【太平洋戦争】ラバウルに来て、わずか5日で戦死も…ある青年士官が手記に残した「前線の偽らざる実相」

戦後80年。私はそのうち30年以上にわたり、日本海軍の戦闘機搭乗員を中心に旧軍人、遺族、関係者の取材を重ねてきたが、その過程で、遺族や戦友会、クラス会から託された史料も少なくない。そこで今回から、不定期にはなるが戦時中、当事者によって書かれた日記、手記をシリーズで紹介していこうと思う。

その最初に、昭和18(1943)年6月30日、ソロモン諸島レンドバ島上空の空戦で戦死した大野竹好中尉の手記を4回にわたって取り上げる。今回はその第1回である。この手記は、大野中尉の出身期である海軍兵学校六十八期のクラス会が解散した際、同期の生き残り戦闘機搭乗員であった中島大八氏(元大尉)よりコピーとともに後事を託されたものだ。原本はクラス会が持っていると聞かされていたが、クラス会幹事も亡くなり、いまやどこにあるかはわからない。

(本文は海軍の縦書き用箋全64ページに平仮名、旧仮名遣い、旧漢字で書かれているが、ここでは新仮名、新漢字で表記、随時改行し、解説を付する)

ラバウルに進出した手記の主・第二五一海軍航空隊の大野竹好中尉。わずか2ヵ月後の6月30日に戦死した

大野中尉の生い立ち

〈第二五一戦闘機隊 海軍中尉 大野竹好

 序

以下は昭和十八年五月一日に始まる私の戦闘記録である。いささかの嘘もない戦闘の実相をそのまま書いた。機会があれば私はこれを一般の人々に発表し、海軍戦闘機隊がいかなるものかを知ってもらいたいと思っている。(中略)実際の戦闘は真面目なものであって、これを表現するのに誇張を交える気には到底なれない。〉

大野竹好中尉の手記は、このように始まる。

大野中尉の手記の1ページ目。海兵六十八期クラス会から筆者が託されたもの

大野は大正10(1921)年1月18日、石川県生まれ。石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)4年のとき、一高(第一高等学校、現・東京大学教養学部など)、陸士(陸軍士官学校)とともに「天下の三難関」と呼ばれた海軍兵学校に合格、昭和12(1937)年4月、68期生として入校した。

合格者の多くは中学5年を修了、または浪人してきた者で、4年修了で早生まれの大野は、クラスのなかでも最年少に近かったが、入校時の成績は300名中26番で、「掛け値なしに頭の良かった男」との同期生の評がある。

大野と海兵同期の艦上爆撃機(急降下爆撃機)搭乗員で、ソロモン航空戦で米軍捕虜となり、戦後、直木賞作家となった豊田穣氏によると、大野はどこかエキゾチックな感じのする天草四郎的な美少年だったという。肝が太くて押しも強く、口八丁手八丁、運動神経抜群、海兵のスポーツ競技ではつねに成績優秀者のメダルを獲得していた。クラスメートたちは、「竹好」を音読みして「チクコウ」と呼んでいた。

昭和15(1940)年8月、途中脱落者をのぞく卒業生288名中36番の成績で海兵を卒業。練習巡洋艦香取、重巡洋艦鈴谷乗組を経て飛行学生となり、霞ケ浦海軍航空隊で練習機、大分海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を受けた。昭和17年6月、訓練を卒えた大野は、中尉に進級し、南太平洋の最前線ラバウルを拠点に戦っていた台南海軍航空隊に配属される。そして11月上旬、部隊の再編成のため内地に引き揚げるまで、東部ニューギニアやガダルカナル島をめぐる攻防戦に出撃を重ねた。その間、5機の敵戦闘機を撃墜(うち1機は不確実)した記録が、防衛省防衛研究所所収「台南空戦闘行動調書」に残っている。二度目のラバウル進出で手記を書いた当時は満22歳だった。

再びラバウルへ

大野中尉が、ふたたびラバウルに進出したのは、昭和18(1943)年5月1日のことである。台南海軍航空隊は、第二五一海軍航空隊(二五一空)と名を変え、大野はこの部隊の分隊長になっていた。大野の手記「第二五一戦闘機隊」は、この日から始まる。すでに2月、日本軍はガダルカナル島から撤退していたが、ここで米軍の反攻を食い止めようと、日本の航空部隊は、ガダルカナル、東部ニューギニアの連合軍拠点への空襲を繰り返していた。4月18日には、山本五十六連合艦隊司令長官が、前線視察中にブーゲンビル島上空で乗機が敵戦闘機に撃墜され、戦死するなど、苦戦を重ねている。

ラバウル基地に配備された二五一空は、零戦58機、陸上偵察機5機の戦力を持ち、飛行隊長・向井一郎大尉、分隊長・木村章大尉、鴛淵孝中尉、大野中尉、大宅秀平中尉以下、准士官以上11名、下士官兵63名、計74名の零戦搭乗員を擁していた。

前年の昭和17年、ラバウルを引き揚げる前の台南海軍航空隊(11月、第二五一海軍航空隊と改称)前列左より二人目から奥村武雄一飛曹、大木芳男一飛曹、一人おいて大野竹好中尉、飛行隊長中島正少佐、司令斎藤正久大佐、副長小園安名中佐、河合四郎大尉、山下佐平飛曹長、西澤広義一飛曹

〈5月1日の朝、私は七〇五航空隊の輸送機で、トラック島竹島飛行場を出発した。午前6時発の予定が、竹島通いのポンポン船がなかなか出なくて、7時近くになってようやく離陸したので、目的地のラバウル西飛行場に着いたのはお昼に近い11時ちょっと前であった。七〇五航空隊で昼食をお世話になって、自動車で、戦闘機隊のある東飛行場まで、羊腸たる坂道を下ること約40分、夥しい陸海軍部隊の宿舎の間を抜けて、ようやく五八二航空隊の指揮所にたどり着いた。指揮所前には六十六期の時枝大尉が独り椅子に座って本を読んでおられたが、陸戦隊服にバンドを締め、拳銃を腰に左手に軍刀を提げて、突然現れた私の姿に目を瞠って、「君は?」と腰を浮かした。「二五一空の大野中尉です」と答えつつ敬礼をして、私は尋ねた。

「二五一空の指揮所はもう決まっているとのことですが、どこでしょうか」「はてな、二五一空と言えば戦闘機隊か?」「そうです」

このとき、別の声が奥から聞こえた。

「ああ、それなら山の上だ。運転員が知っている。うちの自動車で送らせましょう」

零戦隊の本拠地だったラバウル東飛行場はこんにち、厚い火山灰に覆われている。バックに見えるのは花吹山(撮影/神立尚紀)

声の主は色の黒い眼のぎょろりとした、そのくせ愛嬌に満ちた容貌の若い飛曹長だった。(筆者注:五八二空に当時いた飛曹長で該当する風貌を持つのは角田和男飛曹長だけだから、おそらく角田氏だったのだろう)早速自動車を呼んでくれた。

飛行場から山の上の宿舎へ行く道は、去年、当地で戦争をしていたときは何度も通った道だった。そのときの一木一草も変わらずそのままに、さながら昨日までずっと此処に居たかのような錯覚に陥るのだった。宿舎は病院の近くで、飛行場から15分位の、去年使った宿舎より一丁ばかり南のところだった。

門の前で自動車を降りると、従兵の加藤一整(一等整備兵)が飛び出してきて、

「あ、分隊長」と云いながら荷物を受け取った。

「副長はおられるか」「はい、いま病気で休んでおられます」「何? 病気? 病気とはなんだ」驚いて私は聞いた。「はっ、デング熱です」と森が云う。先発隊で此方へ来られてから、わずか一週間位にしかならないのに、もうデング熱にかかられるとは。よほど運が悪いと思いつつ、副長の室に行くと、副長中島少佐は蚊帳の中で寝ておられる。起きられてからにしようと思って出ようとすると、

「大野中尉じゃないか」と蚊帳の中から声があった。

「は、大野中尉です。今日打ち合わせのためトラックから来ました」「あ、君一人か」「はァ」「戦闘機で?」「いや、七〇五空の輸送機で来ました。副長、デングにやられたそうでありますが」「うん、さっそくデングり返ったよ。熱が下がらんし、腰が痛むし、参ったよ。ところでトラックの様子はどうかな」「はい、戦闘機四十二機、トラックに着きました。搭乗員一同全部元気であります。他にトラックで十八機受け入れて、都合六十機四日と七日の二回に分けて空輸の予定であります。搭乗員の訓練のほうもすっかり終わりましたので、みんな早く戦争をしたいと猛烈に張り切っています」「ああそうか、それはご苦労だった」

報告を済ませてから体を拭いていると、副長と一緒に来た大木(芳男)飛曹長がやって来た。大木飛曹長は私が戦闘機操縦の学生として大分航空隊にいた時、教えてくれた教員である。去年、私が大分を出て、七月に戦地に来た時は、約一月早く、既にこの二五一空(当時は台南空)に転勤していて、

「やァ、大野中尉、私のほうが一足お先に来ておいしそうな所を食べてしまいましたよ」

と云って笑った。之は敵の飛行機をだいぶやっつけたという意味である。その時は、一緒に着任した級友の結城や村田と共に、

「之からは俺達で稼ぐから、あんまり邪魔するなよ」等と冗談を云っていたが、その村田も結城も、或いはニューギニアで或いはソロモンで華々しく戦死して、去年の暮れ内地に本隊が帰還した時は、搭乗員は私と大木飛曹長の他に僅か十数名であった。そして今また、大木と一緒に思い出のラバウルに来てみると、今度こそは思う存分戦友、部下の仇を討たねば生きて再びは還らぬぞと、何度も何度も繰り返した決意を、更に固めて唇を嚙むのだった。

「此の宿舎を本部にしまして」と、大木飛曹長が説明を始める。

「その向こうに新しく建てた宿舎、あれは搭乗員士官の宿舎にします。それから、向こうに潜水艦乗組士官の宿舎がありますが、あの向こう、二〇四空との間に准士官宿舎を建てる予定です。下士官兵搭乗員の宿舎も交渉済みで、それは山の下です。飛行場指揮所は五八二空の指揮所を貰う予定です。行ってみましょうか?」

「いや、五八二空の指揮所なら今行ってきた。時枝大尉がおられたがあの人は五八二空か?」

「いえ、時枝大尉は偵察隊です」「ああ、そうか」

話していると、沛然とスコールが襲って来た。毎日数回降るので湿気が多くて困るという大木飛曹長の話であった。〉

二五一空本隊のラバウル進出

大野中尉の手記には続いて二五一空の説明が入るが、これは先の解説と重複するので割愛する。そして5月10日、二五一空の本隊がラバウルに進出した。

昭和18年5月、見送りを受け発進する二五一空の零戦

〈飛行機隊進出

五月七日、最上川丸が人員資材を満載して入港した。大部分は本隊の人員物件である。七日の午後から荷揚げを開始して、次々と荷物が運ばれ、兵舎も士官宿舎も、眼に見えて充実してきた。今までいた司令、副長、軍医長、整備長、主計長、私、通信長、内務分隊長、掌整備長、掌衣糧長、大木飛曹長、西本整曹長、澤田飛曹長、甲板士官等の士官、准士官に更に整備分隊長の樋口中尉、工作分隊長の安藤中位、整備分隊士の上野整曹長、それに軍医中尉や看護兵曹長等が加わって、最上川丸入港を祝して夕食の時乾杯が上げられた。呑兵衛の軍医中尉と私とは食卓上のビールがなくなるまでコップを離さず、

飛行機隊は、戦闘機も偵察機も既にトラックに集結して、隊長向井大尉の指揮下、ラバウル進出の待機をしているが、天候不良のため進出が一日伸びになっていた。五日、六日はラバウル雨、七日はトラック雨、八日は途中が雨、九日は再びラバウルが雨。しかも此の雨たるや、自分の飛行機の翼端が見えぬほどの猛烈なスコールなのだ。雲の下底はスコールになって海面まで、上際は一万メートル以上の積乱雲となって、一面隙間がない壁のごとく、行く手に立ちはだかるのである。戦闘機乗りをして言わしめれば、「ベルもグラマンもロッキードもボーイングも俺たちに怖いものは何もない。ただ一つ、天候だけは熟練するほど怖くなる」と。

未熟な若い搭乗員は少々の雨位と馬鹿にして突入する。そして山にぶつけたり海に突っ込んだり、あるいは失速して錐揉(スピン)に入り、あるいは過速して空中分解する。

老練な古い搭乗員は、天候に対しては極度に慎重である。いわんや六十機もの大編隊が七百浬(注:約1300キロメートル)の海上を移動するのである。天候不良を知って飛び出すのは僥倖を狙う暴虎馮河(ぼうこひょうが)以外の何物でもない。

漸くして十日に至って初めて天候が回復した。午前七時十五分に戦闘機五十九機、偵察機八機及び七〇五空の陸上攻撃機四機がトラック竹島飛行場を離陸した。堂々たる大編隊を組んで一路南へと飛んだ。離陸後まもなく、戦闘機第二大隊第一中隊第一小隊三番機林上飛(上等飛行兵)の機体より潤滑油が漏洩し始めた。大隊長木村大尉はただちに引き返しを命じ、偵察機一機が之の誘導に当たった。林機はトラック飛行場より三十浬の地点まで辿り着いたが、ついに発動機停止して不時着した。機体は約百メートル、水上を滑走した後徐々に沈下し、約三分の後完全に水面より姿を消した。偵察機は低高度に舞い降りて監視していたが、林上飛が機から脱出するのを認めることが出来なかった。我が戦闘機隊最初の尊き犠牲であった。

午前十一時四十五分、五十八機の戦闘機、七機の陸上偵察機からなる大編隊がラバウル上空に到達した。赫々たる戦歴に輝き、新鋭の気漲る世界最強の戦闘機隊の進出に、この前線の一大根拠地はドッと沸き立ったのである。〉

(続く「戦況」の頁も、先の解説と重複するので割愛する)

米陸軍戦闘機との激戦

二五一空零戦隊の初出撃は、5月14日、ニューギニア・オロ湾攻撃である。零戦32機が一式陸上攻撃機18機を掩護して出撃、待ち構えていた米陸軍の戦闘機、ロッキードP-38、ベルP-39、カーチスP-40など55機と激戦となった。

米陸軍の戦闘機ロッキードP-38ライトニング

〈初陣

五月十四日を期して、我々の初陣たるオロ湾攻撃が行われた。

七五一空中型陸上攻撃機(略して中攻と呼ぶ。陸軍の重爆に相当する)十八機を掩護して、五個中隊三十三機の戦闘機隊が午前七時、ラバウル東飛行場を発進した。中一機は脚引込装置故障の為引返し、結局三十二機の戦闘機が中攻隊を掩護してニューブリテンの積乱雲を縫って一路南下した。この攻撃に参加せる搭乗員中実戦の経験ある者は隊長向井大尉以下八名のみで、残余の四分の三は実に初陣の若武者のみである。

ラバウル~ガダルカナル島要図

飛行隊長向井一郎大尉

ニューブリテンの陸地を離れてから積乱雲を避けてわずかに北を迂回したが、敵地に近づくに従い天候は極めて良好となり目指すオロ湾を遥かに望見する頃は一点の雲もなき快晴となった。

編隊は次第に高度を上げて高度五千になった時、爆撃針路に入った。

隊長向井大尉は九機を率いて中攻隊の右に、一分隊長木村大尉は六機を率いて中攻隊の前に、二分隊長鴛淵中尉、三分隊長たる私、四分隊長大宅中尉は各六機を率いて中攻隊の左、後左後方、後右上方にぴったりと隊形を整えた。

敵飛行場に夥しい土煙の上がるを見て敵戦闘機の離陸を察した。戦闘機隊は一斉に増設燃料タンクを落し、機銃の発射準備を整え、(エンジンの)回転を増して戦闘準備を了えた。

秒一秒オロ湾は直下になった。敵の七千トン級輸送船が一隻桟橋近くに投錨し、埠頭には軍需倉庫が並んでいる。中攻の編隊から巨大な爆弾が一斉に投下され、吸い込まれるように地上指して落ちていった。突如、左上方から敵戦闘機が降って来た。P-40型三機だ。続いてP-38四機が前下方から突っ込んできた。我が戦闘機隊一中隊がたちまち之に反撃して、P-38一機が火達磨になって落ちて行った。鴛淵中隊は中攻に突っかからんとするP-38七機の中に阿修羅のごとく突進した。私の中隊もまた、P-39、P-40、十二機に突入し、木村中隊は逃げ惑うP-38四機を捕捉して雨のごとく機銃弾を浴びせた。向井中隊と大宅中隊は中攻隊の真上に位置して執拗に食い下がる敵を右に左に追い散らした。P-39を一機追い詰めながら私は我が爆弾が敵輸送船、桟橋、倉庫を弾幕に包み、輸送船は大爆発を、倉庫群は大火災を起したのを目撃した。敵約十機が火を噴いて海面に矢のごとく墜ちて行った。そして味方中攻三機も壮烈なる自爆を遂げた。

第二分隊長鴛淵孝中尉。このときのラバウル進出では早々に着陸事故で肩を痛め、あまり出撃することなく終わった

執拗に追い縋る敵戦闘機を蹴散らし蹴散らし戦闘機隊がラバウル基地に還り着いたのは正午を少し過ぎていた。指揮所の前に整列を了えた搭乗員は小西二飛曹が居ないのに気づいた。しかし一同の心配は杞憂であった。約一時間遅れて小西は帰ってきた。斯くて戦闘機隊に一機の損害もなく、戦果は撃墜八機、不確実五機であった。初陣の戦果としては申し分なしである。

搭乗員室では、今日の初陣に参加した若い搭乗員が、参加しなかった不幸なる彼らの戦友を前に戦闘の模様を話している。古い搭乗員がそれをにこにこして聞きながら時々それを補足したり、訂正したり、あるいは機宜の注意を与えたりしている。

「P-38ってなぁ嫌な野郎だぜ。まるでお正月に上げる奴凧みてぇな格好をしていやがってな。それでいて、速力ときたら滅法速いんだ。俺ぁ二機追っかけたけど、みんな逃げられちゃったさ」

と残念がるのは、当隊きっての美少年、小西二飛曹である。芳紀まさに十九歳、どう見ても青年とは言い難い初々しさである。歴戦の古強者、西澤廣義上飛曹がそれをたしなめる。

「速いから逃げられたってなぁ言い訳にはならないぜ。地上に固定している高角砲だって時速四百ノットの飛行機を撃墜できるんだ。要するにやり方さ。戦争のしっぷりさ」〉

空戦から帰還した搭乗員たちの会話のシーンより。「P-38ってなぁ嫌な野郎だぜ。まるでお正月に上げる奴凧みてぇな格好をしていやがってな。それでいて、速力ときたら滅法速いんだ」

二五一空きってのベテラン搭乗員だった西澤広義飛曹長

……若者たちの意気の高さが伺えよう。だが、初陣こそ会心の戦いができたものの、翌5月15日には、不時着機捜索のため発進した分隊長・木村章大尉機と中山義一二飛曹機が、悪天候のため行方不明になるなど、早くも苦戦の予兆が現れていた。この日の手記に大野中尉は、

〈誰も宿舎に帰ろうとしなかった。絶望が夜の幕と共にやってきた。翌日、寺田二飛曹が味方陸戦隊に救助されたことが判った。然し、木村大尉と中山一飛曹の名を書いた木札には、赤インクで未帰還と書き込まれた。搭乗員が幾人もその木札を見詰めて立っていた。黙然と。〉

と記している。木村大尉、中山二飛曹はせっかくラバウルまで来て、わずか5日後の戦死であった。

(後編<【太平洋戦争】じっさいに墜ちた敵機は報告された戦果の「6分の1」…「〇機撃墜のエース」という称号が無意味なワケ>に続く)