特攻兵は「鉄砲玉」か、それとも「無駄死にではなかった」のか 友は言った「おまえたちは来るなよ」、生き残った2人の操縦士#戦争の記憶

太平洋戦争末期の特攻作戦について語る鳥谷邦武さん=2025年2月、佐賀市
太平洋戦争末期、戦況が厳しくなる中で日本軍が実施した特攻は、若者の命を賭した「必死」の作戦だった。軍部は本土決戦への時間稼ぎと最後の戦果を上げる「捨て石」として沖縄を重視し、九州や台湾から次々と出撃させた。約6千人の命が失われた。
福岡県にある飛行学校に通った2人の操縦士は、次々に飛び立っていく仲間を見送り終戦を迎えた。あれから80年。「人間として認められない『鉄砲玉』として、無駄死にさせられた」「仲間の死は決して無駄ではなかった」―。特攻へは異なる感情を抱く一方、「過去を知って判断してほしい」と不戦の思いを胸に体験を語り続ける。(共同通信=西野開、神谷龍)
※筆者が音声で解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。

出撃する神風特別攻撃隊=1944年10月、フィリピン・マバラカットの飛行場
▽「おまえたちは消耗品」
1943年4月、鳥谷邦武さん(99)=佐賀市=は福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入った。どうせ男は兵隊に行かなければならない。だったら早く入隊して階級を上げた方がいいと思った。専攻は1番人気の操縦士。桜の花が散る入校式で、校長はこう言い放った。「演習で多くが死ぬ。おまえたち飛行機乗りは消耗品と同じだ」。入校は親戚一同の誇りだったが「来るんじゃなかった」と早速後悔した。
最初に教わったのは殴られ方。頬を殴られる際、避けると拳が鼻に当たって骨折してしまうため、「よけるな」と言い聞かされた。連帯責任を理由に毎日殴られた。1年後の卒業時、同期の1割ほどは精神的に向かないとして操縦士を外された。
1944年4~6月に朝鮮の群山で基本操縦を学んだ後、満州で戦闘機の演習をした。短時間で高度5千メートルまで上昇し、下降する訓練では、激しい頭痛に襲われた。思わず禁忌とされていた耳抜きをすると、耳の鼓膜が破れた。今や右耳は聞こえなくなってしまった。高速度の演習で同期がきりもみ状に墜落し、死亡する事故を何度か目にした。けがはなかったものの、自身も4回事故に遭った。恐怖心はとうになくなっていた。いよいよ死の恐怖と向き合わざるを得なくなったのは、特攻編入の命令を受けてからだった。

太平洋戦争中、大刀洗陸軍飛行学校を卒業して操縦士となった鳥谷邦武さん(左から2人目)=撮影年、場所不明
▽「死刑宣告」
「鳥谷邦武」。1945年春、集められた仲間らと共に将校幹部から名前を呼ばれ、特攻隊編入を命じられた。「死刑宣告だ」。脚ががくがく震えた。それからは体当たりの訓練ばかり。100キロの模擬爆弾を積むと速度が落ち、旋回もできない。「これほど(敵が)落としやすい飛行機はない」。無謀だとがくぜんとした。
遺書を両親に送るよう言われ、爪と髪だけを同封した白紙を送った。一人前のパイロットになりたくて頑張っていた。「お国のため」では決してない―。検閲があるため、白紙の手紙にそんな気持ちを込めた。
「死にたくないな」「成功するかどうか分からない爆弾を抱えて、撃ち落とされに行くなんてばからしい」とひそかに慰め合った仲間は次々に出撃。同期の大石安一さんが発した言葉は、プロペラの音にかき消されたが、口の動きからこう読み取れた。「おまえたちは来るなよ」。もう俺たちだけでたくさんだ、というふうに。
6月、沖縄が陥落し、作戦は中止された。命拾いしたと、内心「万歳」した。

▽戦況悪化での禁じ手
特攻作戦は戦況が厳しくなる中で日本軍が実施した「禁じ手」だった。特攻作戦を最初に行ったのは1944年10月のフィリピン・レイテ沖海戦だ。大西滝治郎海軍中将が、爆弾を装着した航空機で敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」を編成。米空母「セント・ロー」を撃沈させる戦果をあげた。
1945年3月、米軍はついに沖縄県・慶良間諸島に上陸。4月1日には沖縄本島に達し、以降、特攻は本格化した。5月、ドイツの降伏により、連合国軍の攻撃が日本に集中し、戦局はさらに悪化。本土防衛の拠点として沖縄を重視した軍部は、陸軍の知覧(鹿児島県)や大刀洗など九州を中心に、台湾の飛行場からも特攻機を相次ぎ沖縄方面に出撃させた。大刀洗の飛行学校の教官、助教も宮崎県の新田原から飛び立った。
爆弾に翼と操縦席を付け人間爆弾とも呼ばれた「桜花」や、脱出装置を備えなかった人間魚雷「回天」、ボートに爆弾を積んだ「震洋」「マルレ」が次々に開発され、空と海の両方から特攻作戦は行われた。
沖縄が陥落した6月以降も終戦まで続いた。特攻隊戦没者慰霊顕彰会(東京)によると、特攻戦死者数は6371人(海軍4146人、陸軍2225人)。うち航空特攻は3875人だった。

太平洋戦争中の写真を眺める上野辰熊さん=2025年2月、埼玉県新座市
▽4分の1に短縮された飛行教育
山口県萩市出身の上野辰熊さん(97)=埼玉県新座市=は小学1年の終わり頃、家族と共に満州へ渡った。日本人が「匪賊」「馬賊」と呼んだ武装集団や群盗から日本人の子どもたちが拉致されるのを防ぐためとして、通学路を日本兵が見守っていた。よく遊びに行ってはお菓子を買ってもらい、軍人へのあこがれが芽生えた。
中国を転々とした後、1943年10月に大刀洗陸軍飛行学校に入校し、わずか半年で卒業した。通常2年間の教育が半年に短縮されるほど、戦況は差し迫っていた。基本操縦を習得した1944年末、既にフィリピンで特攻作戦が始まっていた。「次は俺たちの番だぜ」。同期たちとうわさした。
年が明けると、艦船爆撃の訓練が始まった。急降下後、最高速度に近いスピードで水平に飛ぶのは難しく、機体を起こせなければそのまま敵艦にぶつかる。命懸けだった。「これは特攻の訓練になったな」と確信した。

太平洋戦争中、大刀洗陸軍飛行学校を出て操縦士となった上野辰熊さん(本人提供)=1945年4月、岐阜県各務原市で撮影
▽希望かなわずとも「後から行くぞ」
1945年2月末、特攻の希望調査が配られ「熱望」と書いた。国のため、死ぬ覚悟だった。続々と特攻隊が編成されていく中で、自分には声がかからない。再度希望を申し出たがかなわず、5月に鹿児島県にある万世飛行場の戦隊に転属となった。
戦隊は特攻と違い、生き残って戦うのが務めだ。敵機から逃げるため垂直旋回の訓練もした。その間も絶え間なく出撃する特攻隊員を「俺も後から行くぞ」と見送った。
沖縄が制圧され、本土決戦も現実味を帯びた7月、大刀洗に移った。奄美へ出撃予定と告げられていた8月15日、昭和天皇による終戦詔書がラジオで流れた。

▽仲間の死「決して無駄ではない」
終戦後、上野さんは戦友会の事務局を務め、万世特攻平和祈念館の慰霊祭に毎年参列している。
出撃前夜のにこやかな顔、搭乗前の緊張した顔―。杯を交わした仲間の表情が上野さんの脳裏に焼き付いている。戦友たちが逝った思いを分かってもらいたいと、語り部を続ける。
今は作戦を「ばかなことだった」と受け止める。ただ、特攻兵の死は「決して無駄ではなかった」と信じている。理由を尋ねられ「何でだろう。自分が生き残ってるからだろうな」と遠くを見つめた。「孫、ひ孫に戦争の苦しみは味わわせたくない」と反戦への思いは迷わず答えた。

鹿児島県南さつま市の旧陸軍万世飛行場跡地で営まれた慰霊祭。上野辰熊さんも訪れた=2025年4月13日午前
▽人間として認められない「鉄砲玉」
鳥谷さんは終戦後、旧ソ連のシベリアに抑留された。マイナス63度の酷寒の中、1日1食手のひらサイズのパンだけ与えられ、重労働を強いられた。瞬時に命を奪われる特攻への恐怖とはまた違う、じわじわと殺されるような感覚だった。1947年に帰国した。
「多くが途中で撃ち落とされたり、不時着したりした。人間として認められない『鉄砲玉』だった」。こう語るようになったのは終戦から70年を過ぎてからだ。何度か出撃命令を受けながら生き延びた同期に「特攻を侮辱するな」と言われ「こいつも死にきれなかったんだろう」と思うと、生きているうちは話せなかった。
戦闘機で撃墜する「敵」にも自分たちのように家族がいただろうと、今は思う。現在も続く戦争を憂い「戦争よりばからしいことはない。今の人には過去を知って、判断してほしい」と思いを託す。

鹿児島県南九州市の知覧飛行場跡地で営まれた旧日本陸軍特攻隊員の慰霊祭で献花する参列者=2025年5月3日午後、鹿児島県南九州市
▽「一撃講和」の構想、終戦まで
特攻について、日本近現代史が専門の一ノ瀬俊也・埼玉大教授に話を聞いた。
(以下引用)
1941年の開戦時、日本の指導者層は明確な終戦構想を持っていなかった。1942年のミッドウェー海戦や1944年のサイパンの戦いで敗北が続き、軍事的勝利の見込みがなくなると、対米「決戦」に1回勝利した上で有利な条件で和平を目指す「一撃講和」論が浮上した。それは1944年7月の東久邇宮稔彦陸軍大将の日記などから読み取れる。

そのための戦術が特攻作戦だった。最初の一撃講和の機会となったのが、1944年10月のフィリピン・レイテ島の戦いだ。特攻は「統帥の外道」と呼ばれ、本来指導者の取るべき作戦ではなかった。そこで海軍指導部は大西滝治郎海軍中将の「建言」を利用し、あくまで志願の建前をとった。陸軍も特攻の準備を進めた。
何としても勝利を挙げるべく、海軍はレイテ沖での海戦に艦隊をつぎ込み、神風特別攻撃隊を出撃させ、米空母を撃沈した。海戦には敗れたものの、幸か不幸か戦果を上げてしまったために「もっとやろう」という方針になった。さらに、物量の差が圧倒的にある中で「精神力で埋めれば勝てる」という考え方も軍指導部にはあっただろう。
こうした中で沖縄への特攻は、陸軍にとって本土決戦への時間稼ぎが目的だった。一方、海軍と昭和天皇にとっては沖縄戦が最後の一撃講和の舞台だったことが「昭和天皇独白録」から分かる。
だが時間稼ぎのための「捨て石」とした沖縄でも1945年6月に敗北。元々沖縄戦は沖縄を守るための作戦ではなかった。
指導者たちは皆、沖縄陥落まで和平を言い出すこと自体が臆病と見なされ、自らの地位喪失につながることを恐れた。自己のメンツを最大限守ろうとした彼らの思惑の下、特攻は終戦まで続いた。特攻を美化することなく、経緯や背景を学校教育や資料館、メディアが伝えていく必要がある。
(以上引用)