「本当にここで合っているのか?」原宿の“曖昧なラーメン店”が「看板なし」「シャッター半開き」で営業を続ける納得の理由

日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は東京・千駄ヶ谷のレジェンド「ホープ軒」牛久保陽一さんの愛するお店「時田屋」を紹介する。
原宿・神宮前でラーメンを食べに行こうとして、店を調べてその場所に向かったのだが、住所の辺りを探しても全然見つからなかった店がある。「時田屋」だ。店の前をウロウロする私を見た優しそうなお母さんが出てきて迎え入れてくれたが、「本当にここで合っているのか?」と正直不安になった。
看板はない。店名すらどこにも書かれていない。代わりに掲げられているのは「八百辰(やおたつ)」と書かれた古びたテント。しかもシャッターは常に半分閉まっていて、店内の様子はほとんど見えない。初見で入るには、かなり勇気がいる。
だが一歩中に入れば、そこには“温度”のある日常が広がっている。常連たちが自然体で食事をし、時には酒を飲み、店員と他愛もない会話を交わす。ラーメン屋なのか、町中華なのか、それとも居酒屋なのか――。そのどれにも当てはまり、どれにも収まらない、不思議な空間だ。

この場所のルーツは、ラーメンではない。もともとは「八百辰」という八百屋だった。
八百辰は、「時田屋」の店主・時田賢三さんの祖父が営んでいた町の八百屋で、近所の人々が日常的に野菜を買いに訪れる、ごく普通の個人商店だった。時田さん自身も子どもの頃、店に缶詰をもらいに行った記憶があるという。
「小中学生ぐらいまでは普通に八百屋でしたね。いわゆる町の八百屋って感じで」
祖父が亡くなった後、店はしばらく使われずに空いたままだった。その場所に転機をもたらしたのは、賢三さんの父親のひょんな思いつきだったという。
「じゃあラーメン屋でもやるか、みたいな軽いノリだったらしいです」
驚くべきことに、「時田屋」には明確な開業日すら存在しない。「今日からオープンです」といった節目もなく、いつの間にか始まっていたという。

しかも当初は、屋台をそのまま店内に持ち込んで営業しようか、というほどのラフさだった。この“軽さ”こそが、「時田屋」の原点であり、今もなおそれが店の空気になっている。
今や店の象徴ともいえる「看板なし」「半開きのシャッター」も、深い意味があるわけではない。
「看板は、作らないで今までやってきちゃったというだけですね。ノリで始まっちゃったから」
そしてシャッターが半開きなのは、さらに拍子抜けする理由だった。
「全部開けるのが面倒くさくてこうなったらしいです。あと、上まで開けると工事途中みたいな箇所が見えちゃうんで」

母親が自分の背の届くところまで半分だけシャッターを開けていたのが、そのまま店のスタイルとして定着してしまった。一度すべて開けてみたこともあったが、「丸見えで恥ずかしい」という理由で元に戻したという。
「もう風物詩みたいになっちゃってるんで、今さら変えられないですね」
結果的に、この「入りづらさ」が店の個性として機能しているのが面白い。
「時田屋」のもう一つの特徴は、その曖昧さにある。昼はラーメンや定食を出す食堂のような顔を持ち、夜は酒とつまみが楽しめる居酒屋になる。餃子やチャーハンもあれば、完全な中華料理ではないメニューも並ぶ。
「自分たちでもよく分かってないです。なんか食べられるところ、ぐらいでいいかなって」
町中華と呼ばれることもあるが、本人たちにその自覚はない。むしろ、カテゴリーに収まらないことこそが、この店の本質なのだろう。
そんな「時田屋」の看板メニューが、「から玉」と「背油ラーメン」だ。

まず「から玉」は、父がテレビ番組を見て思いついた一杯だという。
「昼の料理番組で辛いラーメンをやっていて、“あれ作ってみようぜ”といって始まりました」
驚くほどシンプルな誕生秘話だが、試行錯誤の末に現在の形にたどり着いた。細切れチャーシュー、タマネギ、ニラがどっさりで、卵とじの餡かけになっていて、特製の辛味噌でビシッと辛くしたラーメン。ジャンクで中毒性の高い一杯だ。
一方の「背油ラーメン」は、時田さん自身が加えたメニューだ。
父がかつて、恵比寿に会った背脂ラーメンの名店「香月」で修業していたこともあり、「じゃあ自分もやってみるか」と軽い気持ちで始めた。

「父が亡くなる直前に、『背脂を出そうと思うんだけど』と聞いたら、『やったらいい』と言われたので始めました。化調(うま味調味料)入れて、ニンニク入れて、脂多めにして。見よう見まねで作って完成しました」
驚くほど飾らない言葉だが、その一杯は確かな“中毒性”を持ち、今や店の二枚看板となっている。
そんなゆるさを持つ「時田屋」は、完全な家族経営だ。厨房は時田さんで、ホールは母親とその妹たち、いわば「三姉妹」が中心となって店を回す。
「みんな近所に住んでるんで、自然とこうなりました」
この家族の存在が、店に独特の温かさをもたらしている。常連客との距離も近く、会話が自然に生まれる。中には「お母さんたちに会いに来ている」ような客もいるのではないかと思わせるほどだ。
「時田屋」がオープンしたころの神宮前は、今のようなおしゃれな街ではなかった。
「昔はもっと普通の商店街でしたよ。八百屋があって、電気屋があって、ドライアイス屋があって」
それがここ20年ほどで一気に変化し、アパレルショップやオフィスビルが立ち並ぶ洗練された街へと変貌した。その中で「時田屋」は、取り残されたようでいて、しっかりと根を張っている。昼には近隣のアパレル関係者が訪れ、夜には地元の人々が集う。外の風景が変わっても、店の中の時間は大きく変わらない。

父からの代替わりはコロナ前に行われた。時田さん自身も有名ラーメン店で長く修業をしてきて、知識や経験もあったが、店を大きく変えようとはしなかった。
「特に何も考えてないです。近所の人に支えられてやっていければいいかなって」
原料費の高騰など現実的な課題はあるが、それでも無理に拡大したり、ブランド化したりする気はない。看板を出す予定もなければ、シャッターを全開にする予定もない。
「もうこれで定着しちゃってるんで」
変えないこと。それは消極的な選択ではなく、この店にとっては最も自然な在り方なのだ。
「時田屋」は、分かりやすい店ではない。初見では入りづらく、ジャンルも曖昧で、情報もほとんどない。だが、その「分かりにくさ」こそが、ここでは価値になる。偶然見つけた人が、少し勇気を出して扉を開ける。そこから常連になっていく。そんな物語が、この店には似合う。

「なんか食べられるところ、でいいかな」
その言葉通り、「時田屋」は今日も、説明しすぎることなく、ただそこにあり続ける。半分だけ開いたシャッターの向こうで。(ラーメンライター・井手隊長)
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