新横綱・大の里の“先代”は「相撲の神様」…小兵の名大関、波乱万丈の生涯だった

 大相撲名古屋場所が7月13日、IGアリーナ(名古屋市北区)で初日を迎える。注目は何といっても、史上最速で横綱に上り詰めた大の里だろう。新横綱のしこ名の由来になった往年の名大関で、「相撲の神様」とも称された大ノ里万助(1892~1938年)をご存じだろうか。164センチの小兵ながら7年間も大関の地位を維持。だが人生の最終盤は、角界を揺るがした「春秋園事件」に 翻(ほん)弄(ろう) された。波乱万丈、45年間の生涯を振り返ってみよう。

元横綱隆の里が温めていたしこ名

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

「相撲の神様」とも称された小兵の名大関・大ノ里

 「大の里」は、元アマ横綱の中村 泰(だい)輝(き) が2023年夏場所に初土俵を踏んだ時からのしこ名だ。

 このしこ名、師匠の二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)が「これぞという弟子」が現れた時のために温めていた。実は、親方が新入幕で本名の「萩原」から改める際、師匠の鳴戸親方(当時、元横綱隆の里)が挙げたしこ名の候補に「大の里」も入っていたという。

 二所ノ関親方は2年前、自身の兄弟子である西岩親方(元関脇若の里=青森県弘前市出身)を介し、大ノ里の兄のひ孫、 天(あま)内(ない) 司さん(72)にしこ名の使用を相談。親族は「大ノ里が再び注目されるし、とてもうれしい」と快諾した。

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

化粧まわし姿の大ノ里

 その大ノ里万助は1892年4月1日、現在の青森県藤崎町の農家に生まれた。幼いころから家の手伝いをし、体が鍛えられていった。大ノ里をよく知る作家・尾崎士郎は随筆で、力士を志したきっかけをこう書いている。

 「先々代綾川が新十両に入ったとき黒岩在の郷党の小学校生徒の出迎えをうけて停車場のプラットフォームにおりてきた 颯(さっ)爽(そう) たる姿を見て、相撲になろうという決心をかためたのである」(『相撲随筆』)

小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」

 体が小さすぎるため、力士志望に賛成する人はいなかったが、本人の決意はゆるがない。1911年の暮れに上京し、若松部屋の門をたたいた。若松親方も、その体を見ていったんは断ったが、あまりの熱心さに入門を許した。

 翌12年に初土俵を踏むと、以降は順調に番付を上げていった。「小柄な男が毎朝 下(げ)駄(た) をぶらさげながら素足のままで同系統の部屋を次から次へとわたり歩いて兄弟子に稽古をつけてもらっている。その姿がちょこちょこして 鼠(ねずみ) に似ているというので 何(い)時(つ) の間にか『鼠』というあだながついてしまった」(『相撲随筆』)

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

大関昇進決定を報じる記事=1924年5月28日朝刊

 16年5月に十両昇進、18年5月には新入幕を果たす。翌19年1月に師匠・若松親方が死去したため、所属は湊川部屋に。さらに名門・出羽海部屋の所属となると、頭角を現していく。1メートル60台の小兵ながら、取り口はこんなふうだった。

 「足腰は強く、常に正攻法で当たり、 筈(はず) 押しを得意としたが、ひねり、 掬(すく) い投げ、 叩(はた) き込みなど変化縦横の取り口で、その稽古は猛烈をきわめた。また、ぶつかり稽古で大きな相手に胸を出すことも巧みだった」(『大相撲名力士100選』)

 親族の天内さんは、父から教わった大ノ里のエピソードをよく覚えている。「稽古の時は、両脇に硬貨を挟んでいた。脇が甘くなると硬貨が落ちてしまう。脇を締める癖をつけるために考えたんでしょう」

 そして25年1月、大関昇進を果たした。この時すでに32歳。体重100キロに満たない体だが、大関在位は7年24場所にわたった。温厚な性格で多くの力士から慕われ、「相撲の神様」と称された。

「春秋園事件」で暗転

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

改革を訴える力士たちが「春秋園」にこもった=1932年1月7日朝刊

 そんな名大関の運命が暗転したのが、32年1月に勃発した「春秋園事件」だった。

 同じ出羽海部屋所属の関脇・天竜が、“どんぶり勘定”ではない会計制度の確立や退職金の充実など10項目を求め、協会と衝突。東京・大井町の中華料理店「春秋園」に立てこもった。交渉はまとまらず、天竜ら同部屋の幕内力士19人を含む32人は協会を飛び出して「大日本新興力士団」を結成。大ノ里は、苦しむ師匠と仲間の板挟み状態になったが、かわいがっていた後輩力士たちが天竜と行動をともにしたため、同じく飛び出す決断をする。

 天竜らは、力士の象徴であるまげを切って改革派をアピール。2月に東京・下谷区(現在の台東区の一部)で開催した独立第1回興行(6日間)は大入り満員で大盛況だった。一方、人気力士をごっそり失った協会がかろうじて2月22日から開催した春場所は、連日がら空きと対照的な結果に。これに勢いを得た天竜ら大日本新興力士団は大阪を拠点に関西 角力(すもう) 協会と改め、関西地方で興行を打つ。「天竜の“智”に加えた彼(=大ノ里)の“徳”に負うたところが大きい」(『大相撲名力士100選』)

 大ノ里は当初は看板力士として、35年に現役引退した後は 取(とり)締(しまり) として新団体の経営にあたった。初めのうちこそ大相撲をしのぐ人気があった関西角力協会だったが、次第にじり貧に。組織内部には運営に対する不満もあり、37年暮れには解散が決まる。尾崎によれば、経済基盤が弱かったことと、競技方法の失敗が原因という。

 力士のうち21人は相撲協会に復帰を許された。大ノ里は中心者の一人であるからという理由で、天竜らとともに戻らなかった。

 春秋園事件当時、既に39歳だった大ノ里。事件に加わらなければ、ほどなく引退し、親方として安定した生活が保障されていたはずだ。さらなる悲劇は、関西角力協会の運営に私財を投じたため無一文になり、家族とも離れざるを得なかったことだった。

大相撲中継を病床で聴いた最晩年

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

埋骨式の模様を報じる記事=1938年5月26日朝刊

 そして満州(現・中国東北部)の大連にいた38年1月22日、 肋(ろく)膜(まく) 炎が悪化し死去。45年間の波乱の生涯を閉じた。

 大ノ里の死を報じる読売新聞記事の左隣には「待望 横綱の顔合わせ」「午前二時木戸止」の見出しが躍った。新横綱・双葉山と横綱・ 男(み)女(な)ノ(の)川(がわ) の取組に国技館が沸く、大相撲春場所の様子が書かれている。春秋園事件の前後、一時的に振るわなかった大相撲は、連勝を続ける双葉山の活躍などで人気を取り戻していた。

 作家の尾崎士郎は随筆で、大ノ里の最期に触れている。

 「(死亡時刻の)午後六時半といえば土俵がうち出しとなる時刻である。哀れ、大の里よ、その同じ日に彼が息を引きとろうとは誰ひとり夢にも考えなかったであろう。後日の報道によると彼は 瞑(めい)目(もく) する最後の瞬間まで(相撲協会に復帰した)帰参力士の土俵を気にして病室のラジオに耳をかたむけ、 殊(こと) に松の里、 十(と)三(み)錦(にしき) 、 倭(やまと)岩(いわ) 等の手塩にかけた力士たちの取組になるとじっとしてはいられず 燈(とう)明(みょう) をあげて神仏に祈っていたという」(『相撲随筆』)

 4か月後の38年5月には、東京・浅草の寺院で埋骨式が行われた。

元横綱隆の里が温めていたしこ名, 小柄で稽古熱心、ついたあだ名は「鼠」, 「春秋園事件」で暗転, 大相撲中継を病床で聴いた最晩年

大の里は大関昇進時、青森県藤崎町などでつくる贈呈実行委から化粧まわしを贈られた=2024年11月3日朝刊

 春秋園事件を率いた天竜は、戦後も解説者などとして大相撲にかかわり続けた。大ノ里の二十三回忌に当たる60年、その天竜らが中心となって、郷里の青森県藤崎町の鹿島神社境内に顕彰碑が完成した。天竜は後年、相撲評論家・池田雅雄の取材にこたえて事件を振り返り、「あのときは若気のいたりでしたが、私の理想が五十年近くたった今日、少しでも実現したことはよいことですね」と語っている。

 藤崎町では「大ノ里杯少年相撲大会」が開かれるなど、その名は郷里で語り継がれてきた。新横綱の誕生で、大ノ里の足跡に興味を持つ人がさらに増えることを望みたい。(デジタル編集部 室靖治)

参考文献

日本相撲史(酒井忠正著、ベースボール・マガジン社、1964年)

相撲百年(相馬基著、時事通信社、1966年)

大相撲名力士100選(和歌森太郎監修・小島貞二著、秋田書店、1972年)

近代大相撲事件史(池田雅雄<『昭和大相撲史』毎日新聞社、1979年>所収)

相撲随筆(尾崎士郎著、六興出版、1982年)

大相撲人物大事典(「相撲」編集部編、ベースボール・マガジン社、2001年)

相撲大事典 第三版(金指基原著・日本相撲協会監修、現代書館、2011年)

相撲の神様 大関大ノ里ものがたり(藤本皓三著、文芸社、2022年)