「犬の頭がクマの口にすっぽり…」それでも母グマがとどめを刺さなかった理由【9回襲われても生還したクマ研究家】

Photo:PIXTA

都内でクマの目撃情報が相次ぎ、「もし街中で遭遇したらどうすればいいのか」と不安が広がっている。だが、実際にクマに出会ったとき、彼らは必ずしもすぐ襲いかかるわけではない。3000回以上クマに遭遇し、9回襲われながら生還してきたクマ研究家が明かす、知られざる“威嚇攻撃”の実態と、母グマが見せた意外な行動とは。※本稿は、日本ツキノワグマ研究所所長の米田一彦『家に帰ったらクマがいた』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。

初めて遭遇した

クマの“威嚇攻撃”

 クマの観察で入山するとき、私は「この先に危険が待っている」と五感を研ぎ澄ませてきた。それでも過去にツキノワグマに9回襲われ、威嚇攻撃にも3回遭っている。

 クマの威嚇のことを他のクマ研究者に話しても興味があるふうではなかった。

 1996年9月16日、小雨が雨合羽を打つなか山道を歩いていると、前を行く飼い犬のケンタが振り返った。雨の音で何も聞こえないので振り返ると、クマがゆるりと近づいてくる。

 私は杉の木の後ろに体の前面をぴたりとつけてクマの様子をうかがった。ずぶ濡れのクマも杉の木の後ろに頭をつけるようにして隠れて、互いに動きが止まった。

 ケンタが戻り「わっわっ」とクマにほえた。

 突然、クマが山なりに、ぴょんぴょんと飛び跳ねて来て両前足を揃えて30センチメートルほど空中に上げた。次いで地面をばしっと叩いて、くるりと翻り、25メートルほど離れた所でぐるぐると小さく回って、また飛び跳ねて来て地面を打ちつけた。

 その後、急激に興奮を和らげて右後ろ足を小さく上げ、ちろっとナラの木に向かって小便をひっかけ、私たちに背を向けて沢に降りた。

 後ろ足を上げて排尿するのはオス、腰を下ろすのはメスだ。

 80キログラム近いクマが地面を叩くと地面が小揺れして杉の枯れ葉、枯れ枝が飛び跳ねた。

 このクマは何かの葛藤が昂じて、どうしようもない風情に見えた。これ以上近寄るなという脅しの威嚇と思うが、遠ざかる私の背中のほうから来ている、この場合は人間と犬を嫌って「早く去れ」と示威しているのだろう。

 私にはクマによる初めての威嚇攻撃だった。手順を踏んで私を脅かすクマは面白かった。一段、攻撃性の低い甘味がある野生を感じたものだ。

老猟師が“穀潰しの老犬”を

母グマにけしかけてみると……

 1997年3月末、島根県M町の老猟師はある犬のことをこう言った。

「イノシシ狩りによう働いたがのう、老いて役に立たんようになって……そうだ、クマにけしかけてみよか」

 1991年の19号台風で倒れたコナラ林を切った斜面に残った切り株の、根が上がってできた穴に母子グマは越冬していた。前の日、ここで下草刈りが行なわれていて、作業員が穴の真横を通ると母グマにほえられて仰天、草刈機をほおり投げて役場に通報していた。

 翌日、私と町役場、県の担当者、老ハンターとで状況を判断するために現地に向かった。

 60メートルほど離れた穴の前に草刈機が2台転がっている。担当者たちは、クマはもう逃げただろうと楽観的に見ていた。私は、子グマがいるならまだ潜んでいると思ったが、この冬に生まれた子グマか昨年に生まれて2年目を親子で過ごしているかで状況が違うので、慎重に見極めていた。事態が進展しないことに苛立った老ハンターが、犬をクマにけしかけると言い出したのだ。

 その大型犬は毛もぼさぼさ、長年の野獣との闘いで顔中傷だらけで精気がなく、目の玉は白濁して涙目だ。その犬が、はたとクマの穴のほうを見て耳をびしっと立てた。老ハンターは犬の雰囲気から穴にクマがいると直感し、共に血がたぎったようで、老人は犬の鎖を外すと犬は茂る潅木をものともせず走った。

 老ハンターは一瞬「しまった」というふうに手で犬を呼び戻す仕草を見せたが、犬は逆上してしまっていて穴に頭を突っ込み「わわっわわっ」とほえ続けた。

 母グマも「ガオーン」と頭だけ突き出しほえ返した。犬はさっと引き下がりクマも下がると、またほえついた。

 クマが身を乗り出し、とうとう外界に全身を晒した。それでも犬がほえつく。クマは「ガオーッ」とほえながら穴から出て犬を10メートルほど追い、穴に戻った。

 私は目をみはった。母グマは子グマを守って穴を出ることはないと思っていたからだ。

私を見上げる母グマ(右)と1歳の子グマ 同書より転載

愛犬を食い殺され

老ハンターは怒り心頭

 しばらく互いに押しつ戻りつしていたが、犬がほえついたのと同時にクマが大口を開けてほえると、犬の頭がクマの口にかぽっとはまった。

 犬は「フエーっ」と悲鳴を上げて痙攣していたが動かなくなり、クマも犬を咬んだまま動かない。

 10分ほど経ってクマはぺっと吐き捨てるように犬を放したら、犬はころころと沢の下に転げ落ちて止まった。

 老ハンターの心に犬を食い殺したクマへの怒りと、けしかけた自分の判断の誤りへの悔いがないまぜに吹き荒れ「犬を食い殺したクマなど危なあけえ、わしがやっちゃる」と軽トラを駆って家に鉄砲を取りに戻った。

 クマも犬も死んだ春は悲しい。「穀潰しの犬」と言いつつ愛犬の死を怒った老ハンターはその後、残された子グマたちを育てたら大きくなり過ぎて、手に負えなくなり引き取り先を探している、と10年後に聞いた。母グマは死んで幼子たちを残していたのだ。悲劇と美談、どこか物悲しく滑稽な事件だった。

 あの日から12年後にさらなる後日談を役場担当者から聞いた。

「あの咬まれた老犬はあの後、動物病院に連れて行かれて数年生き長らえたんですよ」

 私の心にあの日の春風が通り抜けて清々しいきもちになった。母グマは自分の死は受け入れたが、犬は殺さなかった。

 一方で不思議もある。

 犬はクマに頭をすっぽりと咬まれたのに、なぜ死ななかったのだろう。犬が主人を優しく咬む「甘咬み」に似た咬み方だったのだろうか。

『 家に帰ったらクマがいた 』(米田一彦 PHP新書、PHP研究所)

 ひとつの考え方だが、あのまま犬を咬み殺していたら「血」によって食本能が覚醒されて、赤子グマたちを食うことを恐れたのかもしれない。

 私が小さい頃、飼っていたネコが、産んだばかりの子猫を私の目の前で食ったことがある。母ネコが、まだ若い子ネコたちを育てる自信がなかったみたいだ。

 秋田県阿仁町のマタギの統領から聞いたことだが、残雪期の巻き狩り中にクマの越冬穴に猟師が近づくと、赤子グマを食って逃げることがあったそうだ。

 母体が残れば次の子グマを産むことができる、野性の切ない宿命だ。

 母グマは子グマを生かそうと外敵を傷つけなかった。