「トヨタの手柄は、俺のものだ」 勝者に“ただ乗り”するネット民の正体――「借り物の自尊心」と0.23%が生む称賛・攻撃の構造とは

]大きな主語に依存する個人

 ネットのニュースやSNSを覗けば、そこには奇妙な熱狂と冷徹な憎悪が同居している。

【画像】ヤンキーが「高級車」に乗れる理由

 売上高50兆円という途方もない数字を出し、3兆5700億円もの純利益を上げるトヨタを称える声。その裏で、2年続けて6500億円の赤字となった日産や、電気自動車(EV)戦略の綻びから6900億円の赤字に転んだホンダへ投げつけられる、人格否定に近い言葉の刃。企業の成否が、なぜここまで個人の心を激しくかき乱すのか。ただの好き嫌いではない、もっと根深い「自尊心のゆがみ」がそこには見え隠れする。

 こうした振る舞いを読み解く手がかりになるのが、ポーランド出身の社会心理学者・ヘンリー・タジフェル氏(1919~1982年)らが説いた「社会的アイデンティティ理論」だ。人は自分という存在の価値を、属している集団の価値と重ね合わせてしまう。

「日本人である」

「トヨタを支持している」

といった集団の属性を、自分の一部として取り込んでしまうのだ。

 この心の動きは、段階を追って進んでいく。まず人は、複雑な世のなかを整理するために、周囲を「味方のグループ」と「敵、あるいは無関係なグループ」に分ける。次に、自分が選んだ集団に心を深く沈め込み、その勝ち負けを自分の誇りや恥に直結させる。そして仕上げに、他のグループと比較して自分たちの正しさを確かめようとする。自らのグループを持ち上げるだけでなく、他方を貶めることで、相対的な位置を引き上げようとする。ネットで見かける執拗なバッシングの正体は、いわばこの「安価なプライド」の守り方に他ならない。かつて個人を支えた

・会社

・地域

・家族

といった居場所が揺らぎ、多くの人が底知れない無力感に立ち尽くしている。その空虚さを埋めるために、世界に通用する巨大な存在と自分を重ね合わせているのではないか。自らの足で立つ代わりに、強い集団が手にした成功を自分の手柄のように振る舞い、手っ取り早く自尊心を補っているのだ。

アンチという最短の優越感

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『社会的アイデンティティ理論: 新しい社会心理学体系化のための一般理論』(画像:北大路書房)

 情報を追いかけていると、私たちは知らず知らずのうちに世界を「自分たちの側」と「それ以外」に分け、その間に境界線を引いてしまうものだ。これは複雑すぎる現実を効率よく捉えるための知恵でもあり、心の平穏を守るための振る舞いでもある。例えば、「ハイブリッド車(HV)を武器に快進撃を続けるトヨタ」と「EV戦略の波に飲まれるホンダ」という構図をなぞることで、自らの価値までもが底上げされたような錯覚に陥る。

 しかし、この心の仕組みには危うい側面が潜んでいる。自分の価値を確かめるために、どうしても「比べる相手」を必要としてしまう点だ。

 本来、自らの能力を磨くには、長い時間とたゆまぬ歩みが欠かせない。一方で、苦境に立つ日産やホンダをなじる行為は、手っ取り早く、かつ低い負担で自分を肯定させてくれる。自分を律する努力よりも、他者を叩く方がリスクも低く、快感を得やすい。その安易さゆえに、他者との比べ合いは、いつの間にか激しい攻撃性へと姿を変えてしまう。

 こうした刺々しい言論の実態について、見過ごせない調査がある。田中辰雄氏と浜屋敏氏による10万人規模の調査によれば、ネット上の過激な投稿の多く(自動車関連投稿だけではなく、ネット全体での投稿)は、実は一部の

「高齢者層」

によるものだった。さらに驚くべきは、全投稿の約半分が、ネット利用者全体のごくわずか

「0.23%」

つまり435人にひとりという極めて限定的な人々によって生み出されていた事実だ。海外の調査でも、SNSユーザーの59%が記事の中身を吟味せず、見出しだけで拡散やコメントを行う傾向が示されている。

 つまり、ネットで見かける激しい反応は、決して社会の総意ではない。ごく限られた層が、脊髄反射的に情報を消費して作り出した「つかの間の優越感」の集まりなのだ。本来なら自分の仕事や選択を通じて手にするはずの充実感が、安直な比較の操作にすり替わっている。

業績が映し出す条件の相違

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日産自動車のロゴマーク(画像:時事)

 ネットを騒がせる企業への評価の偏りは、物事を分かりやすく仕分けたがる、人間の性(さが)のようなものに根ざしている。人は異なるもの同士の差を必要以上に大きく見積もり、逆に身内のなかにある共通点ばかりを強調してしまう。

 巨額の利益を出した勝ち組と、大きな赤字を出した負け組。そうした極端な対立構造に押し込めることで、複雑な現実は削ぎ落とされていく。だが、企業の業績や戦略は、それだけで絶対的な優劣が決まるようなものではない。その時々の環境に、どれほど適合しているかという結果に過ぎないからだ。

 トヨタが示した大きな純利益も、1ドル150円という円安や、北米でのハイブリッド車人気という、現在の条件がうまく噛み合った成果といえる。一方で、米国の関税によって1兆4500億円もの利益が削られる懸念を抱え、中国の輸出規制やAI半導体の高騰といった供給網の脆さにも直面している。いわば、際どい均衡の上に成り立つ最適解なのだ。

 ホンダがエンジン車廃止の目標を見直し、一部のEV開発を断念したこと、あるいは日産が踏み切った人員削減。これらも、EV普及の勢いが鈍るという予期せぬ変化のなかで選んだ、必死の生存戦略に他ならない。ホンダは最大2兆5000億円もの損失リスクを抱える一方で、自己資本比率は38%を保ち、4兆円を超える手元資金を握っている。こうした事実は、激しい非難の声にかき消されがちだ。

 いま必要なのは、こうした拙速な決めつけから離れ、企業という存在を時間と環境の流れのなかで捉え直すことではないか。目に映る数字や評判は、決して最終的な審判などではない。ある状況下でたまたま保たれている、一時的な揺らぎに過ぎない。評価とは、勝ち負けを断じることではなく、どのような条件で何が起きているのかを丁寧に紐解く作業であるべきだ。

小さな主語のハンドルの握り直し

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ホンダのロゴマーク(画像:AFP=時事)

 巨大な組織や国家という大きな枠組みに心を預けきってしまうと、自分という個人のあり方は、いつのまにか集団の色に染め上げられてしまう。トヨタや日本といった大きな看板に自らの価値を重ねる振る舞いは、ひとときの安らぎを与えてはくれるだろう。だが、それは自らの経験や選択からにじみ出たものではない。

 どれほど力のある集団に身を置いていても、そこでの評価はどこまでいっても借り物にすぎない。集団同士の比べ合いで手にした優越感は、自分自身の行いや判断とは切り離されており、自分を支える確かな土台にはなり得ないのだ。いま求められているのは、そうした外側のはかりを一度脇に置き、ひとりの個人としての歩みに立ち返ることではないか。

 自尊心というものは、どこに所属しているかといった形のないものではなく、日々の具体的な迷いや失敗、そして身近な誰かとの関わりのなかでこそ形づくられる。企業の成績や国の勢いに自らの価値を委ねるのではなく、自分がいま生きている領域で何を選び、何を引き受けているのか。そこを丁寧に見つめ直すことが、本当の意味での始まりになるはずだ。

 大きな主語の陰に隠れて誰かを裁くのではなく、自分の手が届く範囲で誠実に、ひとつひとつを選び取っていくこと。そうした地道な積み重ねの先にしか、誰にも奪われることのない、自分だけの自信は宿らない。

集団への依存からの脱却

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企業の成功と歪んだ自尊心。

 ネットのあちこちで見かける、極端なまでの称賛と激しい攻撃。そこには、自分という存在を巨大な集団へと過剰に重ね合わせる、現代特有の危うさが透けて見える。

 企業が示した大きな数字を自分の誇りとして消費したり、他社の不調を叩く道具にしたりする振る舞いは、個人の日々の暮らしや成長とは、本来、何の関わりもないはずだ。集団への帰属意識は、手っ取り早く自尊心を満たしてくれる一方で、外側の集団に対して容赦ない言葉を投げつけてしまう危うさを孕んでいる。

 日産やホンダが直面した大きな赤字も、各社が選んだ時間軸や、激変する市場の荒波に立ち向かった結果にほかならない。勝ち負けという単純な図式で片付けられるような話ではないのだ。こうした数字を優劣の証拠として振りかざすのではなく、その背景にある戦略や供給網のリスクといった条件の違いを、いかに冷静に読み解けるかが問われている。

 これからの社会を歩むうえで大切になるのは、こうした「大きな物語」への同化から、どれだけ距離を置けるかという点だろう。国や企業といった巨大なものに自分の価値を預けるのではなく、日々の仕事や生活という地に足のついた場所で、自らの行いと判断を積み重ねていく。誰かを攻撃することで得られる、見せかけの満足感に浸っていても、本当の意味での「自分」は形づくられない。

 自分という輪郭は、本来、いくつもの人間関係や経験が重なり合って出来上がるものであり、どこかひとつの組織に属していることだけで代わりが務まるものではないはずだ。大きな集団のなかに自分を溶かし込んでしまう前に、ひとりの人間として何を選び、何を引き受けて生きるのか。その問いを繰り返し自分自身に投げかけること。それこそが、刺々しい言葉が飛び交う世のなかから一歩退き、確かな自分を築いていくための出発点になるだろう。