真珠湾作戦から日本海軍最後の空戦まで、「太平洋戦争の全期間」を戦い抜いた「零戦搭乗員」

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない

8月15日が「終戦の日」というものの、昭和20年のこの日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない。たとえば、8月15日、玉音放送を受けて、海軍軍令部総長・豊田副武大将が、麾下の海軍総隊司令長官・小澤治三郎中将に下した奉勅命令(天皇の意志を奉じて伝える最重要命令)「大海令第四十七號」には、〈何分ノ令アル迄對米英支蘇積極進攻作戰ハ之ヲ見合ハスベシ〉とあって、その意味するところは、アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連に対する積極的進攻を見合わせろ、というのみである。

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

小町定さん(撮影/神立尚紀)

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和16年7月、空母赤城に乗組んでいた頃の小町さん

大本営より陸海軍部隊に条件付きの停戦命令が出たのは8月16日午後のことで、「大海令第四十八號」には、

〈海陸軍全部隊ヲシテ即時戰闘行動ヲ停止セシムベシ〉

とあるものの、

〈停戦交渉成立ニ至ル間 敵ノ來攻ニ當リテハ止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戰闘行動ハ之ヲ妨ゲズ〉

と、停戦交渉が成立するまでの間、自衛のための戦闘は妨げない旨が明記されている。8月19日、「大海令第五十號」で、支那方面艦隊をのぞく全ての海軍部隊に戦闘行動停止が命じられるが、その刻限は8月22日午前0時とされていた。

玉音放送は意味がよくわからなかった

まずはそんな状況であったことを頭の隅に置いて、今回は前回の大原亮治さんに続き、8月18日、「日本海軍最後の空戦」に参加した戦闘機乗りの回想を紹介する。

「天皇陛下の玉音放送は聞きましたが、意味がよくわかりませんでした。そのうち情報が入ってきて、終戦だと。想像もしなかった事態で、びっくりしました。敗北ということと、日本を明け渡すということがどういうことにつながるのか。数日間は、デマと想像で神経がピリピリして、殺気立っていました」

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和16年、鹿屋基地にて

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

開戦直前の空母翔鶴零戦隊の搭乗員たち。前列左から2人目佐々木原正夫二飛曹、二列目中央帆足工大尉、3列目右から2人目小町さん

と語ったのは、小町定さんである。小町さんは大正9(1920)年、石川県生まれ。昭和13(1938)年、志願兵として海軍に入り、部内選抜の操縦練習生を経て戦闘機搭乗員になっていた。空母翔鶴に乗り組み真珠湾作戦やインド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加。昭和19(1944)年、第二〇四海軍航空隊に配属されラバウルに派遣され、次いでトラック島上空の邀撃戦で戦果を重ねる。同年6月、米軍のサイパン上陸の一報を受け米上陸部隊攻撃に向かったが、途中、燃料補給のため着陸しようとしたところを米海軍のグラマンF6F戦闘機に奇襲され、空中火災を起こして海面に突っ込んだ。このとき、顔面に大やけどを負うも奇跡的に生還し、病院船氷川丸(現在横浜山下公園に係留されている日本郵船氷川丸)で帰国し、峯山海軍航空隊教官を経て横須賀海軍航空隊(横空)に転勤していた。当時25歳の飛行兵曹長だった。

停戦命令が出ていない以上、航空隊としては敵機が来襲すれば戦わなければならない。横空では終戦が告げられてもなお、機銃弾を全弾装備した戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちは戦う気概をみなぎらせて指揮所に待機していた。

そして8月18日——。

「敵大型機、千葉上空を南下中」

との情報に、搭乗員たちは色めきだった。

終戦が告げられても不穏な動きは残っていた

「それ、やっつけろ!と、みんな気が立っていますから、われがちに飛び上がった。私は紫電改に乗って、真っ先に離陸しました。誰からも命令された覚えはないし、いちいちお伺いをたてている暇なんかありません。東京湾の出口付近で追いついて、ラバウル、トラックで鍛えた直上方攻撃で一撃。敵機に20ミリ機銃弾が炸裂するのが見え、敵機は煙を吹き出しました。余勢をかって急上昇して、伊豆半島の上でもう一撃。相手はとにかく、降下しながら全速で逃げるものだから、紫電改でも二撃が精いっぱいでした。零戦だったら、とてもあそこまで追えなかったと思います」

この米軍機はコンソリデ―テッドB-32ドミネーター。もとはB-29との競合機種として開発されたが日本本土爆撃の機会はなく、ようやく偵察用途に使われ始めたばかりだった。この不運なB-32は墜落こそ免れたが、機銃の射手・マルチオーネ軍曹が機上戦死した。この件に関して米軍からのクレームはなく、これが日本海軍戦闘機隊の最後の空中戦闘になった。

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

翔鶴の飛行甲板上で撮った写真を軍艦旗の写真と合成した1枚

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

空母翔鶴の飛行甲板上に並ぶ艦上機

終戦が告げられても、厚木の第三〇二海軍航空隊のように、徹底抗戦を叫んで全国に飛行機を飛ばし、ビラを撒いたりほかの部隊に蹶起を呼びかけたりする不穏な動きは残っている。マッカーサーの進駐計画が伝わると、横空では搭乗員を優先的に郷里に帰すことになった。

小町さんも、退職金がわりの証券1枚と汽車の切符がわりの復員者乗車証の伝票1枚だけを受け取り、追い立てられるようにして横空をあとにした。

ところが、郷里の駅に着いてみると、駅員が「そんな伝票のことは聞いていない」と通してくれず、挙句の果てに無賃乗車の疑いまでかけられて、復員早々、駅員と喧嘩になってしまった。また退職金の証券のほうも、銀行へ行くと「そんな話は聞いてない」と換金に応じてくれなかった。

「帝国海軍の大ペテンにひっかかった思いでした。恨み骨髄、もう金輪際、国のために命なんか懸けてやるもんか、と思いましたよ」

郷里に帰ると、嫌味を言われた

郷里に帰ってみると、真珠湾や珊瑚海海戦から帰郷した3年前には熱狂的に迎えてくれた村人たちの目が、妙に冷ややかになっているのが肌で感じられた。村長に挨拶してもご苦労さんとも言わず、

「この食糧のないときに、小町さんのところは家族が増えて大変だな」

と嫌みを言った。

そのうち、デマか嫌がらせか、進駐軍が小町さんを探している、真珠湾に行った軍人は戦犯になって、皆絞首刑に処せられるらしい、などという噂がまことしやかにささやかれるようになった。終戦直後の混乱で情報も錯綜し、現に戦犯容疑者の逮捕が次々と行われていただけに、この噂には真実味が感じられた。

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

南太平洋海戦終了後、翔鶴零戦隊解散の記念写真。3列目右から2人目小町さん

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和19年1月17日、ラバウル上空の邀撃戦で69機撃墜、損失ゼロの戦果に湧く搭乗員たち。後方中央やや左寄りに小町さんの顔が見える

ここまで生き残ってきたのに戦犯になんかされてたまるか。小町さんは、この小さな村にいることに危険を感じ、自分を知る者が誰もいない東京に出る決心をした。

出発の日、長兄がなけなしの米3升を餞別に持たせて、見送ってくれた。

「絞首刑にだけはなるなよ」

今生の別れを覚悟して東京に向かった。昭和20年11月のことである。

東京に出たが泊る所も、仕事もない

妻をつれて東京に出たのはいいが、さしあたって泊まるところがない。芝の増上寺の軒下で最初の一夜を過ごし、その後、妻の縁者を頼って何軒かまわってみたが、いずれも体よく断られてしまった。途方に暮れていると、幸い、小田急登戸駅前の駄菓子屋で、屋根裏部屋を貸してもらえることになった。

翌日から小町さんは、仕事を求めて新宿に通い始めた。当時の新宿は焼野原ではあったが闇市があり、どこから出てくるのかものすごい人出で賑わっていた。電車も、客室に乗り切れないほどの人が溢れんばかりにひしめいていて、小田急に乗るのも命がけである。

毎日、仕事が見つからず、しょんぼりとして帰る日が続いた。食事は、1貫目(3.75キログラム)18銭で買ってきたサツマイモを薄く切って、それをフライパンで焼いたもの。これが翌日の弁当にもなり、夕食にもなり、何日かをこれでもたせなくてはならなかった。

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和19年2月、トベラ基地で、二五三空の搭乗員たち。2列目、座っている右から2人目が小町さん

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和19年3月、トラック島上空の邀撃戦で表彰を受ける小町さん(中央背の高い人物)

進退きわまった小町さんは、戦前に数年間、働いていた大阪の商社に手紙を出し、窮状を訴えた。すると折り返し、すぐに大阪に来いとの連絡があった。一縷の望みを抱いて大阪に赴いた小町さんに、その会社の社長は、いまは焼け跡に建物を建てるのに釘がいる、この釘を東京へ送ってやるから売ったらいい、と、釘を16樽(一樽は60キログラム)、代金後払いで送ってくれた。

ところが、右から左へすぐ売れると思った釘が、一週間たっても二週間たっても全然売れない。毎日、建築会社に売り込んでみるものの、相手にもされなかった。

そんなある日のこと、国鉄蒲田駅前の建築会社で、釘を売るのに軒下を貸してくれることになった。ただし、買い上げてくれるのではなく、毎日、売れた分だけの代金をくれるのである。やっと釘は売れるようになったが、大阪の商社からは愛想を尽かされてしまう。

しかし、毎日売上金をもらいに建築会社に日参しているうちに、体が大きくて力持ちなこと、字が上手で計算が得意なことが社長に気に入られ、いつしかその会社で働くようになった。

そのうち、社長のすすめで材木商を営むようになったが、売るほうの小町さんが材木について素人なのに、客のほうはプロばかり。買い叩かれるばかりで、毎日店を開けるたび、客が来るのが怖かったという。

自分のビルを持つことを決意

材木商をしばらくやったあと、建築会社を始める。材木商とちがい、各専門職に仕事を任せ、自分は号令をかける立場でいられる、というのがその理由だった。しかしこの仕事も、心ない客に代金を払ってもらえず、出来上がりに根拠のないクレームをつけられて訴えられたり、けっして楽な商売ではなかった。

苦しいながらも伸びてきた建築会社だったが、小町さんは、近代的なビルの時代に対応することに限界を感じていた。そこで、自分のビルを持つことを決意、ある銀行に融資を申し込む。

「銀行が、一週間かけて近所を聞き回ったり、人物調査をしたらしいです。あとで支店長が言ってましたが、『小町さんは口は悪いけど、腹のなかは空っぽで、どんなことがあっても約束は守る、信用できる人ですよ』と、誰かが言ってくれたらしいんです。それで融資にOKが出まして、しかもオイルショックでインフレになる直前に建てたものだから、建築費も安く上がった。それで家賃も安くできたから、テナントはあっという間に埋まりました」

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和19年、二五三空時代。前列右が小町さん。後列左から岩本徹三、熊谷鉄太郎

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和20年、峯山海軍航空隊教官時代。前列中央が小町さん

昭和48(1973)年、「グランタウンビル」の完成である。

昭和53(1978)年、零戦の元搭乗員が結集した初の全国組織「零戦搭乗員会」が発足したとき、小町さんは、昔の仲間たちに請われてグランタウンビルの事務所を、零戦搭乗員会の事務局として提供。以後、ここが零戦搭乗員の溜まり場となり、憩いの場となる。

小町さんは、苦労人だけに一癖も二癖もあるし、人の好き嫌いも激しい。なのに、誰からも好かれ、一目置かれていた。かつての上官からは「こまっちゃん」と呼ばれ、部下からは「小町さん」と呼ばれ、頼りにされていた。

靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

小町さんは、空戦の話をあまり好まなかった。相手を斃さなければ自分がやられるのが戦争である。それはわかっていても、自分が斃した敵搭乗員の命や家族を思うと、たまらない思いになるらしかった。そして、自分を救出してくれた「氷川丸」と乗組員への感謝、救出の手段もなく玉砕した将兵への慚愧の念……。空戦の話よりも、時おり見せるそんな気持ちをこそ誰かに伝えたかったのだと思う。

そんな小町さんは、靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた。自身の宗旨のことはけっして人に言わないが、家族はみな、敬虔なクリスチャンである。それなのになぜ靖国神社に?と聞かれると、

「だって、約束したんだ、あいつらと。靖国神社で逢おうって」

8月15日、ただちに戦闘状態が終わったわけではない, 玉音放送は意味がよくわからなかった, 終戦が告げられても不穏な動きは残っていた, 郷里に帰ると、嫌味を言われた, 東京に出たが泊る所も、仕事もない, 自分のビルを持つことを決意, 靖国神社への参拝を、ことのほか大切にしていた

昭和20年8月18日、横須賀海軍航空隊が邀撃した米軍爆撃機、B-32ドミネーター

と、答えるのがつねであった。

「みんな若かったんだよ。かわいそうだよな」

平成24(2012)年7月15日、死去。享年92。通夜、告別式はキリスト教式で執り行われた。