自爆し深海に沈んだH-Ⅱロケットのエンジンを、3000mの深海底から「引き上げる」という前代未聞の大号令
追悼・ロケットの神様「五代富文さん」(1)
日本の大型ロケットのフラッグシップ機、H3ロケット6号機の打ち上げが6月10日に迫った。H3は、2024年2月の2号機の打ち上げ後、連続5機が打ち上げに成功してきたが、2025年12月22日、8号機が打ち上げに失敗。失敗は初号機に次いで2度目だった。ロケットはおよそ100万点の部品からなると言われ、その1つでも不具合が起これば失敗につながるため、ロケットの開発製造は「究極のものづくり」と言われている。
H3につながる「100%国産力」で作りあげた最初の大型ロケットは、32年前のH-IIロケットだが、それを実現したリーダーは「ロケットの神様」と呼ばれる五代富文さんだった。私は五代さんと長年にわたる親交をいただいてきたので、いくつかの知られざるエピソードをご紹介しつつ6月10日のH3・6号機の成功を見守りたいと思う。
朝焼けの空を切り裂いて大空の彼方へと飛び立つ、美しい打ち上げ
今から32年前の1994年2月4日、早朝、種子島宇宙センターの竹崎観望台。
私は、国産技術100%で創りあげた初の大型ロケット、H-IIロケット試験機1号機の打ち上げを待っていた。打ち上げは日の出前の午前7時ちょうどの予定だったが、10分前に打ち上げは中止された。海上警戒区域に船が侵入したのだ。打ち上げは明日以降に延期かと思ったが、「20分遅れで打ち上げ実施」と発表があった。やれやれ。

現地で配られたH-IIロケット試験機1号機打ち上げの案内チラシ(山根一眞所蔵資料)
現在のH3ロケットより小さいとはいうものの、H-IIロケットは直径4m、高さがマンションの16階相当の49.9mあり、総質量は264トン、大型観光バス20台分もある。初めて見る大型ロケットは想像を超える巨大マシンだった。

種子島宇宙センターに展示しあるH-IIロケットとH3ロケットの比較(写真上・山根事務所、図・JAXA)
午前7時20分、3km離れた発射台のH-IIロケットの底部からまばゆいばかりの閃光が発し、細長いマンションがふわりと宙に浮き、天へ向かって飛び上がったように見えた。
報道の撮影ポイント、竹崎観望台から発射点までは約3kmあるため、打ち上げ時の轟音が届くには音速で8.8秒かかる。つまり打ち上げ時の閃光、そして離陸していく姿は「光速」(ほぼ瞬時)で届くが、離陸から8.8秒間は無音なのだ。「ふわりと宙に浮いた」ように見えたのは、音が届いていなかったからだった。そして遅れて届いた打ち上げ音は、大空が巨大な太鼓となって打ち鳴らされている感じがした(オンライン中継では得られぬ体験です)。
H-IIは、朝焼けの空を切り裂いて大空の彼方へと消えてゆき、打ち上げは成功した。後、ここで何度も打ち上げを見ているが、この日ほど美しい打ち上げはなかった。
五代富文さんとフィギュアスケート
H-IIの開発を指揮した五代富文さんは、1932年(昭和7)9月10日、東京生まれ。
1957年(昭和32)、東京大学工学部航空学科卒業後、富士精密工業に就職、1961年(昭和36)までロケット設計、研究に携わった(同社は、プリンス自動車、日産自動車などを経て、IHIエアロスペースに発展)。
後、1982年(昭和57)まで航空宇宙技術研究所(通称NAL、後JAXAに統合)でロケット研究、宇宙工学を担当。途中、1964年(昭和39)にカルフォルニア工科大学機械学科に留学、1976年(昭和51)に工学博士。1982年(昭和57)、宇宙開発事業団(NASDA、現在のJAXA)の発足とともに移籍し18年間にわたり大型ロケット開発を牽引、2000年(平成12)の退職時はNASDA副理事長だった。
日本航空宇宙学会、日本ロケット協会の各会長のほか、IAF(国際宇宙航行連盟)会長をつとめ2020年にはIAF宇宙殿堂入り、世界を代表するロケットエンジニアだった。
昨年7月24日逝去、享年92歳。

五代富文さん。1994年当時(写真・山根事務所)
この五代富文さんの父、五代正友氏が日本初のフィギュアスケート大会で2年連続優勝した「フィギュアスケートの父」の一人だったことは先回紹介した。
- じつは、ウィキにも出ていない事実…驚愕。フィギュアスケートと、国産ロケットH-IIの、意外すぎる関係
- 戦前にもいた、浅田真央並みの天才少女。なんと、当時12歳…日本フィギュア草創期。ドイツ五輪に参加した日本チームを巡る真実
ロケットエンジニアである五代富文さんは、父、五代正友氏からフィギュアスケートを指南されるなど大きな薫陶を受けて育ったが、その父は実は大物エンジニアだった。
ロケット技術者を育んだレンズ
1936年(昭和11)2月6日〜16日、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヘンで開催された冬季五輪は、日本のフィギュアスケートにとって2度目の五輪参加だった。そのドイツ冬季五輪を1年後に控えた1935年(昭和10)2月、『讀賣新聞』は、「大日本スケート競技聯盟副会長、五代正友氏に聴く」という記事を掲載した(2月25日付)。その中で五代正友氏は、「稻田嬢は五位以内 男子はよくて八位」と予測しているが、実際はいずれもおよばなかったが。

1935年2月25日付讀賣新聞記事の一部。
日本のフィギュアスケートは、その前の1932年(昭和7年)レークプラシッド冬季五輪(米国)が初参加だったが、男子シングルでは老松一吉が9位、帯谷竜一が最下位の12位だった(女子シングル、ペアはなし)。
五代正友氏は、讀賣の記事中で、「レークプラシッドの大會の當時は出場して貰ふ選手に氣の毒でした、老松、帶谷兩君にしても日本から最初の出場ですし問題にならない事は判ってゐたのですが、苦心して奮闘してくれました」と、ねぎらいの発言をしているが、このレークプラシッドで貴重な記録を得たことを明かしている。フィギュアスケートに出場した欧米一流選手の演技を16ミリ映画カメラで撮影していたのだ。
当時、映像記録はフィルム式の映画カメラを使うしかなく、アマチュアや報道はフィルム幅が映画用のほぼ半分、16mmの小型映画カメラを使っていた。最初の小型映画カメラは1923年(大正12)7月、米国のKODAK社が初めて開発・発売、価格は335ドルだった。乗用車、T型フォードが300〜400ドル(1924年)だったので、今なら300万円相当だろう(後に半額以下になった)。

世界初の16mm映画カメラCine-Kodak Model A(出典・www.kinocameras.com)
フィルム送りは本体右のクランクを1秒間に2回のペースで、手で回す。フィルムは100フィート(約30m)を使うが、缶入りの生フィルムの撮影時間はたったの2分45秒なので頻繁なフィルム交換が必要だった。五代正友氏は「千六百呎(フィート)寫(うつ)して來たのが特に役立つてその後の進境は目立って來ました」と語っている。
選手たちは、その映像記録で学んだからだろう、「あの演技は欧米の◯◯選手のマネをしている」とわかるほどだったという。日本のフィギュアスケートは、こうして欧米に「模倣」し「学び」ながら少しずつ、少しずつ成長をとげてきたのだ。
90年以上前に、登場したばかりの小型映画カメラという「光学機器」で外国選手の演技を撮り研究しようという着想には驚くが、五代正友氏が当時貴重品だったはずの映画カメラを採用したのは、五代正友氏が「光学機器の技師」だったからなのだ。
『日本光学工業株式会社 50年の歩み』などによれば、五代正友氏は1940年(昭和16)〜1944年(昭和19)には日本光学(後のニコン)の製造本拠地である大井製作所の工場長をつとめている。つまり、ニコンのトップ技術者だったのだ。レークプラシッドの映像記録は、日本光学の保有機を貸し出して撮影したのではないかと思う。
少年時代、五代富文さんは父の勤務先である大井製作所に遊びに行った際、規格外品の大型レンズをもらい、望遠鏡作りをしている。技術を目指して父と同じ東京大学の工学系に進んだのは、自然なことだったのだろう。
花が咲いたアップル談義
その五代さんに初めてお目にかかったのは、H-II初号機打ち上げの2か月ほど前だった(当時、五代富文さんは61歳)。H-IIロケットの開発話を、週刊誌連載「メタルカラーの時代」に書くのが目的で、打ち上げの下見も兼ねて、初めてNASDA(宇宙開発事業団)種子島宇宙センターを訪ねたのだ。ここは総面積約970万平方米、およそ300万坪、五代さんはセンター長で、NASDAの理事でもあった。
インタビューを始めようとしたところ、五代さんのデスク上にアップル社製の小型端末「ニュートン」が置いてあるのに気づき、目が釘付けになった。
私は、アップルが1984年に発売した世界初のパソコン「Macintosh 128K」に感動し没頭、今日までの42年間、Windowsパソコンは1回も使わないできたマック至上主義者だ。
だが当時、アップル社製品の先進性を理解し、愛用している人はごくわずかだった。それだけに、五代さんが発売したばかりのアップルのPDA(Personal Digital Assistant・携帯情報端末)「ニュートン」を持っていることに驚き、H-IIロケットそっちのけで「携帯端末」やら「アップル話」で盛り上がってしまった。史上初のスマホ、iPhoneが登場したのはそれから13年後だが、お互い、やがて到来するスマホ時代の予感を感じながら語り続けてしまったため、気づいたら約束の時間が終わっていた。
H-IIの取材は後日、東京で行えたので、打ち上げ前に記事として出すことができたが、その東京のオフィスでの取材時に私はアップルの愛用ノートPC、PowerBook Duo 250を持参したため、この日の取材も半分はマック話だった。以降、私と五代さんは長く、宇宙開発とアップルによる絆が続いたのだった。

東京でのH-IIロケット取材に私が持参したアップルのノートPC(PowerBook Duo)で盛り上がった。(写真・山根事務所)
先進性、大胆さが牽引した大型ロケット開発
種子島宇宙センターでは何度も大型ロケットの打ち上げを見てきたが、やはり1994年のH-IIロケット初号機の印象が強い。五代さんは、そのH-IIの能力を、誇らし気にこう語っていた。
H-IIは、高度300~400kmの低軌道(スペースシャトルや国際宇宙ステーションの軌道)へは、大型バス1台分、約10トンのものが上げられます。通信衛星、放送衛星、気象衛星などは地球表面の赤道上3万6000kmの「静止軌道」ですが、そこへは2トンの荷物が上げらます。トヨタのクラウンが1.57トンですから、これに体重70〜80kgの人が5人乗り、後部トランクにゴルフバックを4つ乗せると2トン。それくらいのモノを静止軌道に乗せられるわけです。
ロケットは自重が260トンなので、衛星という荷物1トンあたり120トンです。ところがさかんに商業衛星を上げているヨーロッパのロケット、アリアン4は自重460トンで衛星が同じ2.2トン。衛星1トン当たりロケット重量が210トンもある。日本のH-IIは、エネルギー効率が2倍。これは、声を大にしていいたい部分です。
(拙著、文庫版『メタルカラーの時代6・ロケットと深海艇の挑戦者』小学館)
というH-IIロケットだが、4号機を打ち上げた直後の取材時、「すでに後継機の開発を進めているんですよ」と言うのである。
――どうして早々と後継機の開発を?
五代 これまで打ち上げてきたH-IIは「ファースト・バージョン」です。みな必死になってやっとできたが、すべてが完璧主義で作られていて結果的にはオーバーデザインになっていました。実際に作ってみないと計算だけではわからない部分が多かったからです。燃料の水素が流れてきて温度が何度になるか、すべての部分の予測ができるものではない。わからないから構造も複雑になっていた。設計通りに機能しなかったときのことを考えて余裕、マージンをそれぞれのパートの技術開発者があちこちに相当ためこんでいましたからね。
――飛ばしてみて初めて、必要、不要がわかる?
五代 いや、飛ばす前に、次はどうすべきかの情報の9割は得ていました。LE-7エンジンの開発者たちは、燃焼試験段階で爆発事故が続いたこともあって目の前にあるエンジンに必死だったが、私はその最中に、「今から次の世代の改良型エンジンの設計を手掛けてほしい」と伝えました。ひどいことをいうヤツと思われたでしようが、非常に早い時期から「H-II改良型」の開発を立ち上げていたんです。
鉄は熱いうちに打てと言うでしょ。 大仕事をしているときはトラブルにも見舞われる。でも、ひと仕事終わると忘れちゃう。ですから、まだトラブルに見舞われているときに、「こうすればよかった」という現場のマインドを次の設計や製造技術に反映させるべきなんです。
―― どのような設計変更、改良を?
五代 今までの(液体水素と液体酸素の)燃料タンクの先端は「半球」だった。それを「半球をつぶした形」、シャローというデザインにし搭載燃料を増やしました。ところが「半球をつぶした形」のタンクは製造が難しい。そこで、H-IIの後継機は、アメリカのデルタロケットと同じものを使うことにした。「純国産主義」から「国際主義」に変えたんです。
――えっ、やっと100%国産技術で作ることができたのに、それをやめる?
五代 H-IIロケットは純国産で作ることができた。できればしめたもので、今後、いざとなれば独自に作れる。なので、安心してビジネスを考え、コストが低く作りやすい(国産ではない)モノ(部品、部材)も使えばいいと考え、外国の技術や部品でいいものがあればどんどん採用していこうと。1号機の成功直後にはもうそう考えていました。

N-Ⅰロケット(1975〜1982)からH-Ⅰロケット(1986〜1992年)までアメリカの技術頼りだったが、H-IIで初めて100%国産技術で作りあげた。(出典・NASDA)
五代さんの大型ロケット開発は、こういう先進性、大胆さで進められたのだ。
そのことが効を奏したのは、1999年11月15日に打ち上げた7機目のH-IIロケット8号機の打ち上げだった。
その日、私はブラジル、アマゾン河口の大都市、ベレンのホテルにいたが、種子島で取材中のカメラマンからあわてふためいた電話があった。
「H-IIの8号機、司令破壊されました!」
司令破壊とは、ロケットに爆破のコマンドを送信して自爆させることを意味する。
8号機は1段エンジンであるLE-7の破損によって推力を失ったため、高度46kmで司令破壊され、小笠原諸島の北西、約380kmの海上に落ちたのだ。

司令破壊のコマンドを送信した種子島管制センターのパネルの実物。コマンドの送信、エンジンの推力停止、破壊(自爆)のスイッチが並ぶ(山根所蔵史料)
残骸は3000mの深海底に沈んだが、何と五代さんは「原因究明のためエンジンを引き上げよう」と命じたのだ。
それを託されたのが、海洋科学技術センター(現・JAMSTEFC)の門馬大和さんのチームで、深海底のエンジンを奇跡的に発見、引き上げるまでの物語は、2000年5月、週刊誌のスクープ記事として3週にわたり掲載し大きな話題となった。四半世紀前の記事だが、久々に読み、自著ながらわくわくしてしまった(拙著『文庫版・メタルカラーの時代6・ロケットと深海艇の挑戦者』小学館、に収載)。

H-IIのエンジンを引き上げた海域、小笠原近海の孀婦舟状(そうふしゅうじょう)海盆(作図構成・山根一眞)
打ち上げた後のロケットの失敗では、その残骸を手にして原因を探ることはほとんどできない。宇宙空間に出てからのトラブルの原因解明は、「病で伏している将軍を、御殿医が障子をはさんだ外側から診断するようなもの」と言われてきた。それだけに五代さんの「深海底から引き上げよう」という命によって引き上げての徹底的なエンジン分析は、後のエンジン開発に多大な貢献をもたらしたのだ。
引き上げたLE-7の解析から、燃料である液体水素(-250度C以下)を猛然たるパワー(F-1カーのエンジンの4倍以上の高速回転)でエンジンに送り込む「ターボポンプ」内で、液体水素がキャビテーションと呼ぶ泡による振動を起こし、ポンプの羽が破損したことが明らかになった。

ターボポンプの破断の解析は、NASDAつくば宇宙センターのお隣、金属材料技術研究所、現・物質・材料研究機構などが協力した(出典・山根所蔵資料、『H-IIロケット8号機LE-7エンジンの事故調査報告—破面解析報告—』2000年12月21日、金属材料技術研究所)
このH-IIロケットの失敗は、当時のNASDAに暗く重くのしかかった。次世代ロケット、H-IIAの打ち上げが迫っていたものの、NASDAの重鎮たちは「もはや日本のロケット開発は国民の支持を得られないのでは」という不安に見舞われていた。
(続く)