500人の前で“つるし上げ”、家族は政治犯収容所に送られた 日本へ逃れ16年【脱北した40歳女性が初証言(上)】

脱北し、日本で生活する李京姫さん=2024年12月、関東地方

 北朝鮮から2008年に日本へ逃れた看護師李京姫(リ・キョンヒ)さん(40)が、来日から約16年で初めて本名を明かして取材に応じた。北朝鮮は戦後「地上の楽園」とうたわれ、在日朝鮮人だった両親も日本から移住したが、待ち受けていたのは地獄のような監視と抑圧の社会だった。李さんも学生時代に言動が問題視され、500人の前で“つるし上げ”を経験。脱北後、最愛の家族は国内で最も劣悪とされる政治犯収容所に送られた。(共同通信北朝鮮問題取材班)

▽最後の手紙

李京姫さんの父親が送った直筆のメッセージ。ハングルで「愛する京姫」と書かれている=2024年12月、関東地方

 「お母さんとお姉さんが事故のため病院に入院して5カ月にもなりました。(中略)すぐに退院すると思います」。李さんが来日した直後の2008年11月、故郷の父(75)から届いた最後の手紙にはこう書かれていた。脳梗塞の後遺症で文字はゆがんでいた。医療体制が脆弱な北朝鮮では、大半の住民は大病を患っても入院することなどない。「入院」とは、秘密警察組織の国家安全保衛部(現国家保衛省)に捕まったことを示す隠語だった。

 その後、家族は父を含めて3人とも「一度入ったら二度と出られない」とされる悪名高い東部・咸鏡南道(ハムギョンナムド)の耀徳(ヨドク)収容所に送られたとみられることが分かった。

▽ルーツは日本

帰国事業の第1陣として北朝鮮に向かう船=1959年12月、新潟港

 李さんの祖父母は父方も母方も現在の韓国出身で、両親は日本政府も推進した戦後の「帰国事業」で北朝鮮に渡った。父は福岡県、母(75)は大阪府で生まれ、北朝鮮に移住した1960年代はともに小学生だった。化学工業都市の東部咸興(ハムフン)市内の医科大在学中に出会い、結婚。李さんは1984年に次女として生まれた。2歳上には、地元で美人と評判の姉(42)がいた。

 母は専業主婦、父は感染予防などを担う衛生防疫所の医師だった。生活は苦しく、日本の親戚からの定期的な金銭や物品の援助を頼りに暮らしていた。

▽幻想

北朝鮮・咸興の工業団地=2019年9月

 李さんの両親ら「帰国者」と呼ばれる渡航者たちは、戦後日本の在日韓国・朝鮮人差別から逃れ、生活の向上に淡い期待を抱いて北朝鮮を目指した。だが、船が港に近づくと、歓迎に出てきた住民の顔に笑みはなく、着る服は汚れが目立っていた。〝楽園〟が幻想だと悟り、日本の親戚に宛てた手紙の切手の裏に小さな文字で「絶対に来ては駄目だ」とつづった人もいたという。

 帰国者は北朝鮮社会で「在日同胞」を縮めた「在胞(チェポ)」や、げたなどの二股爪を表す「チョッパリ」という蔑称で呼ばれた。階級の最下層の「敵対階層」に置かれ、差別された。李さんの母親も幼いころに人ぷんを投げつけられたり、朝鮮語の発音の悪さを友人にからかわれたりした記憶を悔しげに語っていた。

▽家族の記憶

 父親は九州男児らしく一本気。社交的で人望があつかった。社会的地位が望めない帰国者にしては珍しく、防疫所では課長まで務めた。朝鮮労働党の党員資格も持ち、李さんの自慢だった。

 母親は賢く、料理上手。北朝鮮が大飢饉(ききん)に見舞われた1990年代には、冷麺店やビリヤード場を開き、するめなど食料品の小売りもして家計を支えた。冬になると塩漬けにして発酵させたタラが隠し味の特製キムチを作った。肉まん、コロッケ、天ぷらなど日本食も手作りした。日本の歌謡曲を好んで歌い、大阪時代の思い出話もよくした。

 勝ち気でリーダーシップがあった姉は、咸興芸術大でクラシックギターを専攻していた。いつも輪の中心にいる人気者。姉を知らない人は「もぐり」と言われるほど名が知れていた。

 両親とも、年を重ねるにつれて「いつかは日本の地に帰りたい」との思いが強くなっていた。「北朝鮮でこのまま生きていても良いことはない」。姉妹が幼いころから脱北を勧めた。李さんは次第に心に決めるようになった。「いつか絶対、日本に脱北しよう」

▽順風満帆

北朝鮮・平壌の街並み=2018年9月

 地元の高校を出た後、首都平壌に単身上京。2浪の末、映画製作などに携わる人材を養成する「平壌演劇映画大」の俳優学部扮装(ふんそう)学科に入学し、特殊メークを学んだ。大学幹部の娘と知り合いだったこともプラスに働き、学科初の地方出身者となった。同級生5人は平壌の大学教授の子供や「金主(トンジュ)」と呼ばれる新興富裕層の娘ら。誰もがうらやむ学歴を手にし、当時は「命がけで脱北するよりここで頑張ろう」と考えていた。2年生まで成績は常にトップクラスで、教師との関係も良好。順風満帆のキャンパスライフになるはずだった。

▽暗転

 「現実」を突きつけられたのは、3年生への進級後。フランスから招聘(しょうへい)されたメーキャップアーティストの特別研修に、クラスで一人だけ参加が認められなかった。他の学科や大学の学生も参加する中、成績上位の自分が除外された理由が分からない。教師に疑問をぶつけると、冷ややかに返された。「あなたのような立場の人が参加できるわけがない。田舎から出てきて大学で勉強できるだけでも感謝しなさい」。地方出身にして帰国者―。二重に階級が低い自分へのあからさまな差別だった。

 その後も通学を続けたが、教師の言葉の衝撃からなかなか抜け出せなかった。研修内容を前提に進む授業にも次第に付いて行けなくなり、故郷の父が脳梗塞に倒れる不運も重なった。精神的に追い詰められ、冬休みに入る前に周囲の反対を押し切って帰省。組織に無断の行動は厳禁だったが、当時は「何かあれば賄賂で解決できる」と軽く考えていた。

▽つるし上げ

 「思想闘争会の対象者になったから準備しなさい」。大学に復帰すると、学生をまとめる責任者から告げられた。北朝鮮ではどの組織も週に一度は自分や他人の行動を批判する「生活総和」を行う。特に重大な問題行動については、「思想闘争会」という集会を開いて集中砲火を浴びせる。その対象者に選ばれたというのだ。

 4年生に進級する直前の2006年3月、全校生徒約500人が見つめる中、たった1人で壇上に上がった。全身の力を振り絞り、震える声で3枚の反省文を読み上げた。すると軍帰りの学生4~5人が次々と立ち上がり、大声で叫んだ。「組織の一員としてあり得ない!」「金正日(キム・ジョンイル)首領の教えに反した!」。中には親しくしていた友人もいた。激しい恐怖と羞恥心で足の震えが止まらず、心は完全に壊された。

▽脱北を決意

 4年生になると、卒業後の就職先の話題で持ちきりになった。北朝鮮では進路は国が決める。学生の間で当時人気があったのは、平壌で結婚式のメークをしたり、スパイ要員に他国のメークを教えたりする仕事。だが、李さんの就職先として挙がったのは映画製作を行う「朝鮮芸術映画撮影所」。海外の文化に触れる機会が多く「資本主義思想に染まりやすい」と警戒され、生活総和が隔日で開かれるなど思想統制が格段に厳しい不人気職場だった。集会の悪夢がよみがえり、将来を悲観した。「もう絶対にやっていけない」。この先も永遠に自由を奪われる運命を悟り、脱北を決意した。

▽決行

凍結した豆満江=2011年12月、ロシア極東沿海地方ハサン

 4年生に進級して約2カ月の2006年6月、大学を中退し、地元にUターン。中国との国境に通いながら脱北ルートを探り、2007年10月、案内役の青年2人と父の知り合いの娘の計4人で脱北を決行した。父と姉が寝静まる中、母に見送られて早朝に出発。中国国境の北東部咸鏡北道(ハムギョンプクト)・会寧(フェリョン)に入った後、3~4回山を越え、夜は枯れ葉を布団代わりにした。

 翌日、国境の警備が薄くなる昼食の時間帯、案内役の合図で一斉に極寒の豆満江(トマンガン)を渡った。既に凍り始めていた川に肩まで漬かった。泳げない李さんは何度も急流に流されそうになり、「一生続く」と思うほど川幅が広く感じられた。

 「止まれ!」。残り半分ほどに差しかかった時、背後から叫び声がした。絶体絶命の大ピンチ。いちかばちかで対岸まで進み、振り返ると、叫び声の主は農民だった。警備隊なら確実に命はなかった。中国に入った後も山中を歩き続け、吉林省の延辺朝鮮族自治州でブローカーと落ち合った。

▽試練

 中国に逃れた脱北者は、往々にして売春や人身売買など非人道的な扱いを受ける。李さんも中国に入った後、一度公安当局に捕まった。「日本の親戚に、30万円を送金してもらうよう頼め」と指示され、その通りにして送られてきた全額を渡すと、翌日解放された。ブローカーから市場で洋服を買い与えられた後、ホテルの部屋に押し込まれ、公安を名乗る中年男性と性行為を強要されそうになったこともあった。全て事前に仕組まれていた可能性が高いが、生殺与奪を握るブローカーに抗議することはできなかった。

 中国に入って1カ月ほどで瀋陽の日本総領事館から連絡が入った。領事との待ち合わせ場所には夜行バスで向かった。途中、抜き打ちの検問に遭遇する局面もあったが、眠り込んでいた李さんは奇跡的に難を逃れた。2007年11月、領事館で保護された。命からがら中国に逃れても、公安当局に捕らえられて強制送還される例は多かった。気が抜けない日々が続いていたが、やっと緊張の糸が緩んだ瞬間だった。

(中)「24歳で夜間中学から再スタート、苦学の末に看護師合格、そして結婚」に続く