最初から戦死要員のつもりで「特攻」を「熱望」したが…本土決戦前に終戦を迎えた「人間爆弾」指揮官

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

終戦を理解できなかった, 最初から「戦死要員」のつもりだった, 体当り攻撃を「熱望」, 「桜花」ほど安全な飛行機はない(?), 「人間爆弾」が救命具に, 覚悟を決めたところに奇襲攻撃, 士官として恥ずかしくない態度でありたい, 戦争の傷痕は深く残る

「人間爆弾」とも呼ばれた特攻機「桜花」

終戦を理解できなかった

「敵が本土に来たら、私の隊で敵の一個師団を引き受け、やっつけるぐらいのつもりでした。玉音放送も、ソ連が参戦したから、天皇陛下が一億国民に頑張れ、とおっしゃるんだと思ってた。ところが予想に反して、戦争終結を告げる内容に衝撃を受け、心中全く穏やかではありませんでした。逆上に近かったと思います」

と、湯野川守正さんは言う。湯野川さんは当時海軍大尉、23歳。人間爆弾と呼ばれる「桜花」隊分隊長として、本土決戦に備え、石川県小松基地で待機していた。玉音放送を聴くために整列した部下たちに、湯野川さんは、

「戦争が終わったらしいが私には理解できない。今日まで数多くの仲間が血を流してきたのは何のためだ。さらに状況を見たい」

と告げた。さまざまな情報から、終戦になるのが間違いないとわかったのちも、

「アメリカ軍が上陸して来たら皆殺しにしてやる」

と、なおも出撃態勢を解かなかったという。湯野川さんが終戦を受け入れたのは、8月18日、指揮官参集の命令を受けて赴いた大分基地で、第五航空艦隊司令長官・草鹿龍之介中将の、

「私は聖慮に従い大命に従う。納得しがたい者はまず私を血祭りに挙げた上で行動されよ。これまで必死で戦ってきた諸官の血祭りになったとて、悔やむものではない。だが私を血祭りに挙げず、私が指揮をとる以上は諸官の命令への服従を要求する」

との言葉を聞き、その威に打たれたからだった。

最初から「戦死要員」のつもりだった

湯野川さんは大正10(1921)年、羽州米沢藩士の血を引く海軍大佐湯野川忠一の次男として、父の勤務先だった長崎県佐世保で生まれた。のちの連合艦隊司令長官・山本五十六大将の夫人は、湯野川の父のいとこにあたる。幕末・維新の戊辰戦争で、米沢藩と越後長岡藩が同盟関係にあったよしみから、長岡出身の山本と縁戚関係になったのだという。

昭和14(1939)年、東京の麻布中学校を出て、広島県江田島の海軍兵学校に七十一期生として入校。卒業後は戦艦「伊勢」に乗組み、さらに軽巡洋艦「阿賀野」水雷士としてソロモン諸島で戦ったのち第四十期飛行学生となり、練習機教程を経て、大分海軍航空隊、筑波海軍航空隊で、戦闘機搭乗員としての訓練を受けていた。

終戦を理解できなかった, 最初から「戦死要員」のつもりだった, 体当り攻撃を「熱望」, 「桜花」ほど安全な飛行機はない(?), 「人間爆弾」が救命具に, 覚悟を決めたところに奇襲攻撃, 士官として恥ずかしくない態度でありたい, 戦争の傷痕は深く残る

桜花隊分隊長だった湯野川守正さん(右写真撮影/神立尚紀)

湯野川が筑波海軍航空隊にいた昭和19年8月中旬、「必死必中の新兵器」の搭乗員の募集が行われた。新兵器の詳細は伝えられなかったが、フィリピンで初の特攻隊が編成される2ヵ月前のこの時点で、体当り攻撃はすでに海軍の既定方針だったのだ。

「大きな国難のなか、決死の覚悟は搭乗員ならひとしく持っていたと思いますが、一撃で死に至る任務にはやはり、多少の躊躇はありました。しかし、尋常な手段では勝てない戦争だとは自覚していたから、それがどんな兵器かはわからないが、有効な兵器があるなら結構なこと、これを立派に使ってやろうと決めました。もし戦争に負けるにしても、負けっぷりというのはあると思っていましたからね。たった一つの命、それを有効に使ってやろうという気持ち。母が悲しむだろうとか、いろんなことが頭をよぎりましたが、私は次男で最初から一家の『戦死要員』のつもりだったから、2時間ぐらいで悩むのをやめました」

体当り攻撃を「熱望」

湯野川さんは翌日、「熱望」の意志を上層部に伝える。そして11月6日付で、新兵器「桜花」を主戦兵器として編成された第七二一海軍航空隊(七二一空。通称「神雷部隊」)に転勤を命じられた。七二一空は司令・岡村基春大佐、飛行長(のち副長)・岩城邦廣少佐、桜花隊と母機の一式陸攻隊、直掩戦闘機隊からなり、はじめから体当り攻撃を前提とした、いわばプロの特攻部隊だった。

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桜花の母機となる一式陸攻の飛行隊長・野中五郎少佐

「11月6日、茨城県の百里原基地に到着すると、七二一空本部はすでに神之池基地に移動していて、残留部隊の指揮官だった陸攻隊の野中五郎少佐に、『湯野川中尉参りました。よろしくお願いいたします』と着任の挨拶をしました。すると野中少佐は、『遠路はるばるご苦労さん。おや、お前さんきれいな目をしてるな。バージンか? 薄汚いバージンなど早く落としときな』と、恐れ入った指示をいただきました。

当時、着任の申告はあまり形式ばっていなかったように思います。数日後、兵から叩き上げたベテラン搭乗員・椛沢義雄中尉の着任の場に偶然居合わせましたが、敬礼を終えた椛沢中尉の第一声は『隊長! 来ましたぞ』であり、『来たな、ご苦労さん』というのが野中少佐の返事でした」

「桜花」ほど安全な飛行機はない(?)

初めて桜花の実機を見たとき、湯野川さんは、

「ずいぶん単純な飛行機だな」

と、拍子抜けしたという。桜花は、1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して、敵艦に体当りすべく開発された超小型の飛行機である。母機の一式陸上攻撃機に懸吊されて敵艦近くまで運ばれ、投下されると主に滑空で、ときには装備したロケットを噴射して、搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。文字通り一機で一艦を屠ることを目的とした、帝国海軍の最終兵器だった。

湯野川さんは、

「いまの日本にこれしかできないのなら仕方ない。面白い、これでアメ公どもをひとりでも多く地獄に送ってやろうじゃないか」

と思い返した。ほどなく、神之池基地で、桜花の練習機型「K1」での滑空訓練が始まった。母機の一式陸攻から、ハシゴを伝ってK1の操縦席におさまると、風防を閉め、バンドを締めて各部を操作し、異常なければ『・---・』と、電信音で母機に合図を送る。高度3500メートル、投下のタイミングがくると、母機から『・・・-・』という信号が届き、最後の短符が耳に届くと同時に、K1は母機から切り離される。

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母機の一式陸攻より見た、桜花の練習機「K1」が切り離される瞬間

「乗り込んだときはあまりいい気はしませんが、投下されてガーッと機首を突っ込んで、250ノット(時速約460キロ)ぐらいの高速で操縦桿を動かしてみたとたん、これはいい! と思った。舵の効きがいいし、すばらしく操縦しやすい。零戦のようなエンジンのある飛行機だと、急降下するとどうしても機首が浮いてしまいますが、『桜花』(K1)は自由自在、思ったところへきちんと持って行けるんです。逆説的ですが、『桜花』ほど安全な飛行機はない、とさえ思いました」

「人間爆弾」が救命具に

K1による訓練は各人一回のみで、それが終われば、あらゆる作戦に使用可能な『技倆A』とみなされる。その後の訓練は、零戦を使っての襲撃訓練などが主体となる。11月25日には桜花隊の分隊編成が行われ、第一分隊長・平野晃大尉(戦後、航空幕僚長)、第二分隊長・三橋謙太郎中尉、第三分隊長・湯野川守正中尉、第四分隊長・林冨士夫中尉の四個分隊編成となった(三橋、湯野川、林の3名は12月1日、大尉となる)。

分隊長は、いざ出撃のさいには、自ら桜花を操縦して敵艦に体当りする立場の指揮官である。53名の搭乗員を預かる分隊長となった湯野川さんは、12月1日、海軍兵学校のクラスメートでもある三橋謙太郎大尉とともに、岡村司令同席のもと、連合艦隊司令長官・豊田副武大将からじきじきに、フィリピン・レイテ島沖の敵艦隊への体当り攻撃の内示を受けた。予定期日は12月23日。そのため、辻巌中尉以下、七二一空の桜花整備員11名がフィリピンへ先発する。

終戦を理解できなかった, 最初から「戦死要員」のつもりだった, 体当り攻撃を「熱望」, 「桜花」ほど安全な飛行機はない(?), 「人間爆弾」が救命具に, 覚悟を決めたところに奇襲攻撃, 士官として恥ずかしくない態度でありたい, 戦争の傷痕は深く残る

昭和19年12月1日、聯合艦隊司令長官・豊田副武大将とともにおさまった七二一空の隊員たち。最前列左から4人め(矢印)が湯野川大尉。11人め豊田大将、その右に司令・岡村基春大佐

「出撃はもとより望むところ。三橋が、『あと23日の命か。どうする?』と笑いながら話しかけてきたのを憶えています。ところが、私たちが乗るはずの桜花を輸送途中の空母『信濃』と『雲龍』が、相次いで米潜水艦に撃沈され、もう一隻の空母『龍鳳』は、目的地を変更して台湾の基隆に58機を輸送したものの、フィリピンでは使えず、作戦は中止になってしまいました。先発した整備員たちはフィリピンに残され、陸上戦闘で全員が戦死しました。あれは気の毒だった……」

「信濃」沈没時、生存者の救助にあたった駆逐艦「濱風」水雷長・武田光雄さん(当時大尉)によると、「信濃」に搭載されていた50機の桜花は、弾頭をつけていなかったため、沈没時に機体が海面に浮き、それにつかまって救助された者が多かったという。「人間爆弾」がはからずも救命具になったのだ。いっぽう、「雲龍」は、敵潜水艦の魚雷を受けたのち、積んでいた30機の桜花の誘爆で轟沈したことが生存者の証言で明らかになったことから、その後の輸送は、敵潜水艦の目標になるのを避け、目立たない小さな輸送船で行うことになった。

覚悟を決めたところに奇襲攻撃

米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による日本本土への空襲はすでに始まっていたが、昭和20(1945)年になると、日本近海に敵機動部隊が出没するようになり、艦上機による空襲もまた、猛威をふるい始めた。

3月18日、米艦隊発見の報告を受け、大分県の宇佐基地に展開していた湯野川さん率いる桜花隊に出撃命令がくだる。母機の陸攻隊(攻撃第七〇八飛行隊)指揮官は足立次郎少佐。だが、出発準備をほぼ完了、襲撃方法の打ち合わせを終えて、別杯の用意が整えられようとしていたとき、基地は敵艦上機の奇襲攻撃を受けた。執拗で激しい銃爆撃に、飛行場に並んだ一式陸攻18機の大半が地上で焼失した。

「よし、行くぞ!と覚悟を決めたところで、悔しかったですね……。このときはコテンパンにやられました。ほんとうに、悪夢のような光景でした」

と、湯野川さんは回想する。足立・湯野川隊が大打撃を受けたので、長崎県の大村基地に退避していた野中五郎少佐の指揮する陸攻隊(攻撃第七一一飛行隊)が急遽、鹿児島県の鹿屋基地に進出し、三橋謙太郎大尉を隊長とする桜花隊を抱いて3月21日、敵機動部隊を求めて出撃する。

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昭和20年3月21日、出撃前に最後の敬礼をする桜花隊分隊長・三橋謙太郎大尉

しかし、桜花隊を護衛するべき零戦隊も18日の戦闘で戦力を消耗していて、十分な護衛戦闘機を持たないまま出撃した陸攻18機(うち桜花懸吊15機)は、待ち構えた敵戦闘機に全機が撃墜され、桜花による初の攻撃は失敗に終わった。この日の戦死者は、桜花隊が三橋大尉以下15名、陸攻隊は野中少佐以下135名、零戦隊も漆山睦夫大尉以下10名、計160名に達した。

士官として恥ずかしくない態度でありたい

以後、桜花の出撃はのべ10回におよび、米側記録との照合で、駆逐艦1隻を撃沈、3隻に再起不能となるほどの大きな損傷を与え、ほか3隻を小破させたことが判明しているが、七二一空は、「桜花」搭乗員55名をふくむ829名もの戦死者を出した(陸攻搭乗員や護衛の零戦搭乗員、また零戦で特攻出撃した者もふくむ)。

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桜花隊の発進

「それでも隊員たちの士気は旺盛でした。隊の編成当初には、心の乱れを見せた者も一部にはいましたし、悩みがなかったと言えば嘘になるでしょうが、あとはみんな張り切って立派にやっていましたよ。最善を尽くして死ぬのは本望、淡々と順番を待つ。私自身の思いは、出撃したら一人でも多くの敵をやっつけてやると、それだけでした。まだ若かったですから、生きるの死ぬのということはあまり深刻に考えない。ただ、人に後ろ指をさされまい、士官として部下に恥ずかしくない態度でありたい、という気持ちはつねに持っていましたね」

と、湯野川さんは回想する。

6月の沖縄戦終了後、七二一空は本土決戦に備えて各地に分散配備されるようになり、湯野川さんは、桜花隊の先任分隊長として、石川県の小松基地で終戦を迎えた。

「8月15日まで、私は戦争が終わるとは想像もしていませんでした」

小松基地の七二一空は、最後まで戦う気構えをくずさず、秩序を保ったまま、8月21日、草鹿中将の命を受けて解散式を挙行、3年後の3月21日(桜花隊初出撃の日)午前10時、靖国神社での再会を約して、22日に一斉に復員した。

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昭和20年3月21日、米軍のガンカメラに捉えられた七二一空の一式陸攻。機体の下に桜花が見える。この日出撃した18機は、最後まで編隊を崩さず、敵艦隊に向かおうとしたが、全機が撃墜された

湯野川さんはその後、海軍の密命を受け、本籍地と名前を変えて昭和20年末まで山陰地方に潜伏。その後は職にあぶれた旧部下たちを集め、下関で、米軍の撒いた機雷を除去する掃海艇部隊の指揮官を務めたあと、戦時中、「箱舟」(構造を簡略化した戦時標準船)の大量建造で財をなした川南豊作が経営する長崎の川南工業で沈船引き揚げの仕事についた。

昭和23(1948)年、川南工業を退社、以後は水産業などいくつかの仕事に従事し、曲折を経て航空自衛隊に入隊。自衛隊では航空実験団初代司令などを歴任し、昭和50(1975)年、空将補で定年退官した。

戦争の傷痕は深く残る

「人生の半分は運命に支配される。どこでも行ったところでベストを尽くすしかありません。そういう意味で、海軍生活は性に合っていたし、のびのびとして楽しかった。もちろん、辛いこともずいぶんありましたが、それは戦争だから仕方がない。遭遇した青春のひとコマひとコマはすべて、いま微笑をもって振り返られると思っています」

だが、実妹の音楽評論家・湯川れい子氏によると、湯野川さんはしょちゅう夜中にうなされ、ときには「行くな!まだ死ぬな!」などと大声で叫ぶこともあったという。本人の自覚しないところで、戦争の傷痕は深く残っていたのだろう。

七二一空の隊員たちは、部隊解散時の約束通り、昭和23年3月21日に40余名もの生存者が靖国神社に集い、昭和26年以降は毎年、戦没隊員の慰霊祭を行った。

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昭和20年4月8日、富高基地にて。別杯の盃を持つ飛行服姿の一番手前が湯野川大尉、右手前で電報を受け取ろうとしているのは副長・岩城中佐

「人間爆弾」という悲壮なイメージとは裏腹に、桜花搭乗員たちのプライドはきわめて高く、ほかの部隊には類を見ないほどの団結を保ち続けた。湯野川さんは2019年に亡くなったが、いまは遺族や関係者の手によって毎年欠かさず慰霊祭が執り行われている。

戦後、湯野川さんが本籍と名前を変えて潜伏した海軍の密命について、その目的は湯野川さんにもわからないままだった。当事者でもその詳細を知らない。国家の「秘密任務」とは本来そういうものなのかもしれない。