300以上の弾痕が物語る苛烈な攻撃 東京都東大和市「旧日立航空機変電所」

機銃掃射などによる300以上の弾痕がいまなお残る旧日立航空機変電所=東京都東大和市(原田成樹撮影)

「西の原爆ドーム、東の変電所」-。東京都東大和市の元職員が考えたキャッチフレーズだそうだが、先の大戦末期の3度の空襲により命を奪われた計111人の氏名を見ていると、決して大げさな表現ではないと感じる。同市の都立東大和南公園にある「旧日立航空機変電所」。300以上の弾痕が現存する建造物は国内では希少だ。

人の頭ほどの大きさの弾痕もある=東京都東大和市(原田成樹撮影)

20センチの壁を貫通した穴も

西武拝島線の玉川上水駅(東京都立川市)の北東一帯にはかつて、軍用機のエンジンを製造する日立航空機立川工場があった。その約2キロ南にあった軍用機メーカー、立川飛行機で完成品となり、立川陸軍飛行場から飛び立っていった。

大戦末期、すでに制空権を握っていた米軍にとって、このあたりは日本にとどめを刺す重要なターゲットの一つだったのだろう。日本の敗色が濃厚となっていた昭和20年には、2月に1度、4月に2度、米軍機の襲撃を受けた。

2月17日、戦闘機「グラマンF6F」や爆撃機「カーチスSB2C」などが50機以上襲来。学徒9人を含む78人が殺された。

そして、いまも外壁に残る弾痕のほとんどは4月19日、戦闘機「P51マスタング」数機の編隊によるものだ。この日は、学徒1人を含む5人が殺された。

銃弾は回転しながらコンクリート壁に当たり、独特の衝撃文様を描いた。20センチの壁を貫通した穴もあり、そのまま残されている。

3度目は4月24日。大型爆撃機「B29」が101機飛来して爆弾1800発余りを投下し、工場は壊滅した。この日は、学徒4人を含む28人が殺された。

爆弾による地獄絵図は、想像するしかない。

平成5年まで変電所として使用

3度の空襲にもかかわらず、変電所の建物本体は致命的な損傷を受けなかった。このため、ほとんど補修せずに、戦後半世紀近くがたった平成5年まで使われた。その後、一帯は都立公園として整備されることになったが、旧変電所は地域住民や元従業員の運動により、そのままの場所で保存されることになった。

旧変電所で視聴できるビデオ映像で、空襲体験者の一人がこう訴えている。

「(空襲の熱により)工場で鉄があめのようになっているイメージがあるから、(変電所が受けた被害は)こんな程度と思う。でも、他がなくなっているから、せめて残してほしい」

旧変電所は最近、小中学校の社会科の教科書にも写真付きで掲載されている。管理する東大和市立郷土博物館の坂本卓也館長(56)によると、同市内の小学生が授業で訪れるほか、近隣自治体の中学校や高校の生徒たちも足を運ぶという。「そうやって、子供たちが来てくれることが何よりうれしい」と坂本さんは話す。

(原田成樹)

■ガイド 西武拝島線、多摩都市モノレールの玉川上水駅で下車し、徒歩約5分。内部公開は、毎週水曜・日曜の午前10時半~午後4時(年末年始を除く)。入場無料。説明員による展示解説もある。問い合わせは、東大和市立郷土博物館(042・567・4800)。