【太平洋戦争】「終戦の瞬間」から「また空を飛ぶこと」を目指した零戦搭乗員

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

戦争終結、旧軍人たちの思い

戦争終結、降伏が告げられた旧軍人たちの話を聞くと、「ホッとした」か「悔しかった」「打ちひしがれた」という人が多いが、なかには天皇による玉音放送を聴いた瞬間に気持ちを切り替え、将来の再起を誓った人もいる。

「このまま日本がアメリカに潰されてしまうことはないだろうと思っていました。そして、いつか必ずまた飛行機に乗れるようになると信じていました。だから、これからはすべて再び空を飛ぶための準備として頑張ろうと決心したんです」

と私に語った大原亮治さんは、さしずめその筆頭格だった。

大原さんは大正10(1921)年、宮城県生まれ。幼いときから飛行機に憧れ、海軍飛行予科練習生を受けるが3年連続で不合格。軍需工場で働きながら、週末は友人たちと仙台の映画館でレイトショーの洋画を見てフレッド・アステアに憧れ、タップダンスの練習をするような青春時代を送った。海軍では部内選抜で飛行機搭乗員になる道があることを知り、昭和15(1940)年6月、海軍四等航空兵として横須賀海兵団に入団。千歳海軍航空隊で整備員の補助をするが、やがて丙種予科練を受験、合格し、土浦海軍航空隊に入隊。搭乗員への第一歩を踏み出した。

戦争終結、旧軍人たちの思い, 停戦が令せられた時の大原さん, もう一度飛行機に乗りたい, 飛行機がぴったりと体の一部に, 自衛隊を退官した後, タクシーを降りたとたん、大原さんの一言, 63年ぶりの零戦, この方はいったい何者ですか?

大原亮治さん(撮影/神立尚紀)

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昭和18年、ラバウルで、花吹山(活火山のタブルブル山)をバックに

昭和17(1942)年、大分海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を終えた大原さんは、もとはミッドウェー島の駐留部隊として編成された第六航空隊(六空。のち二〇四空と改称)に配属され、分隊長・宮野善治郎大尉の三番機に指名される。ミッドウェー海戦の大敗により行き場を失った六空はガダルカナル島攻防戦に投入されることになり、大原さんはその第二陣として10月、ラバウルに派遣された。

ラバウルから約1000キロの遠距離進攻が問題になっていたガダルカナル島攻防も2ヵ月を過ぎ、すでにブカ島、ブーゲンビル島ブインに中継基地ができている。大原さんはブイン基地を拠点に零戦三二型に搭乗、宮野大尉の三番機として出撃を重ねた。大原さんは指揮官機を守り通しつつ、自らも通算して数十機の敵機を撃墜している。だが、ちょっとした不注意で負傷し、居残りを命じられたその日の出撃(昭和18年6月16日)で宮野大尉が戦死したことが生涯の痛恨事だという。

「宮野大尉が還って来ないと知ったとき、どうして無理にでもついて行かなかったのかと、自分が恥ずかしかった。あんなに苦しい思いをしたことはありません。出撃していたら、まず八割方は、私もやられていたかと思います。しかし、それまでもそうであったように、隊長機を守り通せたかも知れない。最後の出撃について行かれなかったことが、いまでも悔やまれます。隊長が、今日は残れ、と言われたのは、お前は生きてろ、と将来の暗示を与えられたのかな、と、いまでも毎日、隊長の遺影に問いかけていますよ」

停戦が令せられた時の大原さん

ほとんどの戦闘機搭乗員が最前線に着任後3ヵ月以内に戦死してゆくなか、大原さんはラバウル、ブインで1年以上にわたって戦い、昭和18年暮れに横須賀海軍航空隊(横空)に転勤。新型機のテスト飛行や本土防空戦に任じつつ、横空最後の「先任搭乗員」(下士官搭乗員のなかで序列がもっとも上)として終戦を迎えた。

横空では、8月15日、戦争終結が告げられてもなお、機銃弾全弾装備の戦闘機が列線に並べられ、搭乗員はやる気まんまんで指揮所に待機していた。玉音放送は停戦命令ではなく、この時点でまだ自衛のための戦闘は禁じられていなかったからである。

8月17日、日本本土を偵察のため飛来した米陸軍の四発新型爆撃機・コンソリデーテッドB-32ドミネーター四機を厚木基地の第三〇二海軍航空隊の零戦12機が邀撃。翌18日には同じく2機のB-32機を横空の零戦、紫電改、雷電、計10数機が邀撃した。

「『敵大型機、千葉上空を南下中』との情報に、みんなそれっと上がったんです。私は零戦五二型に飛び乗って単機で離陸、相模湾上空で敵機を発見し、そいつを追いかけてとりあえず浅い後上方から一撃をかけた。機を引き起こすとき、あれ、これはいままでの敵機とは違うぞ、と思いました。敵機の動きを注視しながら高度をとり、こんどは伊豆大島上空で直上方攻撃。敵機は逃げるばかりで、三撃めは『もういいや』と、遠くから撃って引き返しました」

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六空(二〇四空)で大原さんの隊長だった宮野善治郎大尉(戦死後中佐)

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ラバウル東飛行場で、二〇四空の零戦三二型

横須賀基地に帰投してはじめて、先ほどの敵機が初見参のB-32であったことを知る。この日の邀撃が、海軍戦闘機隊最後の空戦となった。この空戦については、次回、小町定飛曹長の話でも紹介する。

8月22日午前零時をもって、支那方面艦隊をのぞく全ての部隊に停戦が令せられた。同じ日、大原さんは准士官の飛行兵曹長に進級した。本来ならば次の定期進級日である11月1日付で進級予定だったが、終戦で繰り上げられたのだ。11月予定を繰り上げての進級は「ポツダム進級」とよばれる。当初、米軍が24日に進駐するとの情報が伝えられたので、搭乗員は23日には隊を出されることになった。

たった2日の准士官だったが、大原さんは航空隊の軍需部で飛行兵曹長の軍装一式を揃えた。短剣は分隊長・岩下邦雄大尉が、戦死した実兄の形見の短剣を贈ってくれた。草色の地に青線2本と金筋1本が入った第三種軍装用の飛行兵曹長の襟章は、坂井三郎中尉からもらったものという。

「最後に、航空記録を焼却せよ、との命令が出て、全搭乗員の飛行経歴を記した航空記録を処分することになりました。飛行場の一角で焚火のように書類を燃やすんですが、私は自分の航空記録がどうしても惜しくて、あわよくば隠して持ち出そうと、火からちょっとはずれたところに置いたんです。ところが、いざ拾い上げようと思ったとき、塚本祐造少佐が見回りにやってきて、まだ焼けていない私の航空記録を見つけると、『なんだ、これは』と、足で蹴って火のなかにくべてしまった。『この野郎!』と思ったけど、そこは軍隊ですから……あれは、思い出すといまだに腸が煮えくり返りますね」

もう一度飛行機に乗りたい

ときに大原さんは24歳。飛行練習生時代から終戦までの飛行時間は約1800時間に達していた。作戦出撃回数は百数十回におよぶが、航空記録が焼かれてしまったので正確に追うことには限界がある。

兵曹長の退職金2400円を現金と証券で半分ずつ受け取り、思い出深い横空をあとにした大原さんは、その足で群馬県太田に交際中だった奥さんを迎えに行き、宮城県の郷里に復員した。そして兄に、

「5年経ったら飛行機に乗るから、それまで遊ばせてくれ」

と頼みこみ、米軍キャンプで働いたりしながら虎視眈々、その機会をうかがった。

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ラバウル東飛行場、二〇四空の零戦の列線

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昭和18年5月頃、二〇四空の下士官搭乗員たち。前列左から大原亮治、大正谷宗市、中村佳雄、後列左から橋本久英、杉田正一、坂野隆雄

「昭和25(1950)年、日本航空が運航されるというのを新聞で見て(昭和25年6月、日本の航空会社による運航禁止期間が解除される)、そらきた、と、翌年仙台にできた日航の事務所に行ってみましたが、『戦闘機の人が大型機に乗れるのか』とあっさり断られました。これは中央に出ないといかんな、と思って昭和27年(1952)、横須賀に出て、民間機のライセンスをとるため有り金をはたいて藤沢の飛行連盟に通いました。そしたらある日、藤沢飛行場で、横空戦闘機隊飛行隊長だった指宿正信少佐に声をかけられたんです」

指宿さんは、

「昔の海軍戦闘機隊がまたできるぞ。俺は今、海上警備隊に入っているんだ。いま、飛行機を領収に来たところだ。手続きをしてやるからお前も入れ」

と大原さんを誘い、飛行機にも乗せてくれた。

飛行機がぴったりと体の一部に

こうして大原さんは、昭和28(1953)年、海上警備隊(現・海上自衛隊)に入隊、1年間の艦船勤務を経て、昭和29年、鹿屋基地で第一回操縦講習員(海曹)として3ヵ月の訓練を受け、卒業すると同時に教官になった。

当時、大原さんの指導を受けたなかには、より搭乗歴の古いパイロットをふくめ、多くの元海軍搭乗員がいたが、そのうちの一人、小野清紀元中尉(予備学生十三期、慶大)は、

「SNJ(アメリカ製練習機・ノースアメリカンT-6テキサンの海軍型)で同乗させてもらいましたが、ほかのパイロットが操縦するのと飛行機の動きが全然違うのに驚きました。完全に飛行機がピタリと体の一部になっている。この人は天才だと思いました」

と回想している。

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昭和19年5月、硫黄島進出を控えた横空戦闘機隊の下士官搭乗員たち。前列左から大原亮治、明慶幡五郎、久保貞夫、後列左から坂野隆雄、志賀正美、阿武富太、関谷喜芳、久保井斌

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昭和19年5月、零戦二一型をバックに

大原さんは、教官をさらに教育する役目の、海上自衛隊で4名しかいないスタンダード(基準)パイロットの一人とされていた。昭和30(1955)年、航空自衛隊の発足にあたっては、浜松第一操縦学校に教官として派遣されている。

航空自衛隊からも「大原さんは根っからのファイターだから、ぜひ戦闘機に」と誘われ、現に小福田租さん(元少佐)、指宿正信さん(元少佐)など、多くの元戦闘機搭乗員が航空自衛隊に移籍していったが、大原さんは、海上自衛隊鹿屋航空隊の初代司令であった相生高秀一等海佐(元中佐・のち自衛艦隊司令官)に、「お前は行くな、残れ」と止められて残ったという。

「ジェット戦闘機の夢は消えたけど、戦闘機の大先輩である相生さんにそこまで言われたのは嬉しかったですよ」

大原さんは昭和34(1959)年から海上幕僚監部の本庁勤務になり、昭和46(1971)年、3等海佐で退官するまで自衛艦隊司令部作戦部運用班長や羽田連絡所長などを歴任した。

自衛隊を退官した後

その後は運輸省の外郭団体である航空振興財団に勤務、民間パイロットの地上訓練を指導する傍ら、航空教室などを通じて、一般への航空知識の普及につとめた。

航空振興財団では、各航空会社の委託を受け、パイロットの採用試験やシミュレーター訓練も担当している。大原さんの教え子で、のちに自らも日本航空で教官を勤めた飯島宏さんは、

「飛行機を操縦するには機種ごとに異なる諸元を頭に入れる必要がありますが、大原教官は操縦感覚だけを頼りに諸元なしで全部のシミュレーターを順に乗りこなしたという伝説があります。怖かったですよ。それも暴力的に怖いんじゃなく、理にかなった指導で、操縦を通してこちらの弱さをすべて見通されているような……」

と回想する。

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昭和20年1月、横須賀から厚木基地に派遣される

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昭和20年8月22日、飛行兵曹長に繰り上げ進級。坂井三郎中尉からもらった飛曹長の襟章

自衛隊を退官してからは軍航空隊関係の多くの戦友会に出るようになり、丙種予科練出身者で組織する「丙飛会」会長、全予科練出身者が集う「(財)海原会」顧問、元戦闘機搭乗員のみで結成された「零戦搭乗員会」事務局次長などをつとめ、運営の実務を取り仕切った。

「戦後しばらくは目の前の仕事に精一杯で、遺族や戦友のことまで頭がまわりませんでした。しかしある時期から、戦死した戦友たちに思いを馳せ、けっして自分一人で戦ってきたわけじゃない、と思えるようになりました。昔のことは忘れたい、という人もいますが、どうして忘れられるんだろう、と腹立たしく感じます。私は死ぬまで、戦争の記憶をひきずっていきますよ」

大原さんはまた、米海軍に知人、友人が多く、米軍厚木基地や横須賀基地でパーティーやセレモニー、イベントなどがあるたびに出かけていって親交を深めていた。私も、大原さんに誘われて、厚木基地の司令官交代式や基地祭、横須賀基地の米艦艇見学、空母に乗っての航海などにしばしば同行している。「ゼロファイター・オオハラ」の人気は日本人にはかえって想像もつかないほどのもので、大原さんの周囲にはいつも、米軍パイロットたちが憧憬のまなざしで集まってきていた。

タクシーを降りたとたん、大原さんの一言

平成15(2003)年、私は、当時82歳の大原さんと、愛知県の三菱重工業小牧南工場の史料館に展示されていた零戦を見学したことがある。工場に着いてタクシーを降りたとたん、大原さんが、

「B-29発見!」

と叫んで彼方の空を指さした。

「え?なんですか?なにが起こったんですか?」

「ホラホラ、あそこ!」

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浜松第一操縦学校に教官として派遣された頃。バックの飛行機は航空自衛隊が試験的にイギリスから購入したバンパイヤ

教えられてもなにも見えない。目を凝らしていると、しばらくして旅客機が、ポツッと針の先ほどの大きさに見えてきた。

「あ、見えました。あの旅客機ですね」

「なんだ、いままで見つけられないようじゃダメだなあ。あれが本物の爆撃機ならイチコロでやられてるよ」

大原さんの視力と目配りに驚いたことは言うまでもない。

63年ぶりの零戦

史料館では、館長の岡野允俊さんが迎えてくれた。岡野さんも甲種予科練出身の元特攻隊員である。岡野さんの厚意で、零戦の操縦席に座れることになり、まず大原さんが63年ぶりの零戦に乗り込んだ。

大原さんが、機体の左側から前後の風防に手をかける。と見るや、そのまま両手を支えに体を浮かし、ストッと操縦席におさまった。とても80歳代とは思えない、身軽な身のこなしだった。

「大原さん、大丈夫ですか?」

「俺はずっとこうやって零戦に乗ってきたから。これ以外の乗り方は知らん」

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1997年、米空母艦上でジェット戦闘機の飛行を見上げる大原さん

そして計器をすばやく確認し、

「タマが飛んでる」

と言った。「タマ」というのは旋回計の指標となる球形の気泡のことで、飛行機の姿勢を保つために不可欠な計器である。この機体の旋回計は、展示機ということもあり、気泡が少しずれたまま調整されていなかったのだ。

そして、右下のレバーで照準器が目の高さにくるよう座席の高さを調整し、右眼でスッと照準器をのぞいた。背筋がピンと伸びて、まさに身についた本物の動きだった。

この方はいったい何者ですか?

羽田にある民間航空会社の訓練用フライトシミュレーターにもしばしば同乗した。いつも、機長の資格を持つ本職のパイロットが教官として右側の副操縦士席につき、操縦の手ほどきをしてくれる。あるとき、教官として来た政府専用機の機長が、大原さんがどんな経歴の人であるかを知らされないまま操縦をまのあたりにし、

「すごい。お上手なんてもんじゃない。この方はいったい何者ですか?」

と、目を丸くして訊いてきたこともあった。

大原家の神棚には、大原さんが敬愛してやまない宮野善治郎大尉が祀られていた。平成16年(2004)年には私と一緒に大阪の宮野大尉の墓参をし、宮野大尉の姉・宮崎そのさんを訪ねている。

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2003年、三菱重工業小牧南工場史料館に展示されていた零戦の操縦席で

「隊長、私もこんなに歳をとりました……」

遺骨なき宮野大尉の墓に、大原さんはしみじみと語りかけた。

平成30年(2018)年死去。享年97。

「戦争中は飛行機のことしか知らなかったし、『死』はべつに怖いとは感じませんでした。自分がやられるとは思ってもいなかったですけどね……。しかしこんなに長生きするとは思わなかった。ほんとうに飛行機が好きでパイロットになって、最後まで航空界に恵まれた人生でした。辛いこと、悲しいこともあったけど、悔いなし、と思っていますよ」

いまも、空に生き、空を愛した大原さんの姿は私の心に鮮明な姿で生き続けている。