シャッターだらけ「兵庫の廃墟モール」衰退の理由

兵庫県のモールがシャッターだらけになったワケとは?(筆者撮影)
一面シャッターだらけで人けが少ない
兵庫県尼崎市の出屋敷駅前に廃墟モールがある。「出屋敷リベル」だ。
【画像19枚】駅からすぐなのにシャッターだらけで閑散…ダイエー撤退で衰退した「廃墟モール」の様子

兵庫県尼崎市の出屋敷駅前にある「出屋敷リベル」(筆者撮影)
地下1階〜地上2階部分が商業施設になっており、上層階に駐車場や集合住宅がある。施設外周には多数の自転車が停められ、1階の関西スーパーやセリアには近隣住民と見られる買い物客が集まっている。

施設外周には自転車が並ぶ。1階にパチンコも入居している。しかし、2階に行くと…(筆者撮影)
しかし「専門店 衣料・生活雑貨のフロア」と書かれている2階は施設の管理事務所、企業の事務所、人材登録センター、クリニックがあるくらいで、一面シャッターだらけ。人けが少なく、館内BGMだけが響いている。

2階は外側もほとんどシャッターを降ろしている(筆者撮影)

1階の外側でもシャッターが目に入る(筆者撮影)
地下1階の「専門店 食料品と飲食のフロア」はいくつかの飲食店が営業しているものの、大半がシャッターに囲まれている。時折、シャッターがカタカタと鳴る音が聞こえてくる。
開業当初は地上3階も店舗フロアであったが、現在は市の事務所と企業のオフィスになっている。
なぜ「出屋敷リベル」は廃墟化してしまったのだろうか。
ダイエーの撤退が引き金に
「出屋敷リベル」は出屋敷駅北側の第一種市街地再開発事業により建てられ、1990年3月にオープンした。核テナントには近隣の店舗が移転する形でダイエーが出店。ほかに地元権利者の専門店30店舗、一般分譲の44店舗が入居した。
並行して駅前広場の整備と駅周辺の高架化も実施された。駅と「出屋敷リベル」の2階がデッキでつなげられ、利便性が高い施設となった。

駅を出てすぐに「出屋敷リベル」につながっている。利便性は高いはずだが…(筆者撮影)

出屋敷駅前の広場。左手に「出屋敷リベル」が見える(筆者撮影)
ところがオープンから1年足らずでバブルが崩壊。複数店舗が退店してしまい、空き区画が増え始めた。
廃墟化の引き金となったのが、核テナントのダイエーの撤退である。2005年2月、ダイエーの経営再建を支援していた産業再生機構が閉鎖・売却を検討している53店舗のリストを発表し、そのなかに出屋敷店も含まれていた。同年8月正式に閉鎖が決定し、10月に撤退。出屋敷店では阪神淡路大震災後に売り上げが低迷し、赤字が続いていた。
ダイエーが閉店した翌日の段階で、「ダイエー以外の専門店も撤退が相次ぎ、現在は74店舗のうち20店が空き店舗」と報じられている(『毎日新聞』2005年11月1日)。そのような状態のなか、「リベル」商業ゾーン売り場面積の約7割を占めるダイエーが撤退した影響は計り知れない。ダイエーの閉店により専門店の売り上げは激減し、さらに空き区画も増えた。
核テナントが不在となって大打撃
ダイエーの後継店舗探しは難航した。「出屋敷リベル」では空き区画を活用したフリーマーケットを実施して集客を図ったり、尼崎市が専門店に対して特別融資を行ったりと、さまざまな策を講じながら食いつないでいた。
ダイエー撤退から1年が経過した06年10月、ようやく後継店舗がオープンした。家電量販店のミドリ電化である。だがダイエーが営業していた地下1階〜地上3階のスペースのうち、ミドリ電化が出店したのは2階のみであった。
08年2月時点で、「専門店は減少し、現在約30店。06年には2階部分に家電量販店『ミドリ電化』が出店したものの、施設全体の集客は以前の半分程度に落ち込んだまま」だったという(『毎日新聞』2008年2月19日)。
同年5月には核テナントとして関西スーパーがオープンしたが、商業ゾーン売り場面積の約7割を占めていたダイエーが撤退し、しばらく空いていた影響は大きかった。
ミドリ電化はエディオンに変更されたのち、17年に閉店してしまった。
尼崎駅との活気の差
「出屋敷リベル」が廃墟化したのは核店舗であるダイエーの撤退が大きいが、出屋敷の商業の斜陽化は「出屋敷リベル」がオープンする前から始まっていた。
出屋敷は戦前は住宅地、戦後の高度成長期には闇市や臨海部にある工場へのターミナルとして栄え、昭和30年代までにぎわっていた。尼崎商業発祥の地ともいわれている。
しかし昭和40年代になり公害が問題視され、工場が停止・移転すると出屋敷は活気を失っていた。平成初期には「出屋敷は鉄の町、尼崎を支えた中心の街だった。買い物客でにぎわい、労働者のエネルギーに満ちあふれていた街も、南部の工業の地盤沈下とともに活気を失って久しい」といわれている(『日本経済新聞』1990年3月22日)。
現在の出屋敷の街を見ても、商業地として苦戦している様子がうかがえる。出屋敷駅周辺の商店街もシャッターが目立ち、閑散としている。

シャッターが目立つ出屋敷駅近くの新三和商店街サンロード。昭和40年代には、出屋敷の衰退は始まっていた(筆者撮影)
商店街は隣駅の阪神尼崎駅まで続いており、尼崎駅に近づくと見違えるように人通りが増える。

阪神尼崎駅に近い商店街は人通りが多い(筆者撮影)
阪神尼崎駅がターミナル拠点としてにぎわう一方で、出屋敷駅周辺は活気を失ってしまっているのだ。
出屋敷駅は、阪神尼崎駅だけでなく大阪梅田駅へのアクセスにも優れている。出屋敷駅で普通列車に乗り、尼崎駅で特急や急行に乗り換えれば約15分で着く。
この交通アクセスの良さは住むには魅力的だが、「出屋敷リベル」にとってはかえって仇となった。
「出屋敷リベル」がオープンする直前の1989年における阪神本線の乗車人員の1日平均は、尼崎駅約3万人、大阪梅田駅約11万6000人に対して、出屋敷駅はわずか約7000人である(尼崎市『尼崎市統計書 平成2年版』、大阪市『大阪市統計書 平成2年版』)。
尼崎駅と大阪梅田駅という巨大な商業集積エリアが近接しており、かつ駅の利用者が少ない出屋敷駅前において、70店舗を超える規模の施設が成立するのは困難であった。
郊外に建てられた大型スーパーやショッピングモールの影響も受けているだろう。尼崎市には「つかしん」や「あまがさきキューズモール」といった大型モールが存在する。

尼崎市北部にある「つかしん」。出屋敷駅からは車で約20分の距離(筆者撮影)
これらの大型モールの区画は基本的にデベロッパーが店舗へ貸しており、デベロッパーは社会の変化に合わせて店舗を入れ替える。売り上げ不振の店舗を退店させ、より集客力の強い店舗を入れるといった具合だ。
しかし「出屋敷リベル」の区画は分譲されているため、計画的な店舗入れ替えが難しい。競合施設が戦略的にリニューアルされていくなかで、「出屋敷リベル」は取り残されてしまった。
似たようなモールがほかにも存在する
冒頭にて、廃墟モールの誕生には7つの要因があると書いた。具体的には以下の7つだ。
①競合施設の存在、②モータリゼーションの進展、③アクセスの悪さ、④動線の設計ミス、⑤施設規模の不適合、⑥運営会社の破綻、⑦核テナントの撤退
「出屋敷リベル」廃墟化の大きな要因は、⑦核テナントの撤退だ。①競合施設の存在と⑤施設規模の不適合も当てはまる。
「出屋敷リベル」と同じくバブル期に再開発で建てられ、核テナントを失い、苦戦しているモールがほかにも存在する。続く後編ではその事例を取り上げ、より詳しい背景を探っていく。