母の再婚相手「大学なんて穀潰し」進学妨害された鮎川ぱて氏が東大ボカロ音楽論の超人気講師を経て得た"呪いからの解放"
現役で東大合格→藝大大学院→東大の超人気講師に
今日は富山高等学校から現役で東京大学理科1類に入学。東京藝術大学大学院修士課程を経て就職。その後、東京大学で非常勤講師として教壇に立ち、現在、東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程に入学した鮎川ぱてさんにお話を伺いました。
【クリックして画像を見る】立ち見が続出する東大の大人気講義「ボーカロイド音楽論」を担当してきた鮎川さんはいま、ジェンダー/セクシュアリティを重視した批評も行っている。
鮎川さんは、東京大学の人気講義「ボーカロイド音楽論」を担当してきた人物です。2016年から東京大学教養学部非常勤講師であった鮎川さんは、2024年に東大の博士課程に進学しました。
現在、同講義は東京大学では指導教員である稲見昌彦教授との共同開講として継続されており、鮎川さんは東京藝術大学でも非常勤講師を務めています。

鮎川ぱてさんのアイコンイラスト(イラスト:鮎川さん提供)
ボーカロイド音楽論を担当するに至った経緯や、どうして学生に戻ろうと思ったのか、お話を伺っていきます。
鮎川さんは、富山県に生まれ、母子家庭で育ちました。小学校の時には塾に通って受験勉強を始め、富山大学教育学部附属中学校に合格します。
「中学校では塾には通っていません。学校での成績はぼんやりとしか覚えていないのですが、学校の中で良いほうでも悪いほうでもなかったです」
それでも優秀な中学校であったため、高校受験では富山県の御三家の一角である富山県立富山高等学校に合格し、進学することができました。
しかし、高校では成績が最底辺だったそうで、学年320人の中で下位1割でした。その理由としては、音楽に打ち込んでいたことが大きかったそうです。
音楽コンテストで全国大会に出場
「音楽を習わせてもらう機会はなかったんですが、ギターを買ってもらって独学でそれを演奏したり、シンセサイザーを買ってもらって作曲を中3の時に始めたりしていました。
高校1年生の時には、日本全国から1万3000のバンドが出るトーナメント式の音楽コンテストに出場して、全国大会に出る二十数バンドのうちの1つに富山県代表として選ばれました。
僕自身の演奏は下手だったんですが、僕が作曲した曲を披露するからキーボードのメンバーにしてくれていたんです。バンド内では、実質上の担当は作曲でした。年齢バレするから言えませんけど(鮎川氏は年齢非公表)……同時期に育成作家として事務所に囲われていた人には、その後そうそうたる作家になる人たちがいましたね(笑)」
「学校の勉強そっちのけで音楽ばかりやっていた」と語る鮎川さん。しかし、高校2年生の終わり頃に、同世代のバンドメンバーが受験を原因に脱退すると言いだしました。それで初めて、鮎川さんは大学受験を意識したそうです。
また、バンドメンバーの脱退と同時期に先生と親の二者面談があり、「親がこの世の終わりみたいな顔をして帰ってきた」と当時を振り返ります。
「『おたくのお子さん、入れる4年制大学ありません』と言われてきた、と。それで親が『こんなことなら音楽やらせなきゃ良かった』と言ったんです。『そんなこと言うなよ』と。『じゃあ大学に行きゃいいんでしょ、行ったら文句言わないでしょ』と言って、そこからほったらかしだった勉強について考え始めたんです」
最初は英語1教科と小論文で入れる慶應義塾大学のSFCを志望していた鮎川さん。しかし、みるみる成績が伸びて、センター試験では728/800点を記録。最終的には東大に合格することができました。
「最初は何教科もある国立は考えていなかったんです。1教科で入れるなら慶應SFCにしようと英語を勉強し始めました。でも、そうしたら手応えが案外悪くないんです。
じゃあ英語と数学と小論文を使う入試にしようと思ったのですが、2教科で模試をやっても、成績が悪くないんです。『あれ、SFC以外は諦めていたけどこれもしかして?』と思ってそこから1教科ずつ攻略していきました。
もしかしたら英数物理とかで私立の工学部に行けるかなと思っていたときもありますが、まさか理科2つ使う国立に手が届くとは思っていなかったんです。
高3の10月に化学をゼロからやっと始めて、センター試験の直前にセンターの範囲までの化学をギリギリ間に合わせて、そこから東大の2次試験のために化学IIを初めて勉強し始めました。
『超進学校の子は高1で終わらせてる内容を、いまさらなにやってるんだ』と泣き泣きでやってましたね(笑)。本番10日前に初めて見た高分子コロイドの分野が本番でも解けた幸運もあって、東京大学の理科1類に合格することができました。
この成功経験は、後述する「何歳だろうとやりたいことを取り戻せる」というその後の自分の考え方の根拠にはなっているかもしれません」
地方の学校から圧倒的な伸びを見せての合格に、鮎川さんは「音楽をやっていたことが大きいのではないか」と考えます。
「音楽理論は多分に数理的で、論理的・代数的な考え方が要求されます。自己解釈としては、音楽を真剣にやってたから、音楽をやって鍛えた論理力が受験数学などにも応用できて、思ったより成績が上がったんだと思います」
母親の再婚相手に「穀潰し」と言われ進学を断念
大学に入ってからの鮎川さんは、進学振り分けで文転し教養学部超域文化科学科表象文化論コースに進んだのち、音楽をやるために数年の留年を経て院への進学を目指しますが、当時いたコースの直上の大学院がギスギスした空間であると感じたため、そこではなく東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻に進学しました。
「現在に至るまでもそうですが、自身の最大のテーマは音楽だったので。それを考えるには別の視点があるんじゃないかということで藝大に行きました。藝大はいい環境で、お世話になっていた先生にも博士課程に来るように促されていました」
しかし、残念ながら鮎川さんの藝大での博士課程への進学は叶いませんでした。その理由は母親の再婚相手にありました。
「母子家庭で育ってきたのですが、中学生の時に母親が再婚しました。ただ、その配偶者の男性がおそらく嫉妬で、僕のキャリアを矮小化しようとしてくる人だったんです。
修士課程に行っているときも、その人は大学院の存在自体知らなかったんでしょうね。『みんな大学を出たら働いているのに、まだ大学にいようとするなんて穀潰しだ』などと言って、母や祖母に圧をかけたり、地方公務員の公募が出ているといった書類を無理やり母から僕に送りつけさせたりしていた。
母親の配偶者が、直接僕にではなく、母や祖母にストレスをかけていたんです。ずるいですよね。その状況に耐えられなくなり、それで博士進学を断念して就職することにしました。僕の来歴に責任を負わない他人の介入によって、でも自分から進路を変更した。人生の中でこの時が一番悔しかったかもしれないですね」
東大で教鞭「立ち見が続出する大人気講義」に
大学院を卒業した鮎川さんは、音楽業界と出版業界を行き来する働き方をしながら、東大で教鞭を取るようになります。
「東大に呼ばれて、本当に嬉しかったんです。なにせ、一度断念した道でしたから」
1コマにかける労力ではないリソースを割き、情熱を持って行われる授業は、立ち見が続出する大人気講義となり、『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』として出版され、6回重版されました。
そして東大で講義を始めて9年目を迎えた24年ごろ、一度は諦めた博士課程に行こうと決意します。その理由を聞いたところ、「今際のきわに、取らなかったことを後悔すると思ったから」と答えてくれました。
「東大で授業を持つという話をいただいたのが16年でしたが、とても嬉しかったんです。ただ、最大の喜びと同時に、あの時そのまま博士に進学して、博士を取っておけばという思いが強く募りました。東京大学の教員は博士号持ちが当たり前の世界でしたからね。
僕が最初に呼んでいただけたのは『ボカロ音楽の現場を知る人だから』という民間起用枠みたいなものだったんです。博士号をとっておけば良かったという葛藤も、16年から、喜びとともに始まることになるんです。
ただ、博士課程進学を拒んでいた母の配偶者の呪いが次第に解けていきました。何を思ったのか母に暴力を振るうようになったので、母も配偶者の異常性に気づいて、離婚を決めたんです。それで、家で博士課程に進むことに対して『穀潰し』というような人間はいなくなった。
また、いつの間にか時間が経って、東大も自分が学部生だった時とは雰囲気が変わりました。自身が学部生だった時に感じた、大学院の殺伐とした空気の悪さが変わっていると感じたことと、同じ東大でもどの研究室を選ぶかで全然違うとわかったんです。
17年から東京大学先端科学技術研究センター(先端研)の連携研究員という形で所属させていただくようになり、現在の指導教員の稲見昌彦教授に出会い、この先生にだったらついていけると思いました。
24年に一次試験の書類審査に単著を提出し、二次試験の面接を突破して、東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻の博士課程への進学を決めました」

東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻の博士課程に進学した(写真:鮎川さん提供)
「普通」に縛られる必要ってありますか?
こうして東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻に進んだ鮎川さん。社会人を経てから博士課程に入って良かったことを聞くと、「半分教員・半分院生の扱いでプロジェクトやゼミの運営などをさせていただけていること」「社会人を経験したおかげで、民間の方とご一緒するときの振る舞いを伝えられる場面もあること」と答えていただきました。
「超初歩的な、名刺のお渡しの仕方とかも含まれますけどね(笑)。でも、民間で得てきた経験をラボのメンバーに共有するのは地味だけど自分の役目だと思っています」

民間で得てきた経験をラボのメンバーに共有するのは自分の役目(写真:鮎川さん提供)
現在も博士課程の院生、そして東京大学と東京藝術大学の教壇に立ち活躍している鮎川さんに、最後にメッセージをいただきました。
「僕の主な対象は変わらず音楽ですが、ジェンダー/セクシュアリティを重視した批評を行っています。それが、ジェンダー論、フェミニズムの入門的理解を広めることへの貢献になっていると思います。
僕がフェミニストなのは、すごく簡単に言うと、やはり母子家庭出身だからです。僕は東大と藝大院の学費を母や祖母に出してもらいました。祖母は女性が大学に行くような世代じゃなかったので、最終学歴は尋常小学校の中等科です。
けれども、その時代に珍しいワーキングウーマンとして成果を上げた人でした。こんなのは『時代の制約』にすぎなくて、時代が違って今だったら、祖母は、自分の力で大学に行けた人間だと思います。だからでしょうね、家族の中でも、祖母は僕の東大合格やその後の進路を一番応援してくれました。
自身がジェンダー論の議論で伝える概念として、ノーマティビティ(人がそれを「普通」と思っている規範)があります。ときに言語化されないけど、『普通みんな、こうするものだよね』とされている概念です。恋愛の対象が異性に向いているヘテロセクシュアルや、出生時の性別と本人の性別が一致しているシスジェンダーであることを自明視すること。
それらはとくにセクシュアル・ノーマティビティと言われるもので、そういう風潮は世の中にまだまだ残っていますが、そういうものに縛られる必要はないよということを伝えたくて、セクシュアル・ノーマティビティ批判の講義をやっています。
今回の記事で、最後に先生モードになって1つ覚えていただきたいキーワードを紹介させていただくと……テンポラル・ノーマティビティという概念があります。時間的なノーマティビティです。
18歳の次に大学に行く、22歳になったらネクタイを締めて会社勤め、30歳くらいで結婚して子供を産んで、35歳までにはマイホームローンを始めたほうがいいよねとか、何歳にこうすればいいよね、をめぐる普通さ、規範のことです。
これもセクシュアル・ノーマティビティと同じように相対化されるべきものです。ノーマティビティは、透明な怪物として、社会の中のいろんな場所を徘徊しています。
50歳で結婚してもいいし、70歳で大学に入学してもいい。濱井さんのように、どうしても入りたい大学に9年かけて合格してもいい。触ったことのないピアノを習い始めてもいい。『◯歳にもなってわざわざ〜をするなんて意味ない』という声こそ無視してください。
人生は限られている。だからこそ、外野の怪物の声にそそのかされることなく、いまやりたいことを、好きにやっていってほしいと思います。少なくとも僕はそうしています。あなたに『もう手遅れ』なことなど存在しない。
テンポラル・ノーマティビティに縛られなくていい。そのことをお伝えしたくて、このインタビューをお受けしました。
『今まで奪われてた分は/取り戻すまでさ!』。OmoiさんというボカロPの代表作『テオ』(2017年)の一節です。あなたが何歳でも、あなたが取り戻したいと思うものを、取り戻してください。僕はそうしています」

AI生成による鮎川ぱて氏のイメージ。フェミニズムを論じているからには女性だろう、というAIの推論による。AIはときにノーマティビティを象徴し、強化する側面も持っていることに注意してほしいという(画像:鮎川さん作成)
「もう手遅れ」なことなど存在しない
東大と藝大の教壇に立ちながら、東大の院生を続けている鮎川さんは、これからも自分の人生を通して、ノーマティビティ批判を追求していかれるのだろうと感じることができました。

鮎川さんは2025年、ヨーロッパ最大規模のロンドンの美術館 、バービカン・センターのキュレーションにより、 ロンドンのTrans VoicesとベルリンのMONOMと国際共同作品を発表した。 同作は2026年、日本巡回予定。TRANS VOICES, ILĀ & MONOM, with contribution from Patty Ayukawa「UN/BOUND」(2025)