靖国から100年越しに北朝鮮へ還った”略奪文化財”を追って…日本人が向き合うべき「もう一つの戦後処理」
豊臣秀吉の朝鮮出兵に起因する貴重な文化財が、東京都の九段北にある「靖国神社」に1906年から約100年間も置かれていた。
それは、朝鮮半島北部にあった「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」という石碑。ちょうど20年前の2005年10月12日、靖国神社で北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ返還するための式典が行われた。この石碑が韓国を経て北朝鮮へ着いてからも、私は追い続けた。
中編記事『靖国神社で行われた“異例の儀式”…日本による「略奪文化財」が北朝鮮へ還るまでの「知られざる舞台裏」』より続く。
軍事境界線を越えそうになる

ソウルに置かれていた時の北関大捷碑(2005年11月19日撮影)
2006年3月1日の朝、車で宿を出発。開城(ケソン)の街を抜けるとすぐに、長く続くフェンスが見えてきた。その一角に「開城工業団地」へ入る北朝鮮側のゲートがあった。通勤の労働者たちが、自転車やバイクで中へ入って行く。銃を持った兵士が、私のパスポートをかなりの時間をかけてチェックする。
北朝鮮の経済特別区は、韓国と隣接するこの開城の他に、中国・ロシアとの国境に設けられた「羅先(ラソン)経済特区」がある。外国人は基本的に、それらの外国から経済特区へ入るようになっている。平壌(ピョンヤン)から入国して、開城工業団地へ入る外国人はほとんどいないようだ。(*)
*『現代ビジネス』「『プーチンと習近平が競って投資』する北朝鮮『羅先経済特区』で再開された団体観光が『突如中止』の謎」(2025年4月2日)参照
この工業団地へ入る許可が出ていることを、平壌に着いてから知った。「許可を取るのはかなり大変でした」と北朝鮮外務省の外郭団体「朝鮮対外文化連絡協会(対文協)」のベテラン案内員がそう言う。
おそらく対文協は、この許可を取るため人民軍とも交渉したことだろう。北朝鮮へ行くために乗った関空からの瀋陽便が大雪のために途中で運行停止に。自宅まで戻った私に、対文協が訪朝を強く促したのは、この許可がすでに出ていたことが大きいようだ。

北朝鮮側の出入境事務所(2006年3月1日撮影、ビデオより)
この工業団地は65.7平方キロメートルもあり、造成中の土地が広がっている。対文協の案内員だけでなく平壌の運転手も、この中を走ったことはないという。道路の舗装がかなり良いので、運転手はかなりの速度を出す。工場が集中している場所を通り過ぎたところに、道路をまたぐ大きな建物があったが運転手は、まったく速度を落とすこともなく通過。
さらに進むと、道路だけを挟む形で両側に高いフェンスが続くようになった。私は少し不安になってきた。すると正面に大きなゲートが立ちはだかり、そこで銃を持っている兵士に車は止められた。このゲートの向こう側は韓国だったのだ。もしゲートが開いていたら韓国へ入ってしまい、大事件になるところだった。(*)
*『現代ビジネス』「北朝鮮が『地雷』を埋めた韓国へと続く道路…かつて私が、この道を撮影しながら軍事境界線まで行ってしまった“事件”とは」(2024年5月14日)参照
集合場所の「出入境管理事務所」は、先ほど通過してきた大きな建物だった。軍用車両に引率されてそこへ戻ると、北朝鮮メディアが待機していた。そして全員が集められ、撮影についての注意があった。
「兵士を決して撮ってはいけない。撮影のためにこの位置から移動することと、トラックが来る方向以外にカメラを向けるのも禁止!」と厳命された。
だが私は、工業団地の入り口から軍事境界線まで撮影してしまっている。そこにいた関係者が話しかけてきて、「団地内での撮影は厳しく禁止されていて、車の中から撮影をした韓国人が何度も写真を没収されている」と言うのだ。

韓国からやってきたトラックとバス(2006年3月1日撮影、ビデオより)
しばらくすると、美術品運搬のトラックが軍事境界線を越えてやってきた。その前面と側面には「北関大捷碑」と漢字で書かれている。約160人の関係者と韓国メディアを乗せた数台のバスがそれに続く。本来なら私も、そのバスでここへ来るはずだった。
韓国からの人たちは、入境手続きをするためにバスから降りてきた。韓国メディアは誰もカメラを持っていない。もし隠し撮りをして見つかったら今日の式典は中止になったり、場合によっては南北関係にも影響するかもしれない。
韓国人たちは、北朝鮮メディアとは撮影機材や服装が明らかに違う私が撮影しているのを訝しげに見ている。なお、この開城での式典取材を、日本のメディア2社が申請をしたものの許可が出なかったという。
北関大捷碑は「南北和解・協力のシンボル」
北関大捷碑を、韓国から北朝鮮へ渡すための「引き渡し引き受け式典」の会場となったのは「高麗(コリョ)博物館」。高麗王朝末期から朝鮮王朝時代までの最高教育機関だった「成均館(ソンギュングァン)」である。
中へ入ってまず目につくのは、立ち並ぶ樹齢1000年を越えるケヤキやイチョウの巨木である。その先に、古い建築物18棟が並ぶ。

高麗博物館に立ち並ぶ巨木(2016年8月21日撮影)
ここは「ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)」によって2013年に、「開城の歴史的建造物群と遺跡群」の一つとして「世界文化遺産」に登録されている。
その重厚な雰囲気の中に、韓国から運ばれたと思われるたくさんの椅子が並べられていた。プラスチック製の安っぽくて真っ白な椅子が、あまりにも不釣り合いだ。

北関大捷碑引き渡し引き受け式典(2006年3月1日撮影)
時折、小雪が舞う中で式典が始まった。北朝鮮の「北関大捷碑取戻し対策委員会」の金錫煥(キム・ソクファン)委員長は、「北南共同の努力で碑を取り戻したことを契機に、日本が奪ったわが民族の貴重な文化財をすべて取り戻すための活動を、今後も力を合わせて広げていくべき」と発言した。
そして碑返還までの詳細な経過報告においては、この返還の立役者である柿沼洗心氏の名前は出なかった。
南北の関係者とも、北関大捷碑を「南北和解・協力のシンボル」とし、この返還でのさらなる南北の友好を謳い上げた。開城での式典の翌日、北関大捷碑は国宝第193号に登録された。

北関大捷碑の国宝指定の石碑(2009年10月18日撮影)
アジアの平和達成に寄与する契機に
私は平壌で、北関大捷碑取戻し対策委員会常任副委員長で「朝鮮仏教徒連盟中央委員会」の沈相鎮(シム・サンジン)副委員長にインタビューした。これは、柿沼氏の努力が報われるような内容だった。
「日朝は敵対的関係にありますが、北関大捷碑の返還は朝鮮半島だけでなくアジアの平和達成にも寄与する大きな契機になるとして取り組んできました。靖国神社を何度も訪れ、返還交渉を行った(韓国の)樵山(チョサン)和尚と柿沼先生に深い謝意を表します。この返還は文化財を復元させるという意義と共に、北南の仏教徒間の連帯と、日本の仏教徒との相互和解を実現させる重要な契機です」。

文書を交換する南北の関係者たち(2006年3月1日撮影)
対策委員会副委員長で「国家文化保存指導局」の李義夏(リ・イハ)副局長は、靖国神社にあった時の北関大捷碑の形を問題にした。
「碑が靖国神社に置かれていた時、碑の上に重い石を載せてありました。これは英霊たちの気が生きないように押さえつけたものであり、朝鮮民族の魂を踏み潰そうとした証拠といえるでしょう」。
確かに、靖国神社に置かれていた時の北関大捷碑は、厚さがわずか13.5センチの石碑の上に、不釣り合いなくらい大きな重さ約1トンの自然石が載せられていた。その姿はまるでキノコのようだった。
柿沼氏はそれも碑の一部であると考えて輸送に頭を悩ませていたが、韓国政府は碑文の刻まれた部分しか持ち帰らなかった。そしてソウル市で公開された時には、新しく製作した朝鮮の伝統的デザインの小さな石が載せられていた。
元の場所へ戻った碑を見にいく
北関大捷碑はこの後、かつて建っていた咸鏡北道(ハムギョンプクド)金策市(キムチェクシ)臨溟里(リムミョンニ)へ約100年ぶりに戻った。そして3月23日には、関係者と住民が参加し盛大な「復元式」が行われたという。
その後、2008年5月になって、金正日(キム・ジョンイル)総書記が北関大捷碑を現地視察。「祖先の闘争の歴史を研究し、民族第一主義の思想教育をする上で意義がある」と語った。

金策市の北関大捷碑の祠(2009年10月18日撮影)
ここまでの取材を、講談社の月刊『現代』やTBS系列「報道特集」などで発表した。だが私は、元あった場所へ戻った北関大捷碑をどうしても見たかった。2009年10月、平壌から列車で清津(チョンジン)市まで行き、そこから車で少し南へ戻って金策市へ。
未舗装の幹線道路を、砂埃を巻き上げて走る。すると丘陵地帯の中の道沿いに、真新しい朝鮮の伝統的な祠が見えてきた。中をのぞくと、北関大捷碑が置かれている。

祠の中の北関大捷碑(2009年10月18日撮影)
この史跡にも案内員がおり、ずいぶん時間が経ってからチマ・チョゴリ姿で現れた。日本人と韓国人は、ここへ来たことがないという。中国人団体客が通りすがりに立ち寄ることがあり、駐車場が整備されている。
北関大捷碑の波乱に満ちた歴史は、朝鮮半島での覇権を求め続けてきた豊臣秀吉から続く日本の歴史でもある。最悪の日朝関係の中で、靖国神社が収蔵していた文化財が北朝鮮へ返還されたのは実に画期的な出来事だ。これが実現した理由は、南北関係が最良の時期だったことと、日本の北朝鮮への独自制裁が始まる前だったことだ。
そしてこの北関大捷碑は、戦前・戦中には「戦利品」としての価値があったものの、敗戦後の靖国神社には「秀吉の日本軍を破った」という石碑は邪魔になった。貴重な文化財であるため処分もできず、返還の話は渡りに船だった。そのため靖国神社は、無条件で返還をしたのだ。
私の北関大捷碑取材は、金策市へ戻った石碑を見て完結した。私はジャーナリストとして、重要な文化財が靖国神社から韓国を経て北朝鮮へ戻って行く過程を、胸を躍らせながら取材することができた。とんでもないトラブルがいくつもあったものの、達成感は大きかった。
日本へ運ばれた朝鮮文化財
韓国の「国家遺産庁(旧・文化財庁)」によれば、日本・米国・ドイツ・中国・英国・フランスなどに約24万点(2025年1月現在)の朝鮮文化財があり、日本はその54パーセントにあたる10万8705点だという。
日本と朝鮮半島との長い交流の歴史からすれば、多くの朝鮮文化財が日本にあるのは当然のことである。日本に多いのは、日本人が朝鮮の美術品を愛好したこともあるだろう。
だが日本は、植民地支配下の朝鮮半島から膨大な数の文化財を持ち出している。高麗青磁・李朝白磁、仏画、書籍、石像・石碑、墳墓の発掘品など、貴重な朝鮮文化財が日本にある。これらは、博物館・美術館・資料館や民芸館、そして個人のコレクションとして収蔵されており、公開されていないものが多い。

慶尚南道の冠(「東京国立博物館」収蔵、2019年3月16日撮影)
日本で質と量において貴重な物を収蔵しているのは「東京国立博物館」である。この中の「東洋館」には、「大邱電気」を創立した小倉武之助が収集した1121点の「小倉コレクション」がある。また石塔では「根津美術館」の「八角円堂形浮屠」、「大倉集古館」の「利川(イチョン)五重石塔」が知られている。
戦争や植民地支配で、他国の文化財を略奪することは世界中で行われてきた。略奪や武力を背景に「贈与」させたものではなく、友好のために贈与されたり正当な価格で購入したものであれば何の問題もない。
だが朝鮮半島から日本へ運ばれた文化財の中には、「朝鮮総督府」でさえ怒るようなひどい略奪によるものもあった。
韓国の「国立中央博物館」の吹き抜けには、高さ13.5メートルの「敬天寺十層石塔」がそびえ立つ。高麗の都だった開城の敬天寺に建てられていた大理石の石塔である。

敬天寺十層石塔(韓国「国立中央博物館」収蔵、2005年11月16日撮影)
この石塔を田中光顕・宮内大臣が、1909年に朝鮮から持ち出して東京の自宅へ運び込んだ。寺内正毅・初代朝鮮総督が返還を要請したが応じようとしなかったが、1918年になって朝鮮へ戻された。だが損傷がひどくて放置されてきたが、1959年になってようやく復元されて国宝86号に指定されている。
北関大捷碑の返還後、韓国では日本にある朝鮮文化財の返還を求める運動が活発になり、いくつかの返還が実施された。「朝鮮王朝実録」は、25代におよぶ朝鮮王朝の472年間の公式記録。朝鮮総督府は、江原道(カンウォンド)の「五台山(オデサン)史庫」で保管されていた約760冊を1913年に「東京帝国大学」へ移した。
2006年7月、「東京大学付属図書館」が収蔵してきた47冊が、「ソウル大学奎章閣(キュジャンガク)」へ寄贈という形で返還された。また2010年12月には、朝鮮王朝の行事を記録した「朝鮮王室儀軌」を含めた1205冊の書物が韓国へ返還されている。このように韓国へ、いくつかの文化財返還が実現した。
ところが2012年10月に、対馬・観音寺の「観世音菩薩坐像」の韓国人による窃盗事件が起きた。この仏像が対馬へ戻ったのは今年5月で、解決に時間がかかったために他の文化財の返還の動きは止まってしまった。
未解決である北朝鮮への文化財返還
北朝鮮へ返還された文化財は、北関大捷碑だけしかない。日本にある朝鮮半島北側からの文化財でよく知られているのは、大倉集古館に置かれた「栗里(ユルリ)寺址八角五重石塔」や、東京大学が収蔵している平壌の「楽浪(ランナン)古墳群」から発掘した膨大な量の副葬品だ。

栗里寺址八角五重石塔(「大倉集古館」収蔵、2006年8月13日撮影)
独立行政法人「国立文化財機構」は、東京・京都・奈良・九州の国立博物館などを運営している。私は、それらが収蔵する朝鮮半島からの文化財についての調査依頼をした。その結果、東京3890点・京都327点・奈良48点・九州11点の合計4276点を収蔵していることが分かった。
そのうち、出土地が朝鮮半島南側と出土地不明を合わせた数は、東京3316点・京都319点・奈良45点・九州9点の合計3689点。出土地が朝鮮半島北側の物は、東京574点・京都8点・奈良3点の合計585点であることが判明した。
1965年の日韓国交正常化の際に結ばれた「文化財・文化協定」によって、国立博物館を含む国が収蔵する朝鮮半島南側からの文化財は不十分ながらも韓国へ返還された。一方の、朝鮮半島北側からの文化財の扱いはどうなっているのか。

平壌からの竈(東京国立博物館収蔵、2019年3月16日撮影)
2002年9月の「日朝平壌宣言」には、「双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした」と明記されている。現在の日朝関係では、その協議が始まるめどはまったく立たないが、日本は北朝鮮への文化財返還にいつかは取り組まなければならない。
「世界貿易センター連合」のトゾリ総裁が、北関大捷碑の北朝鮮への返還に積極的な協力をしたのは、平壌に「世界貿易センタービル」を建設するためだった。その計画は実現しなかったが、同じように北朝鮮でのビジネスの野望を持っている米国財界人がドナルド・トランプ氏だ。
トランプ大統領は2018年6月12日、シンガポールで金正恩(キム・ジョンウン)総書記と初の首脳会談を行った。その直後に何度か、北朝鮮のビーチは立地が良いと褒め、そこへのコンドミニアムの建設に言及。今年1月20日の大統領就任日にもこのビーチコンドミニアムに触れるなど、北朝鮮の観光資源についての関心をたびたび表明している。

「元山葛麻リゾート」の竣工式(「朝鮮中央通信」より)
金正恩総書記は9月21日の「最高人民会議第14期第13回会議」において、トランプ大統領に北朝鮮の核保有を容認させるという考えを明確に示した。
トランプ大統領は第1次政権下の2019年初頭、米朝首脳が話し合っている最中に米海軍特殊部隊を北朝鮮へ潜入させようとした。ところが失敗し、民間人2~3人を殺害したことが発覚している。
金正恩総書記は最高人民会議での演説で、米国との関係について詳細に語っているにもかかわらず、この重大事件にあえて触れなかった。明らかに、トランプ大統領との会談を望んでいるのだ。
一方のトランプ大統領は、今月31日から韓国で開催される「アジア太平洋経済協力会議(APEC)」首脳会議に合わせて29日に訪韓する予定だ。その日に韓国の李在明(イ・ジェミョン)大統領との会談を行ない、翌日には中国の習近平国家主席と韓国で会談をするという日程になりそうだ。
そしてこの韓国滞在中に、米朝首脳会談が実現する可能性があると報じる韓国メディアもある。そうなれば、特殊部隊事件で大きな借りを作ったトランプ大統領は、金正恩総書記へどのようなボールを返すのだろうか。
(写真はすべて筆者撮影)
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