八王子城(東京都八王子市)急峻な山 丸ごと要塞に わずか1日で落城 戦国の姿「パズル」で復元

〈関東の推し城〉

 かつては戦の場として、また統治の拠点としてあった城。今では、つはものどもが夢のあと-と遠い昔に思いをはせるしかないものもあれば、郷土のシンボルとして街の風景の中でどっしり構えるものもある。関東各地で本紙記者が選んだ「推し城(おしろ)」をお伝えしていきます。

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 東京都心から電車で1時間。ピクニック気分で気軽に訪れることのできる八王子城(東京都八王子市)は、関東屈指の広さを誇る山あいの城跡だ。

御主殿に続く橋。石垣や石畳には、当時のものも利用されている=いずれも東京都八王子市で

 戦国時代の末期、関東一円を席巻した北条氏の3代目当主氏康の三男氏照が1580年代に築いた。天下統一のため関東制圧に乗り出そうとする豊臣秀吉を迎え撃つべく、標高約460メートルの深沢山を丸ごと要塞(ようさい)にしたのだ。

 山歩きの途中で目に入る幾重にも連なった防御の拠点である曲輪(くるわ)や、人の背丈を超える石垣は、440年前のままとされる。保存状態が良好なのは、この城跡が歩んだ特異な経緯ゆえだ。

440年前から残る石垣について解説する村山修さん

 1590年旧暦6月、秀吉方の前田利家や上杉景勝の軍勢による激しい侵攻によりわずか1日にして落城。「御主殿の滝」は、武将や女性、子どもらが自刃し、身を投げたため三日三晩、血の色で赤く染まったという伝説があるが、史実かどうかは不明だ。翌7月に徳川家の領地とされたが、徳川家康は江戸城を拠点とし、城下の人々も五街道の開設に合わせて現在のJR八王子駅周辺の宿場に移った。

 「江戸期には幕府の天領として江戸城で使う木材や炭を供給する役割を担い、明治期には国有林となった。人の手が入らずに残されたから、城跡の遺構は北条の時代のものと特定できるのです」

 八王子市文化財課の学芸員・村山修さん(57)はそう解説する。平成初期までこの歴史的価値には目が向けられなかったが、1990年、落城400年を機に整備と発掘調査が始まった。

 発掘で見つかったのは、建物や庭園の跡に加え、現在の中国である明から運ばれた磁器などの破片約7万点。落城の際に、敵に渡さないよう細かく砕いて破棄したとみられている。このほか、氏照の館があった「御主殿」の建物跡でいろりのような痕跡も確認されている。来客をもてなす前に汚れを落とすための湯屋か、接待をするときに料理を作った台所だったとみられ、戦いに備えるだけではない城の姿がうかがえる。

八王子城跡から出土した破片をつなぎ合わせて復元した皿=八王子市教委提供

 破片をつなぐ「正解のないパズル」(村山さん)のような作業を経て、約3500点の食器などが復元され、城跡入り口の「ガイダンス施設」に一部が展示されている。戦国時代末期の生活ぶりを推察する貴重な資料となっている。

 ガイダンス施設には、年末年始を除いて原則毎日、ボランティアのガイドが待機している。予約なしにぶらりと訪れても、詳しい解説を受けながら城跡を散策できる。

 ガイドを務める金子信一さん(77)は、八王子城を多くの人に知ってもらいたいと、NPO法人「八王子城跡三(み)ツ鱗(うろこ)会」を立ち上げた。城を愛する約70人が参加し、甲冑(かっちゅう)を自作して各地の祭りに武者行列として参加したり、小学生を対象に甲冑製作の教室を開いたりしている。

自作の甲冑をまとい練り歩く「八王子城跡三ツ鱗会」の会員ら=2025年撮影(同会提供)

 「秀吉の天下統一に最後まで抵抗したのが北条氏で、八王子城の戦いが戦国時代の終わりを早めたともいわれている。そんな歴史を画した要衝が、急峻(きゅうしゅん)な山中に当時のまま残されている」。金子さんは八王子城の魅力をそう語る。

 新型コロナ禍をきっかけに注目が集まり、近年は年間6万人強が訪れる。飲食は自由で、貴重な遺構のそばで弁当を広げる地元の人たちの姿も見られる。

 発掘作業は今も続いている。近くにある屈指の観光地・高尾山にも負けず、観光資源としての可能性をまだまだ秘めていそうだ。(皆川剛)

 JR中央線高尾駅北口1番バス乗り場より、西東京バス「霊園前・八王子城跡入口」バス停で下車、徒歩約20分。土日祝日は直通バスあり。見学は無料。ガイダンス施設の開館は、年末年始を除く午前9時~午後5時。ボランティアによるガイドの受け付けは、同午前9時~午後3時。

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