なぜ豊臣秀吉は多くの神社や寺を建てたのか? 数奇な運命に翻弄された豊国神社と、かつて日本一の大仏があった方広寺

豊国神社の豊臣秀吉像 写真/shima_kyohey/イメージマート

(吉田さらさ・ライター)

多くの神社や寺を建立した秀吉

 大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しく見ている。豊臣秀吉を主役にした大河ドラマはこれまでにもあったが、今回は、秀吉本人ではなく参謀役を務めた弟の秀長の視点から描かれるところが面白い。ドラマ内での秀吉はまるで子供のようにお茶目で愛されるキャラだが、その実、計り知れない闇を秘めているようにも思われる。実際どうだったかはわからないが、史実だけを見ても、この人が、どこか普通の人間とは違う発想を持った特別な人物であったことがうかがい知れる。

 秀吉についてもっともよく知られているのは、「貧しい家に生まれ、足軽から天下人にまで上り詰めた」という立身出世物語である。織田信長の草履を懐に入れて温めたという通説も有名だ。野心家で世渡り上手で人たらし。それが一般的なイメージだが、秀吉には、大河ドラマではあまり描かれない側面もある。この人は、寺や神社を新たに建てたり、古くからある寺社を華麗に修復することが大好きだったのだ。

 京都や滋賀などのゆかりが深かった地を歩いていると、あちこちの寺社で、「秀吉の命によって建立された」、「秀吉が建てた○○という建物をここに移築した」、「織田信長によって焼き討ちされたが、秀吉が再興した」などの説明板に出くわす。

 たとえば琵琶湖の竹生島にある宝厳寺には、大坂城の極楽橋の遺構が残されている。極楽橋は金箔や黒漆を駆使した華麗な建造物であったとのことで、宝厳寺でもその一端をうかがい知ることができる。

 京都の醍醐寺の三宝院は、一世一代の大イベント「醍醐の花見」を催すために堂内や庭園を改修したもので、秀吉自ら出向いて指揮をしたという。花見の宴では、たくさんの女性たちが最新流行の華やかな小袖をまとって雰囲気を盛り上げ、茶会も行われた。

 貧しい生まれの秀吉は黄金の茶室に代表されるような派手で豪壮なものを好んだが、単なる成金趣味の金ぴかではなく、西洋伝来の南蛮美術の影響も受けた「桃山文化」として美術史上の評価も高い。つまり秀吉は、政治だけでなく、文化面においても先進的なリーダーとして君臨したのである。

 今回ご紹介する京都の豊国神社は、そんな秀吉を神格化して祀る社である。日本史上もっとも著名な武将ゆかりの地であり、かつ京都国立博物館の隣という観光的にも絶好の立地でありながら、訪れる人はさほど多くない。徳川家康を神として祀る日光東照宮と比べて、あまりにもひっそりとしているのはなぜなのか。それは、この神社及び秀吉という人物が、歴史の波の中で大きな浮き沈みを経ているためだろう。

境内の片隅に存続する方広寺

方広寺の梵鐘 写真/mamushi/イメージマート

 秀吉がまだ天下取りの半ばであった天正14年(1589)、本能寺の変で主君の織田信長が死してからわずか4年後、秀吉は京都に大仏を建立しようと決意する。現在の豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂などを合わせたより大きな敷地に方広寺(創建当時まだこの寺名はなく、単に『大仏』と呼ばれていた)という寺を創建し、自らの権威を示すため、そしておそらく天下人になるという大願を込めて、奈良の大仏よりさらに大きな仏像を作ろうと考えたのだ。

 像高約19m、それを祀るための壮麗な大仏殿も建てられたが、悲願の大仏は開眼法要直前に地震によって破損。損傷はさほど大きくなかったが、秀吉は、自らを守れなかった大仏への興味を失ったという。秀吉の死後、二代目大仏が造られたが、1662年に、やはり地震によって崩壊。1667年には三代目の大仏も造られ、当時は日本三大仏のひとつとして人気があったが、1798年、落雷による大火で焼失した。その後四代目大仏も造立され、1973年に火災で焼失。それ以降大仏は造られていないが、方広寺は、今も豊国神社の境内の片隅にひっそりと存続している。

 その一隅に鐘楼があり、梵鐘に「国家安康、君臣豊楽」という文字が彫られている。「国が安泰で主君も民も豊かに暮らせますように」という意味だが、徳川家康がこれを見て「家康という文字が分断されているのは豊臣家の呪いに違いない。豊臣を君主として楽しむとも読める」と激怒し、大坂の陣のきっかけとなったとされる。秀吉の力を誇示するために建てられたはずが、豊臣家の滅亡を招く結果となったのだ。何とも数奇な運命に振り回された大仏と寺である。

梵鐘の銘文 写真/ogurisu/イメージマート

 方広寺の大仏を祀った大仏殿は、現在の豊国神社の社殿の背後にあり、今も大仏殿跡と呼ばれる広場になっている。しかし豊国神社の社殿は、もともとここにあったのではない。

 秀吉は慶長3年(1598年)、伏見城にて死去した。62歳、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)のさなかである。秀吉は死後に神として祀られることを望んでいたため、火葬でなく土葬されることとなった。遺体は伏見城に安置され、その死は半年ほど隠されていたが、皇室から「豊国大明神」という神号を授かり、現在の豊国神社から1キロ半ほど西に行ったところにある阿弥陀ヶ峰という山の中腹に葬られた。そこには今も豊国廟と呼ばれる墓所があり、実際にこのあたりには、秀吉のものと思われる遺骨があったとも言われている。

 大仏殿がある方広寺を中心として、今の豊国神社の敷地からこの豊国廟までが、神となった秀吉を祀るための宗教空間となった。仁徳天皇陵やピラミッドを思わせる壮大なスケール。この世で権力を握った支配者は、自らの存在の大きさを後世の人々にも示すために、巨大な墳墓を造らせるものなのだ。しかし、そうはさせじと思った人物がいた。徳川家康である。

 大坂の陣によって豊臣家を滅ぼした家康は、秀吉の痕跡を消し去るため、豊国大明神の祭祀を禁じ、豊国廟と方広寺を打ち壊そうと考えた。しかし、秀吉の妻ねねの懇願により、積極的には壊さず、放置して朽ちるがままにしたという。かくして秀吉と豊臣廟の存在は、少しずつ人々から忘れられて行った。

現在の豊国神社は?

豊国神社の唐門 写真/kamogawa/イメージマート

 時は流れて明治維新、再び秀吉が脚光を浴びる日が来た。天皇を国の中心に据えようとする明治政府の急務は、徳川家の威光をできるだけ早く薄れさせること。そのため、政敵だった豊臣秀吉が再評価されることとなったのだ。荒れ果てていた方広寺大仏殿跡の一角に立派な社殿が建てられ、新たに豊国大明神を祀り、祭祀も復活した。これが現在の豊国神社である。

 大和大路通に面して石段と立派な石の鳥居がある。道路沿いに巨大な石を重ねた塀があるが、これは秀吉時代に造られた方広寺の石垣である。鳥居をくぐってまっすぐ行ったところにある立派な唐門は、秀吉の居城であった伏見城の遺構と伝わる国宝だ。

 続いて拝殿、その奥に本殿がある。拝殿脇には、秀吉の馬印である千成瓢箪の絵馬がたくさん下がっている。ご利益は「出世開運、厄除招福、良縁成就」。なるほど、秀吉の生涯を考えると、どのご利益ももっともに思えるのだが、この人物が開運して出世した先に何があったのかを考えると、今ひとつ心が浮き立たない気もしてくる。

 敷地の左側には、秀吉の悲願だった大仏を祀った方広寺がひっそりと佇んでいる。大坂の陣の発端となった「国家安康」の鐘もそこにある。秀吉は神となって祀られる夢だけは果たしたが、あれほど望んだ豊臣家の繁栄も日本一の大仏も、すべてがはかなく消えてしまった。

 この神社の向かい側には、さらに悲しい歴史を物語る史跡がある。晩年の秀吉は、中国までも支配するといういささか誇大妄想的な願望にとりつかれ、朝鮮出兵に固執した。朝鮮に赴いた武将たちは、自分たちの武勇を、つまり殺した朝鮮の人々の数を秀吉に知らせるために、朝鮮の人々の耳や鼻を塩漬けにして持ち帰った。ここにあるのは、その耳や鼻を供養する「耳塚(鼻塚)」と呼ばれる塚である。

 晩年の秀吉はどんどん残忍な人物になっていく。おそらくその罪滅ぼしのために、より熱心に寺社を建立したり修復したりしたのだろう。そして最期は阿弥陀如来の浄土とみなされる阿弥陀ヶ峰に葬られた。ともかく神仏にすがれば、この世で自分が犯した罪は許されて極楽に行ける。心に闇を抱えた歴史上の権力者たちは、皆、そのように考えて寺社の建立にいそしんだのだろうか。

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