県生まれ。昭和47年日本大学医学部卒業。専門領域は耳鼻咽喉科。 

平成5年、父親(内科医)を自ら介護した体験から、地域住民の「住み慣れた地域で豊かな老後」を念じ、老人保健施設鶴ヶ島ケアホームを開設。平成15年、「地域住民の健康及び、高齢者の豊かな老後を医療面から支える」目的で19ベッドを持つ診療所を開設し、入院及び内科、外科、耳鼻科の一般外来はもとより、リハビリテーション、言語療法、往診、訪問診療等の在宅医療を推進中。令和2年度、地域の医療現場で長年にわたる活動の顕彰を目的として日本医師会が創設した「赤ひげ功労賞」受賞。

公益社団法人埼玉県介護老人保健施設協会会長、埼玉県耳鼻咽喉科学会常任理事、埼玉県有床診療所連絡協議会会長。