尋問官が被疑者の娘に「お前の母親が死刑になると知ってるか?」と電話…口を割らない相手には家族をも人質にするイラン刑務所の「蛮行」

悪臭と恐怖に満ちたイランのエヴィーン刑務所。イランの首都テヘラン北部に位置し、主に政治犯・思想犯が収容される。そこで繰り返されるのは、看守による鞭打ち、性的虐待、そして囚人の昼夜の感覚を奪う「白い拷問」。囚人の中には、思想犯・政治犯として不実の罪で逮捕された女性たちも多い。

13回の逮捕と5回の有罪判決にも屈せずに「自由」を目指し闘い続け、獄中でノーベル平和賞を受賞したナルゲス・モハンマディによって明かされる、その非人道的な所業の実態とは…。

全世界で出版されている禁断のノンフィクション『白い拷問』(翻訳:星 薫子)より、一部抜粋・再編集してお届けする。

『白い拷問』連載第27回

『公選弁護人が「起訴状に恐怖」して弁護を拒否…“神に対する敵意の罪”で12年の禁固刑を言い渡された女性が語る「イラン司法の闇」』より続く。

聞き手:ナルゲス・モハンマディ、語り手:ザラ・ザクタチ

ザラ・ザクタチ(1969年生まれ)は社会科学の学者、研究者である。

2013年10月16日、彼女は諜報治安省に路上で逮捕された。その日から2014年12月まで、独房に拘禁され、厳しい尋問を受けた。夫のセイド・ジャヴァド・コシニヤット・ニクー、そして娘のナルゲス、妹のファエゼもまた同時期に数日間拘禁された。その後ザラ・ザクタチだけが一度の釈放もなく、刑務所に拘禁されている。

裁判が開かれたのは逮捕翌年の2014年4月8日だった。ザラはそれ以前の2009年にも、テヘラン大学でおこなった大統領選挙の結果に関する世論調査が原因で、数日間拘禁されている。

2015年には、ムジャヒディン・ハルク(別名イスラム人民戦士機構。現政権の打倒を目指すイランの武装勢力)と関わったという罪で起訴された。これは彼女が父親の写真を持っていたせいで、父親はこの組織を支持した罪で1981年に処刑されている。サラバティ裁判官はザラに10年の禁固刑を言い渡した。

世論調査アンケートで

——あなたは14ヵ月間、独房にいたわけですね。そんな拷問に耐えられると思っていましたか?

私は政治活動を活発にしていたわけではない。例外は2009年、(前回の)逮捕の半年前に小さな団体に所属していたときだ。

2009年の選挙とその後の政治についてのプロジェクトで、最高指導部が主導した世論調査だった。私はそのプロジェクトの一員として、地下鉄や路上で、人々にアンケートをとっていた。調査の内容は、人々が拷問され、殺されているという噂を信じるか、というものだった。

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ある日、私がハフテ・ティールの地下鉄の駅前でアンケートをとっていると、知らない男がすぐ横に立っているのに気づいた。不安にはなったが、合法的にやっていることだから、危険はないと信じていた。だからあえて、その男にもアンケートを頼んだのだ。彼はアンケートに応じ、その足でハフテ・ティール広場の駐在所へと向かった。警察官が来て、私は逮捕された。

ヴォザラ通りの拘置所に連れて行かれた。「私は政府の仕事をしているのであり、正規の許可をもらい、それに従って職務を果たしている」と説明した。上司は私たち調査官に、問題が起きたらすぐに連絡するよう言っていたが、私は電話をすることすら許されなかった。

拘置所での夜

ヴォザラ通りの拘置所で一晩過ごした。あの夜は本当に大変だった。

朝は人がいなかったが、夕方から夜になるにつれ、どんどん人が増えていく。麻薬常用者の女たちが連れて来られ、ほかには、一時結婚をした女性や、マルチビジネスに手を染めた女性などがいた。トイレは不潔で最悪だった。食事はアルミの鍋で運ばれてきて、そこにいる女性たちが一斉に群がった。刑務所の恐ろしいイメージが心のなかで膨らんでいった。

この2009年の経験を通じて、私は収監されること、その大変さを知った。ヴォザラ拘置所で過ごした一晩は、私にとって初めての、そして(今回の)逮捕前に経験した唯一の拘禁だった。

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2013年、209棟に入れられたときも最悪の扱いをされ、厳しい尋問を受けた。

私は女性房から出されて廊下にいた。尋問官が来るのを待っていた。するといきなり尋問官が現れ、私のチャドルをつかみ、身体を引きずって独房に押し込んだのだ。それから私を脅迫し、侮辱し始めた。彼は、数日あれば私の家族10人をここに連れて来て拘禁することができると言う。そして家族や義理の母を侮辱した。その男の威圧感で部屋のなかの空気が外に出てしまったような、息が吸えない状態になった。

「おい、さっきお前の死刑判決が出たぞ」と言われたこともある。

私は口を開くことさえ許されなかった。一言でも話そうとすると、お前にそんな権利はない! と怒鳴られるのだ。一晩中、そんな状態だった。

「ズダ袋を持ってこい」

「ズダ袋を持ってこい」と、彼は部下に命じ、その袋を私の前に放り投げる。開けると、中にはムジャヒディン・ハルクの横断幕が何枚か入っている。部下はまた、私の父の写真も持ってきた。1981年に処刑された父の写真を、私が額装してとっておいたものだ。尋問官は、私がキャンプ・アシュラフ(ムジャヒディンの本拠地。最後のメンバーがアルバニアに逃れ、2016年に閉鎖された)と関わりがあるかと尋ねた。

「いいえ。そのことで、父と姉は殺されましたが」と私は答えた。

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彼らは私のノートパソコンとプリンターとコンピューターを自宅から押収していた。

拘禁初日のこと。尋問官らと一緒に、私はエヴィーン刑務所の前に立っていた。私を自宅まで連行し、捜査する役人を待っていたのだ。尋問官らは、わざと私に聞こえる声で、「尋問官のなかには尋問の前に被告を殴るやつもいる」などと談笑していた。ある尋問官が近寄ってきて、私に電話を渡した。それが主任尋問官のアラウィ氏だった。彼の尋問は他とは違い、暴言を吐くようなことはなかった。彼は私に、捜査のためにメールアドレスを尋問官らに教えるのが身のためだ、と言ったが、「メールはしないのでアドレスはない」と答えた。

「お前の母親が死刑になると知ってるか?」

——あなたの受けた尋問の内容について教えてください。尋問官たちは、本当に何かの調査をしていましたか? 彼らの質問は、あなたの仕事についてでしたか?

209棟に連れて行かれた夜、すぐに尋問が始まった。夫、娘、妹、そして私は別々の部屋で尋問された。夫の声が聞こえることもあった。

34日間、私は尋問官とひたすら口論をしていた。尋問官は、今回の逮捕の10日前から私を監視していた、さらには2009年の逮捕、釈放後からずっと盗撮していたと言う。

尋問官との言い争いは観念的になっていき、これはもったいぶった前座のようなもので、本当の尋問はこのあとに始まるのだろうと思っていた。

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アラウィ氏は私に質問するより、様々な話題について、特に武装組織について、論じ続けた。私の方は娘と妹が釈放されたかどうかすら尋ねなかった。そのため尋問官らは、このままでは家族をネタに私にプレッシャーをかけられないと悟ったようだった。

そこで彼らは、こんなことをした。私の実家に電話をして、「お前の母親が死刑になると知ってるか?」と娘のナルゲスに告げたのだ。私は耐えられても、家族の気持ちは粉々に砕け散った。母は裁判官のもとに駆けつけ、必死で苦情を訴えた。家族の焦燥を知り、私が精神的プレッシャーを受けたのは言うまでもない。

私は、いわゆる「抵抗」をしたかったわけではないし、だんまりを決めこもうとしていたわけでもない。そうではなく、自分の権利に無知で、答え方が分からなかったのだ。彼らが負わせようとしている「モハレベ」の罪など、まるで身に覚えがなかった。

翻訳:星 薫子

『尋問官に「お前は死刑になる」と脅され続ける…イランの女性社会科学者が“14カ月”にわたる苛酷な尋問に抗えた理由』へ続く。