「徳川家康・織田信雄連署状」など1万6千点のお宝発見 松山藩旧大名家が代々受け継ぐ

久松松平家9代当主、定国の肖像画と22代当主で一般財団法人「久松常磐会」の久松雷太理事長=松山市(前川康二撮影)
旧松山藩主・久松家に代々受け継がれてきた歴史資料から、詳細が判明していなかった松山城三之丸御殿を立体的に表現した絵図や歴代当主の肖像画、室町時代から昭和までの書籍、服飾品など新出資料を含む約1万6千点が見つかった。久松家が設立した一般財団法人「久松常磐会」の依頼を受けて愛媛大が調査していた。調査にあたった胡(えべす)光教授(日本近代史)は「旧大名家の資料がこれだけまとまって見つかるのはまれ。歴史的価値の高い一級品の資料群」と評価している。

松山城三之丸御殿が詳細に描かれている「三之丸図」(愛媛大提供)
蔵に眠る伝来の品々
久松家は戦国時代、徳川家康の母・於大の方と久松俊勝の間に生まれた定勝が松平姓をたまわった。その息子、松平定行が寛永12(1635)年に15万石で入封。以来、16代にわたって藩主をつとめた。明治維新後は旧姓の久松に戻り、華族の伯爵家に列せられた。
今回発見された歴史資料群は、久松家の蔵で長年保存されてきた久松家伝来の品々。愛媛大によると、定行が松山藩入封時に持ち込んだ品や、18代当主に当たり昭和26~46年にかけて愛媛県知事を務めた定武氏ゆかりの品も含まれるという。
胡教授は「旧大名家は明治維新後さまざまな経緯をたどるなかで、そのゆかりの品々も散逸しているケースが多い。『三百諸侯』の中でもこれだけ大量に見つかることは極めて珍しい」と語る。
当時の姿が明らかに
「三之丸図」は、明治3(1870)年に焼失した松山城三之丸御殿を鳥瞰(ちょうかん)的に描いたもので、建物の間取りや壁、畳、庭木の様子なども詳細に描かれている。これまで三之丸の姿を伝えるものは平面図しか確認されていない。当時の姿が今回の図面で判明したことで「将来的に三之丸御殿復元につながる可能性もある」(胡教授)。

「徳川家康・織田信雄連署状」。小牧・長久手の戦いについて記されている(愛媛大提供)
「徳川家康・織田信雄連署状」は、家康・信雄が羽柴(豊臣)秀吉と激突した天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いに関する書状。家康と信雄の2人の花押があり、大坂に攻め込んだことなど当時の戦況を伝えている。この戦いにおける家康側の資料は珍しい。
「領知判物」の写しは、幕府が久松松平家の領地支配権を承認した文書で、松山藩15万石を治めていたことを公的に証明する資料。3代・定長から15代・勝成までの写しが残されており、原本は大政奉還を機に明治政府に差し出されたとされる。このほかにも、9代・定国から15代・勝成までの肖像画や歴代藩主が詠んだ大量の俳諧、調度品なども確認された。
近代の資料も多い。明治5(1872)年に16代当主となった定謨(さだこと)がフランス留学中に入校した陸軍士官学校で着用していた軍服や、留学に随行し後に「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古との写真なども見つかった。

16代当主・久松定謨の大礼服など=松山市(前川康二撮影)
貴重な文化遺産継承
久松家が保存してきたこれらの品々は、藩政期から現代までの地域の歴史を包括して伝えるまさに「お宝」。久松常磐会はこれらの保存・活用を模索するなか、行政機関への寄贈を決めた。
22代当主の久松雷太理事長(53)は「貴重な文化遺産を県民や未来の世代に継承することで、真の価値を発揮できると考えた」と説明する。
ただ、約1万6千点にも及ぶ資料は気温や湿度、日常的な点検なども必要で管理は容易ではない。財団から相談を受けた県は、松山藩の領地がほぼ現在の松山市と重なっていることや、市が藩城だった松山城を管理していることなどから、市に受け入れを打診した。
これに対し、市は所蔵場所の問題から難色を示した。協議の結果、県が寄贈を受け入れ、当面は県と市で分散して史料を管理することになった。
野志克仁市長は「現状では全ての受け入れは難しい」とする一方、将来的な保存展示場所の候補として、松山城三之丸御殿の復元にも言及。「文化庁の許可を得る必要があるが、整備の可能性も含めて検討したい」と話した。(前川康二)