洞窟持久戦へ戦術転換したペリリュー島の戦い 米国に奮闘も「戦略の失敗補えない」史実

ペリリュー島に上陸する米海兵隊員。遠方で煙を上げているのは米軍の水陸両用強襲車両(アムトラック)=昭和19年9月(ACME)
昭和19(1944)年9月、日米双方が要衝と捉えた西太平洋のパラオ・ペリリュー島で、両軍が衝突した。日本軍は従来採用していた水際撃滅作戦を変更し、洞窟陣地にこもる持久戦を初めて展開。太平洋の島々で連勝を許した米軍に予想外の損害を強いた。両軍で1万1千人以上の死者を出した戦い。日本軍はそれまでの太平洋での戦訓の活用を図ったが、戦局を動かすまでには至らなかった。
フィリピンの南東約1200キロ。ペリリュー島には当時「東洋一」とされた日本軍の飛行場があり、日米は来たるフィリピン決戦の重要拠点と考えていた。
昭和19年4月、日本軍は精鋭といわれた満州の関東軍から、パラオに第14師団を派遣。一方、7月9日には、日本が設定した「絶対国防圏」内のサイパン島が陥落する。本格的な本土空襲を許すことを意味しており、その衝撃は大きかった。
従来、日本軍の島嶼(とうしょ)戦は、海岸沿いに戦力を集中させて上陸途中の敵をたたく「水際撃滅」が基本だったが、サイパンでは米軍の艦砲射撃や航空機による爆撃など圧倒的な火力に太刀打ちできなかった。
16年12月の開戦当初、日米は艦隊決戦を想定していたが、太平洋戦線は次第に島嶼を巡る制空権争いの様相を呈するようになり、各島の飛行場を奪い合うことになった。「島嶼戦において、日本軍は飛行場の守備を金科玉条とするようになった。そのため、敵の上陸を許さない水際撃滅が必要とされたが、米軍も大火力に援護された強襲上陸の研究を行い、実地に繰り返した」。防衛研究所の松原治吉郎主任研究官(49)が解説する。

《優勢なる敵の砲爆撃下に於て過早に兵力を水際に配置し敵上陸に先だち半身不随に陥るが如きは大いに考慮を要す》(一部略)。「至急親展」の赤い印が押された書面は、大本営が19年6月29日付で第14師団に送った電文だ。
大本営はサイパン戦を踏まえてペリリューでの作戦を水際から持久戦へ見直し、多層的な縦深・複郭陣地の準備の必要性を強調。第14師団は島中央部に構築した約500カ所の洞窟陣地に立てこもる戦法を採用し、水際防御は敵上陸を遅らせるためだけに使った。
米軍は艦砲射撃や爆撃を行った上で、9月15日に4万2千人を上陸させた。迎え撃つ日本軍約1万人は組織的なゲリラ戦を展開。むやみな突撃を禁止し、持久戦に徹したことで、2カ月余り持ちこたえた。
ペリリューでの戦法は、その後、硫黄島や沖縄でも参考とされ、日本の戦闘方針に大きな影響を与えた。
松原氏は「太平洋の島嶼戦は、日米間で戦訓を踏まえて戦い方を更新するスピードの勝負になった」と指摘。ペリリュー戦は「戦訓の収集・分析を基に、実地応用して新たな戦訓を得るというサイクルの存在を示しており、これは現代の戦争でも見られる重要なポイントだ」と強調する。

防衛研究所の松原治吉郎主任研究官
一方、米軍はペリリューでも日本軍がサイパン戦と同様に無謀な「バンザイ突撃」を仕掛けると考え「4日で制圧できる」と楽観したが、予想外の戦法に苦戦。戦闘のさなかの10月20日、米軍はフィリピン・レイテ島への上陸を果たしており、ペリリュー戦は代償に見合わない不必要な戦いだったとの見方がある。

サイパンの戦訓を実地で応用 守備隊長決断、勝算なき抵抗
「水際撃滅は通用しない」。サイパン島での戦訓が共有され、ペリリュー島での戦闘計画を即座に持久戦に修正したのは、守備隊長、中川州男(くにお)だった。かねて敵軍を研究し、現地の状況を見極めて対応する洞察力、決断力を備えていた。
ペリリュー守備隊の主力は、水戸で編成された第14師団歩兵第2連隊。当初、同島でも水際撃滅の態勢をとったが、中川は柔軟に作戦変更を決意。むやみな玉砕を禁じ、敵の上陸時も早急に攻撃しないよう戒めた。
大本営参謀だった堀栄三は、中川が米軍の作戦を研究していたと回想している。昭和19年9月、堀は太平洋戦線での米軍の戦いを「敵軍戦法早わかり」としてまとめたが、完成前に堀が満州を訪れた際、中川に内容を説明すると熱心にメモを取り質問したという。
《状況切迫陣地保持は困難に至る》《残る健在者約五〇名を以て遊撃戦闘に移行 飽く迄持久に徹し 米奴撃滅に邁進(まいしん)せしむ》
19年11月24日、中川は決別電報を打電。玉砕を伝える暗号文「サクラサクラ」が連送され、組織的戦闘は終結した。その戦いぶりに、昭和天皇からは計11回、守備隊にお褒めの言葉が贈られた。10月下旬以降、参謀本部では「まだペリリューは落ちないか」が毎朝のあいさつ代わりの言葉になっていたという。
増援なき中でのペリリュー守備隊の奮闘は戦後も語り継がれる。
「日本軍は非常に勇敢に戦い、戦術的には米軍に多大な出血を強要することができた。しかし、この『美談』は戦局を挽回することにはつながらなかった」。防衛研究所の松原治吉郎主任研究官は、ペリリュー戦と先の大戦の戦局全般を照らし、「戦略の失敗は戦術では補えない」教訓を示す一例だとした。
米海兵隊に刻んだ「黒歴史」~取材後記
日本の南3千キロ余り。ペリリュー島の密林を車で走ると、突然視界が大きく開ける。戦後も使われている飛行場の滑走路だ。「米軍はこの飛行場を奪うために上陸した。ここがなければ、ペリリュー戦はなかった」。昨年12月、同行した元陸上自衛隊の戦史教官の言葉がよみがえる。
守備隊が持久戦に方針転換した時点で、飛行場の守備より、敵に被害を与え足止めすることが主眼となった。洞窟陣地に立てこもる日本軍に対し、米軍は戦車、火炎放射器、ナパーム弾での攻撃だけでなく、洞穴内にガソリンを注いで火をつけ、コンクリートを入り口に流し込んだ。
その米軍も、上陸作戦の主力だった第1海兵師団の損害が大きく、途中で陸軍部隊に交代。精鋭部隊の壊滅的打撃は大きな衝撃をもたらし、師団長は更迭された。防衛研究所の松原治吉郎主任研究官は「海兵隊にとってペリリュー戦は黒歴史で、米国内で長らく語られてこなかった」と話す。
日米の将兵は死力を尽くしたが、こと守備隊は、勝機が見いだせない中で最善を尽くさざるを得なかった。ペリリュー戦は、明確な戦略を持つことの重要性を戒めとして伝えている。(池田祥子)
ペリリュー島の戦い 日米にとってフィリピン攻防の要衝だったパラオ群島・ペリリュー島を巡る戦闘。昭和19年9月15日に米軍が上陸したが、日本軍は洞窟陣地を拠点に、米軍が作戦終了を宣言した11月27日まで74日間にわたって抵抗した。生き残った34人はその後も約2年半にわたり、密林や洞窟に潜伏した。近くのアンガウル島にも9月17日に米軍が上陸、日本軍は1カ月余り抵抗した。日本軍は戦闘前に2島の住民を別の島に疎開させていた。