零戦隊の「名指揮官」は「非行将校」だった…水戸の料亭で暴れた彼が戦後に迎えた驚くべき「因果応報」
太平洋戦争が始まったのはいまから85年前の昭和16(1941)年。いま、その直前の時代のことも合わせて真っ暗なイメージでとらえられがちである。だがじっさい、太平洋戦争開戦の直前まで街は賑わい、青年たちはそれぞれの立場で青春を謳歌していた。今回はそんな話である。
【前編を読む】<太平洋戦争開戦直前の銀座で青春を謳歌した海軍士官たちの週末>
金に執着するものはいなかった
霞ヶ浦や筑波での練習機での訓練が終わると、専修機種に応じてそれぞれの練習航空隊に異動する。当時、戦闘機専修の訓練部隊は大分海軍航空隊だった。
大分空でも、週末に自由に上陸(外出)できることには変わりはない。大分の町と航空隊の間を流れる川で魚釣りをしたり、大分の近場の料亭に行くこともあったが、ここでの彼らの遊び場は、もっぱら別府であった。別府には温泉や料亭はもちろん、今でいうダンススタジオのようなところも揃っていて、娯楽には事欠かなかった。
料亭で芸者を上げて飲んで騒いで、朝まで泊まって30円ほど。皆、明日をも知れぬ命と思い、金に執着するものはいなかった。もし、給料日前で金が足りなくなっても、お互いに融通しあって、同期性が支払いで恥をかくようなことはさせないのが、戦闘機乗りの気風だった。
ただ、たまに羽目を外しすぎて問題を起こしてしまう例もあった。支那事変より前にはこんなエピソードがある。

鈴木實(のち中佐)。水戸の料亭で酔って暴れ、洋楽のレコード50枚を割ったが、戦後はキングレコード洋楽本部長となる
海軍では、料亭のことをレス(レストランの略)、芸者のことはエス(SingerのS)、と呼ぶような隠語がある。酔って暴れて、物を壊したりすることを『イモを掘る』という。海軍兵学校六十期を中心とする第二十六期飛行学生が、昭和10(1935)年2月、梅見の宴にと、霞ケ浦から連れだって水戸に出かけたときのこと。
「飛行将校」ならぬ「非行将校」のあだ名がついた
「飛行学生の同期生総員で水戸に梅見に出かけたんですが、水戸のレスで、そのうちの何人かが酔っ払い、エスにつれなくされたことに腹を立ててイモを掘った。ぼくも、西洋音楽のレコードを約50枚、『こんな外国の音楽が聴けるか!』と、酔った勢いで叩き割った憶えがあります」
と、このとき一行に加わっていた鈴木實(のち中佐)は私のインタビューに語っている。
横須賀、呉、佐世保などの軍港地や、土浦など、昔から海軍基地と共存してきた町なら、この程度の騒ぎは、「酒の上での失敗」ということで、あとで弁償すれば大目に見られた時代。だが、水戸の町で、それは通用しなかった。料亭での器物損壊事件は憲兵隊の知るところとなり、憲兵隊から陸軍大臣経由、海軍大臣宛てに、「海軍士官非行の件通知」と題した、当該士官の処分を求める文書が提出され、大問題になったという。
「霞ケ浦海軍航空隊の飛行長・小田原俊彦少佐が海軍省に嘆願してくれたおかげで、『飛行学生罷免』という最悪の事態だけは免れ、罪一等を減じて『戒告』、『始末書提出』という処分で済みましたが、われわれには『飛行将校』ならぬ『非行将校』のあだ名がつけられました」

昭和10年2月、水戸の料亭で暴れて憲兵隊が駆けつける騒ぎを起こし、「飛行学生」ならぬ「非行学生」と呼ばれた第二十六期飛行学生。前列左から鈴木實、進藤三郎、2列目左端横山保、右端山下政雄
鈴木は戦時中、零戦隊の飛行隊長として、オーストラリア本土上空で、イギリスの誇る名戦闘機・スピットファイアとの空戦で一方的な勝利をおさめたことで戦史に名を残しているが、戦後はまったく畑違いのレコード会社に身を投じ、キングレコード洋楽本部長として、ローリング・ストーンズやカーペンターズら、多くの海外アーティストを日本で売り出した。戦後の混乱期、焼け跡で復興を始めたレコード店を訪ねまわって売り込みをしながら、水戸で洋楽レコードを叩き割ったときのことを思い出し、「因果応報」の言葉の意味を噛みしめたと言う。
「非行将校」には錚々たる面々がいた
このとき一緒だった「非行将校」のなかには、昭和15年9月13日、重慶上空での零戦のデビュー戦や、昭和16(1941)年12月8日、真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊の指揮官をつとめた進藤三郎(のち少佐)、開戦劈頭(へきとう)、フィリピンや東南アジアの連合軍航空部隊を壊滅させた零戦隊指揮官の横山保(のち中佐)、激戦地ラバウルで零戦隊を率い、戦後は東亜国内航空(現在は日本航空に合併)の創始者のひとりとなった山下政雄(のち少佐)ら、錚々たる面々がいる。

「非行学生」と呼ばれた一人、山下政雄は戦後、小さな航空会社を興し、それが東亜国内航空(現在はJALに合併)の基になる
もし彼らが、水戸での不祥事で「飛行学生罷免」の処分を受けていたら、のちの戦争だけでなく、戦後の航空界や音楽業界の様相もいくぶん違ったものになっていたかもしれない。これも歴史の小さな「if」と言えるだろう。
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