先住民900人超の命奪った「無関係の戦争」、今も覇権の最前線で憂う生存者 「玉砕の島」サイパン、日本人の訪問は激減#戦争の記憶

サイパン島南西部の海岸=2025年8月8日

 空と溶け合うように青く透き通った海がどこまでも続く。日本から南に約2400キロ、中部太平洋に浮かぶ米国の自治領・北マリアナ諸島のサイパン島。1944年6~7月、楽園のような島は、太平洋戦争の分岐点となる激戦の舞台となった。2万人を超える住民を巻き込み、太平洋戦争で初めて、約1万人に上る膨大な民間人犠牲者を出した戦闘でもあった。

 当時、島は日本が統治し、住民の大半は日本から海を渡った移民家族だった。一方、数千の先住民も存在していた。日本国籍は与えられず、差別的な身分に置かれた彼らにも戦禍は等しく襲い、900人以上が命を落とした。

 太平洋戦争の「記憶の風化」が叫ばれて久しい。とりわけ日本人とは異なる立場の人々の体験を知る機会はわずかだ。島の人々は「あの戦争」をどう受け止めているのか。戦後80年を迎えた今年8月、強い日差しがそそぐ常夏の島を訪ねた。(共同通信=野口英里子)

※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。

サイパン島の戦いで亡くなった先住民の名前が刻まれた「マリアナ追悼碑」=2025年8月、米自治領サイパン島

▽「絶対国防圏」

 サイパン島で最大の繁華街、ガラパンに隣接するアメリカ記念公園の一角に「マリアナ記念碑」が立っている。円弧の一部を描くように設置された花崗岩のプレートには、929人の名前が細かな文字でびっしりと刻まれている。1944年の戦闘が原因で亡くなった先住民族、チャモロ人とカロリン人だ。名前の横に享年も刻まれていて、一桁だったり、「Infant」(幼児)と記されたりしている人もいる。

 サイパンには3千年以上前にチャモロ人が定住し、その後、カロリン人も移り住んだとされる。なぜ、日本と米国の戦場になったのか。

 1500年代から3世紀にわたるスペインの支配などを経て、北マリアナ諸島が日本の事実上の領土となったのは1920年。第1次大戦の戦勝国として国際連盟の委任統治制度に基づき施政権を得た。

 サイパンでは、国策会社がサトウキビ産業を興し、沖縄県などから多くの出稼ぎ労働者が移民となった。北マリアナ諸島を管轄する行政機関も置かれ、太平洋戦争開戦前の1939年時点の邦人人口は約2万4千人に上った。先住民の人口は約3700人だった。

 開戦から1年が過ぎた1943年9月、劣勢にあった日本は本土防衛のために死守すべき「絶対国防圏」を設定。サイパンはそのすぐ内側に入った。米軍から見ても、サイパンを押さえれば、最新鋭の爆撃機「B29」で日本本土の半分以上を空襲できる拠点を手にすることを意味した。

 1944年6月、米軍は空や海から本格的な攻撃を開始。同15日、米兵が南西部の海岸から上陸した。日本軍約4万3千人に対し、米軍側は7万人超。水際で侵攻を止めることはできず、戦線は北へと広がっていった。

サイパン島の戦いで亡くなった先住民の名前を刻んだ「マリアナ追悼碑」=2025年8月、米自治領サイパン島

▽幼い記憶に刻まれた苦痛

 日本人も先住民も、住民らはジャングルが広がる山中へと避難した。「空腹と喉の渇きだけは、今も覚えている」。カロリン人のリノ・オロパイさん(85)は、顔をしかめながら、記者を前に81年前のおぼろげな記憶を辿った。

 当時4歳。米軍の上陸直前、日本兵の指示を受けて家族や親戚とともにジャングルの中の洞窟に身を隠した。だが、間もなく洞窟の周りでも昼夜問わず銃声や爆弾の音がするようになった。子どもは外に出ることを禁じられ、大人たちが危険を冒して手に入れたわずかな食料を分け合う日々。水も乏しく、動物のフンが沈む水たまりの上澄みを飲んだこともあった。

 まだ戦闘が続いていたある日、洞窟にいたところを米兵に発見され、収容所に入れられた。ようやく安全が確保されたはずだったが、一緒に逃げていた親戚2人が数日後に亡くなった。オロパイさんは「恐怖で張り詰めた避難生活に起因するストレスや、避難中に負ったけがが原因だ」と考えている。

サイパン島の戦いを体験したリノ・オロパイさん=2025年8月、米自治領サイパン島

▽「飛び降りなければ殺す」

 日本軍は後退を続け、6月下旬には島内で最も標高が高いタポチョ山の山頂を奪われた。7月7日、民間人を含む約3千の兵士が米軍を急襲したが全滅。日本軍の組織的戦闘は終わり、同9日、米軍はサイパンの占拠を宣言した。逃げ場を失った日本人の一部は、タポチョ山や島北端のマッピ岬の断崖から身を投げて自ら命を絶った。

 マッピ岬に追い詰められた住民の中に、オロパイさんのいとこの女性がいた。父親が日本人だったため日本人と共に行動していた。顔立ちから日本人だと誤解され、日本兵に銃を突きつけられ「飛び降りなければ殺すぞ」と迫られたという。

 いとこは逃げたが、他の日本人が海に飛び込んでいく一部始終を目撃した。戦後、オロパイさんが体験を記録に残そうと証言を促したが、女性は「語ろうとすると、涙があふれて止まらなかった」。

 流れ弾に当たったり、日本兵にスパイ嫌疑をかけられて殺害されたりした先住民もいた。栄養失調で亡くなった幼児も。さまざまな形で命を奪われた先住民の慰霊のため、2004年、アメリカ記念公園のマリアナ記念碑は建立された。

 戦後、カロリン人の伝統文化の復興に取り組んだオロパイさんは、記念碑を考案するチームの一員だったという。一軒一軒を訪ねるなどし、929人が亡くなったことを明らかにした。「9割は特定できた」と見ている。

追い詰められた住民らが身を投げたサイパン島北端のマッピ岬=2025年8月9日

▽「大国はやりたい放題」

 「私たちには無関係の戦争だった」。オロパイさんは証言中、何度もこう強調した。一方、日本に対して怒りは感じるか尋ねると、「両親や親戚はいつも『日本の時代は良かった』と言っていた。島民が経済的に自立する手段を与えてくれたからだ」と評価した。

 本来関係ないはずの日米の戦争に巻き込まれたことについては、どう感じているのか。質問を重ねると、オロパイさんは「答えを持ち合わせていない」と首を振りつつ、達観したような表情で語った。

 「戦争の責任が日本と米国にあることは当然だ。しかし、こう言える。悪い時代、悪い場所に生まれてしまったということだ」

「マリアナ諸島はとても小さい。(大国は)私たちの同意なしにやって来て、やりたい放題できる。日本だけではない」

 実際、周辺の太平洋地域は今、米中の覇権争いの最前線だ。サイパンと5キロほどしか離れていないテニアン島では近年、米軍が日本を含む同盟国と軍事訓練を実施。抑止力強化を名目に太平洋戦争で使用した飛行場の再建も進む。

 オロパイさんは「戦争はもう見たくない。次世代の人たちが、全ての人の利益となるような解決策を見つけてほしい」と訴えた。

サイパン島の戦いで救助された先住民ら=1944年7月(沖縄県公文書館所蔵)

▽日本人にも多大な被害、でも「忘れ去られてしまう」

 厚生労働省によると、日本人の戦死者は軍民合わせ約5万5千人。このうち約2万6千人分の遺骨がまだ島内に眠っているとみられる。投身自決が行われたマッピ岬やタポチョ山の絶壁の下には、大小さまざまな複数の慰霊碑が立つ。戦後、帰郷した元住民や遺族らが建てたものだ。

 サイパン在住の日本人で、北マリアナ諸島政府公認ガイドの資格を持つ高橋香織さんは20年以上、元住民や遺族に島内を案内してきた。だが、そうした関係者の多くは鬼籍に入るか高齢になり、訪問は年々減っている。「子どもや孫に慰霊を引き継げた人もいますが、ほんの一部です」

 一般の観光客の渡航も激減している。かつてサイパンは安価に行けるリゾートとして日本人に人気を博したが、景気低迷や新型コロナウイルス禍などが影響。観光局によると2024年の日本人観光客数は約1万2千人で、ピーク時の40分の1以下だった。

 高橋さんが悲しそうにつぶやいた。「いつか、サイパンが日本人に忘れ去られてしまうんじゃないかと思う時もあります」

サイパン島最大の繁華街、ガラパン。観光客の姿はほとんどなく閑散としている=2025年8月7日

▽戦争を振り返り、平和を築く

 「あそこ。海の色が少しだけ違うのが分かりますか。米軍の砲撃を受けて、サンゴがどうしても育たないんです」。8月9日、島を360度一望できるタポチョ山の山頂で、高橋さんが南西方向を指差した。目をやると、浅瀬の一部が周囲よりも濃い青色だった。

タポチョ山の山頂から米軍の上陸地点の方向を指す高橋香織さん=2025年8月9日

 高橋さんの案内で島内を巡ると、他にもあちこちで戦争の「爪痕」を確認することができた。米軍の艦砲射撃を受けて崩れた山肌。爆撃で壁に穴の空いた日本軍の司令部跡防空壕と、火炎放射器を受け黒くなったその入り口―。日本人の影は薄くなる一方で、島の住民らは81年前と地続きの世界を生きていた。

米軍による艦砲射撃で一部が崩落したマッピ山の崖=2025年8月9日

 戦跡は「観光資源」にもなっているが、住民の安全を脅かす遺産もある。爆発しないまま残された砲弾や手榴弾などの武器だ。サイパン市によると、現在でも建設工事などの際に地中から発見されることがある。地元メディアによると、今年7月下旬に襲った台風による高潮で浸食されたガラパン近くの海岸で、複数の不発弾が現れた。

 サイパン市のカマチョ市長は「(爆弾に含まれる化学物質が)島を汚染し、健康に影響を与えているのではないかと不安に感じている」と指摘する。米国でも日本でもない「独立した第三者」が調査して全容を明らかにした上で、両国に支援を求めたいと話す。「日本や米国が罰を受ける必要はないが、被害に対する補償はなされるべきだ」

 カマチョ氏は今年8月、被爆地、広島市を初めて訪れた。6日の平和記念式典に参列した他、松井一実市長や広島県知事、地元議員らと交流。サイパンへの観光の回復や平和教育の発展に向けた協力を呼びかけた。具体的な話はこれからだが「良好な関係性を築けた」と期待を寄せる。

 サイパンと広島で起きた惨事を重ね合わせ「私たちは(同じことを)繰り返さないために、戦争の犠牲を振り返り、手を取り合って平和を構築する必要がある」と訴えた。

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 野口英里子(のぐち・えりこ) 2017年入社。滋賀、広島、福岡の支社局を経て25年5月から外信部。サイパンは初訪問で、海の美しさにみとれた。81年前、こんな景色に囲まれながら兵士たちは殺し合っていたのかと思うと、いっそう胸が痛んだ。