江戸時代、なぜ屋台に「車輪」はなかったのか?──“動けない商い”を成立させた都市規制の正体
車輪なき屋台の構造と規制
江戸時代の屋台の絵を見ると、車輪がないことに気づく。
【画像】「えぇぇぇぇ!」 これが明治初期の「浅草駅」周辺です!(9枚)
左が天ぷら屋台だが、これは部品を持ち込み現地で組み立てる方式。右の蕎麦の屋台は担いで移動する方式。ほかには、天秤のように棒の両端に商売道具をぶら下げて移動する屋台もあった。
なぜ江戸時代の屋台に車輪がなかったかというと、江戸時代の都市部では車両に税金がかけられたり、あるいは場所によっては禁止されるなど、規制がかけられていたからである(庄野新『「運び」の社会史』)。
重い車両と道路保護の制約

平亭銀鶏『街能噂』。国会図書館蔵(画像:近代食文化研究会)
これは江戸時代の大八車だが、車輪が大きく太いことがわかる。
江戸時代の車両は、固く丈夫な木を使った車軸と車輪を使用していたためたいへん重く、大八車を動かすには上の図のように3~4人の「車力」が必要とされた。
江戸時代の道路は土、橋は木でできている。重量のある車両を野放しにすると、道路や橋が削られ劣化するために、規制がかけられていたのだ。
明治時代は「車輪の時代」

人力車のイラスト。Isabella Bird『Unbeaten tracks in Japan』(画像:近代食文化研究会)
明治時代になると、欧米から「細い鉄の車軸」と「細い部品を鉄の箍(たが)で締めた車輪」でできた、軽い車両が導入される。その結果爆発的に増えたのが、人力車であった。
車両が軽量化された結果、ひとりの車夫がひとり~ふたりの客を乗せることが可能となった。車両の規制は解かれ、橋や道路の修繕費用は、広く薄く車両にかけられた税金によって賄われるようになった。
荷物の運搬も、大八車に代わって「箱車」(手車、荷車)が利用されるようになった。人力車の座席の代わりに箱を載せた車両で、数十キロの荷物をひとりで運搬することが可能となった。
これら人力車や箱車が苦手としたのが、坂である。
明治時代~昭和初期の坂には、「立ちん坊」という人々がたむろしていた。上り坂で車両を押したり、下り坂で速度が出すぎないよう後ろから引っ張ることで、料金をもらう商売である。
明治時代の終わりから、電力で動く路面電車、内燃機関で動く乗用車、トラックなどが次第に普及していくが、それまでの都市内輸送を担っていたのは、人力車や箱車などの人力で動く車両であった。
交通労働者のガソリンスタンド

人力車夫向けの大福餅屋台。乾坤一布衣『最暗黒之東京』(画像:近代食文化研究会)
人力車夫や車力、立ちん坊は体力を消耗する職業である。自動車にガソリンが必要なように、彼ら交通労働者には、エネルギー源となる食べ物が必要とされた。
食事のためにいちいち帰宅するわけにもいかず、かといって都合の良いところに外食店があるとは限らないので、マラソンの給水所のように、路上で交通労働者にエネルギーを提供する屋台が栄えた。
その代表格が、大福餅の屋台だ。
江戸時代の江戸で生まれた大福餅は、もともとは焼いて提供する冬の屋台グルメであった。この大福餅屋台が、交通労働者向けのエネルギー補給所に応用されたのだ。
“真っ黒い火入れの上に鉄板を置き、大福とか三角形の餅などをちょうど食べごろに焼いていた。ここに集まる定連は、車力、馬力、小僧さん、行き交う労働者などで、ここは一息入れる憩いの場所であった。”“大福には甘餡と塩餡とがあり、どちらも二銭だったが、塩の大福はばかにでかかった。”(野口孝一『明治の銀座職人話』)
交通労働者のエネルギー源として開発されたのが、「ばかにでかい」塩大福であった。
塩大福といっても、東京の巣鴨商店街で名物となっている塩大福のような、上品な菓子ではない。
餡には砂糖が入っておらず、その分浮いたコストで餅と餡の量を増やした、エネルギーと塩分補給に特化した大福なのだ。
内臓肉でビタミン補給

交通進化と屋台グルメの歴史。
1893(明治26)年の乾坤一布衣『最暗黒之東京』には、当時の人力車夫向けの屋台が列挙されている。
“おでん、煮込、大福餅、海苔巻稲荷鮨、すいとん、蕎麦ガキ、雑煮、ウデアヅキ、燒鳥、茶飯餡カケ、饂飩、五目めし、燗酒、汁粉、甘酒”
このうちの「煮込」「燒鳥」は、いずれも内臓肉を使った料理。
東京の居酒屋で「煮込」を注文するとモツ煮が出てくるが、この内臓肉の煮込の文献上の初出は1884年の服部誠一『東京新繁昌記初編』。人力車夫向けに路上で売ったのがその始まり。
焼鳥もやはり、下層労働者向けの屋台料理として生まれた。当初は鶏の腸などを焼いて売っていたが、明治時代終わり頃には、豚、牛、馬、その中でもとくに豚の内臓肉の串焼きを、東京では「焼鳥」とよぶようになる(近代食文化研究会『焼鳥の戦前史』)。
内臓肉にビタミンなどの栄養が豊富に含まれていることが明らかになるのは大正時代以降だが、交通労働者たちはそれ以前から、内臓肉が体に良いことを体験的に知っていたのかもしれない。