徹底抗戦によって和平を求め、ありとあらゆる特攻戦法を取った…「特攻の父」大西瀧治郎の遺書に書かれた「世界平和」を願う言葉の真意
国民に戦争終結を告げる天皇の「玉音」が放送された翌日、昭和20(1945)年8月16日未明、一人の海軍の将官が割腹し、自決をとげた。
昭和19(1944)年10月、フィリピン・レイテ島に進攻してきた米軍の大部隊に対し初めて特攻出撃を命じ、「特攻の父」とも呼ばれる大西瀧治郎中将である。大西はその後、軍令部次長となり、最後まで「あと2000万の特攻をだせば勝てる」などと、徹底抗戦を叫び続けたが、遺された遺書には、軽挙を戒め、特攻隊員と遺族に謝罪し、青壮年に後事を託し、世界平和を願う言葉が綴られていた。「徹底抗戦」と「世界平和」のはざまに秘められたその真意を2回にわたって読み解く。

昭和20年8月16日に自刃した大西瀧治郎中将の遺書。現在は表装され靖国神社遊就館に展示されているが、もとはこのように便箋5枚にわたって書かれていた
前編記事『【太平洋戦争】「2000万特攻」を叫んだ「特攻の父」が遺書に記した「世界平和」という言葉の真意』より続く。
富岡定俊少将宛の添え書き
昭和20(1945)年8月16日、大西瀧治郎中将が遺した遺書の本文には日付がないのに、別紙に細い筆で書かれた軍令部作戦部長・富岡定俊少将宛の添え書きには、わざわざ「八月十六日」と日付が入っているのも不思議である。この添え書きは、自刃直前に書かれたに相違あるまい。それだけに、遺書の本文が16日に書かれたものではないという反証にもなる。

大西中将の遺書と、それをおさめた折り畳まれた便箋。右端は、遺書とは別に軍令部の富岡定俊少将に宛てた添書き
富岡少将への添え書きは、
〈八月十六日
富岡海軍少将閣下
大西中将
御補佐に対し深謝す 総長閣下にお詫び申し上げられたし 別紙遺書青年将兵指導上の一助とならばご利用ありたし
以上〉
となっている。富岡は、軍令部では大西に次ぐ地位にあり、大西が後事を託して当然の人物である。
〈総長閣下にお詫び申し上げられたし〉
というのは、大西次長が強硬な抗戦論で後ろから豊田副武軍令部総長を押しまくったこと、ときには総長の意思に反して、出るべきでないところへ押しかけたりしたことを、代わって謝っておいてほしい、ということであろう。
最後に、この遺書を〈青年将兵指導上の一助〉にせよというのは、直接的には、抗戦論者、もしくは停戦に従わないものたちにこの遺書を見せて、
「抗戦の首謀者である大西はもう自刃したから、矛を収めなさい」
と利用したらよいということで、これも、芯からの「抗戦論者」の言葉とすれば不自然である。
そこで門司に思い当たるのが、フィリピンから引き上げ、沖縄戦を控えた昭和20年3月、大西が台湾の各基地をまわって訓示をしたときのその内容である。
一連の訓示のなかで、大西は、
「敵を殺せ」
と、連呼するように何度も言った。これは、味方に向けてではなく、敵、とくにアメリカ軍に対するメッセージだったのではないか、と思えてならないのだ。
このとき、訓示を聞いた毎日新聞社の戸川幸夫記者が無検閲で内地に送った記事を、問題視する幕僚をおさえて大西は咎めなかった。新聞記事が、中立国を経て敵国にわたったときの効果を、大西は期待していたのではないか。

昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から大西中将の副官をつとめた門司親徳主計大尉、児玉誉士夫(海軍の物資を調達する「児玉機関」長)、大西瀧治郎中将
海軍省軍務局員だった中山定義中佐は、海軍出身代議士との会食に陪席したさい、
「本土決戦にあたって、内地にはまだどれだけ各種の特攻隊がいるかわからない。米軍はきっと、本土上陸の前に、何か講和の手を打ってくるに違いない。特攻を盾に徹底抗戦を唱えるのは、日本の抗戦論者に対する配慮も当然あるが、連合軍に対して言っているのだ」
という話を大西から聞かされたと、門司に語っている。

昭和19年10月20日、神風特攻隊編成の日。フィリピン・バンバン川の河原で別杯。手前の後ろ姿は大西中将。向かって左から、門司親徳主計大尉、二〇一空副長・玉井浅一中佐(いずれも後ろ姿)、関行男大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
軍令部が弱気を表に出せば、敵はますます調子に乗ってくるだろう。大西は、徹底抗戦を叫ぶことで、本土決戦以前に、和平とまではいかなくても、先方から何らかの形で講和の呼びかけが出てくることを期待した。簡潔にいえば、「徹底抗戦によって和平を求めた」のである。そして、その手段は、ありとあらゆる特攻戦法であったのだ。
妻宛ての遺書

2000年、元特攻隊員有志の手で大西中将の墓所に建てられた「遺書の碑」
大西は、前記のいわば公的な遺書のほかに、妻・淑惠宛の遺言ともいうべき遺書を遺している。この遺書にも、日付は書かれていない。
〈瀧治郎より
淑惠殿へ
吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
三、大西本家との親睦を保続せよ
但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
以上
之でよし百萬年の仮寝かな〉
大西は、兵庫県丹波の生まれで、淑惠は東京生まれ。子はない。そんな事情から、大西が淑惠を思いやる気持ちがうかがえる。
淑惠宛の遺書には「直披」とある。〈之でよし百萬年の仮寝かな〉は、大西の辞世としてよく紹介されるが、公的な遺書とは別に淑惠へ宛てた「直披」であることを考えると、これを「辞世」と呼ばれることに、門司は違和感を覚えていた。
もう一句の〈すがすがし 暴風のあとに 月清し〉は、色紙に書いて柱に貼ってあるのを、自刃の一報を聞いて駆けつけた児玉誉士夫が見たということから、自刃の直前に書かれたもので、この夜の心象を率直に描いた句であるとみてよい。昭和20年8月16日の月齢は7.7で上弦の月である。これは軍令部から次長官舎に戻る途中、南の空に浮かんでいる月を見上げたか、国定少佐らが帰るのを見送りに出たとき、西の空に沈みかける月を見たか、どちらかであろう。

鶴見の総持寺にある大西瀧治郎夫妻の墓(撮影/神立尚紀)
大西が、本心で和平を願いながら最後の最後まで抗戦を主張したのは、
「一つには大西中将は死ぬ気でいるから、生き残るつもりの人と覚悟のありようが違って当然だということ、もう一つには、抗戦論の陸軍や海軍の一部に不穏な動きの気配があるとき、抗戦派の筆頭と目された大西中将は、ぎりぎりまで姿勢を変えるわけにはいかなかったからではないか」
と、門司は推測する。では、遺書が書かれたのはいつか。
「8月14日」
というのが、さまざまな状況から門司の導き出した結論である。
この日の御前会議に陪席を許されなかった大西は、この会議の間だけ時間の余裕があった。もはや、戦争終結の聖断がくだるのは間違いない。5月25日の空襲で炎上した霞が関の庁舎の焼跡で、軍令部次長の大西と海軍次官の多田武雄中将は同じ部屋で執務をしているが、多田は入院中で、大西は一人ここで遺書を書くことができた。淑惠宛の遺書を書いたのもこのときだったに違いないと、門司は考えている。

大西瀧治郎中将の副官だった門司親徳氏(撮影/神立尚紀)
「特攻の真意」が語られない謎
角田和男の疑問は、ダバオで小田原参謀長に聞かされた、大西中将の「特攻の真意」が、なぜ戦後、語られることなく、関係者が出版した本にもいっさい取り上げられないのか、ということである。
角田が、ダバオでこの話を聞かされたとき同席していた人のうち、話をしてくれた小田原参謀長は台湾から内地に帰る途中、飛行機が墜落して戦死、一緒に聞いた漆山睦夫大尉も戦死している。

大西中将から直接特攻を命じられた角田和男氏(撮影/神立尚紀)
残る生存者は、第六十一航空戦隊司令官・上野敬三中将と、先任参謀・誉田守中佐、そして部下の辻口静夫一飛曹、鈴村善一二飛曹(いずれも当時の階級)だが、上野と誉田は、角田からの問いに答えないまま世を去った。
辻口一飛曹は、話が終わったあと、角田に、
「ではあと半年、生きれば助かりますね」
と、目を輝かせた。日本はあと半年しか戦う力がないということが、特攻で死ぬことを目前にした辻口には一筋の光明になったのだ。話を聞いて、「それならば特攻で死ぬのはやむを得ない」と覚悟を決めた角田とは正反対の受け止め方だが、辻口は現に、こののち幾度も特攻出撃を重ね、その都度、エンジン故障を告げて飛行場ではない場所に不時着し、証拠を残さないよう機体を壊して帰ってきた。それは、生への執念ともいえる、辻口なりの壮絶な戦いであった。
だから、辻口は、少なくとも話の内容は理解していたはずである。しかし、生きて終戦の日を迎えた辻口は、戦後も戦友会や慰霊祭の類には一切出てこなかった。
本籍地から住所を探し当てた角田が手紙を出してからは、年賀状のやりとりだけは長く続いた。だが、角田が辻口と会ってこのことを語る機会の一度もないまま、あるときを境に辻口からの音信はぷっつりと途絶えた。
鈴村二飛曹は、戦後も角田の慰霊の旅に付き随い、折に触れ語り合う機会があったが、ダバオでの話については、
「あんな偉い人たちに囲まれて、緊張して何を聞いたか覚えてません」
と言っている。
「主人が申していたことと相違ございません」
だが、角田は、それとは別に、このことについて重要な裏づけを得ている。昭和50(1975)年、慰霊団の旅で戦後初めてフィリピンに渡ったとき、自ら清書した「大西中将の真意」を同行した大西夫人・淑惠に一晩預け、意見を求めた。
「主人が申していたことと相違ございません」
というのが、淑惠の答えだった。さらに昭和52(1977)年の慰霊の旅では、最初の特攻隊編成の場に立ち会った第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一中佐からも、
「その通りだ」
と、力強く肯定された。もとより「秘中の秘」の話で、この話を知っている人物は限られているから、大西淑惠と吉岡参謀が角田の記憶を肯定した意味は、けっして小さなものではない。

大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降、上落合の自宅で撮られたものと思われる
歴史の表面上は、「和平派」の米内光政海軍大臣が、「抗戦派」の大西軍令部次長と、大西に焚きつけられた豊田副武軍令部総長に最後まで手を焼かされたように見えるが、沖縄戦の帰趨ももはや明らかとなり、まさに日本が滅びつつある昭和20年5月という時期に、この両名を起用したのは、誰あろう米内である。
米内は、和平を進める上で、抗戦派を抑えるために大西を日本に呼び返した。このことについては、戦後、豊田副武が「極東国際軍事裁判」(一般の戦犯裁判と分けて行われた「丸の内裁判」)の法廷の被告人質問で、
「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和らげるためだ」
と証言している。

出撃する特攻機
米内とすれば、大西が激越に徹底抗戦を叫べば叫ぶほど、好都合であったのだ。米内は、大西に徹底的な抗戦論者を演じさせ、手を焼くふりを演じきった。大西もこれに十二分に応えた。門司はこれを、
「米内海相の政治」
だったのではないか、という。米内光政は終戦後、メモを焼却し、そのへんの機微を文書としてはなにも残していない。海軍大佐・高松宮宣仁親王も、日記には大西を抱きこんだ和平工作のことなど、なにも書いていない。だが、「書いていない」ということは、「なかった」ということにはならない。むしろ、隠密裏に進めるべき国家の重大事は日記になど書かないほうが自然であろう。
――だが、そのなによりの証拠が、大西の遺書には内包されているのだ。
ここで、角田和男の抱いていた「大西中将の特攻の真意」への疑問と、門司親徳が抱いていた「大西中将の遺書と、徹底抗戦論の謎」の疑問に対する答えが、あたかもカメラのピントが合うかのようにピタリと一致する。
「大西中将は、本土決戦さえ防ぐことができれば、たとえ国は滅びても日本民族は残る、残った日本人に将来の再興を託す、という最終の決断をされたのでしょうね」
と角田が言えば、
「大西中将の徹底抗戦論は、味方の戦意を奮い立たせると同時に、特攻隊を盾にしてアメリカに日本本土決戦を思いとどまらせ、和平を促すためのメッセージであったと思います」
と、万感をこめて門司も言う。
そしてこれは、大西個人の意思を超えた、海軍の総意であった。

フィリピン・クラークフィールドのバンバン地区に設けられた、第一航空艦隊司令部地下壕跡(撮影/神立尚紀)
ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議に先立って行われた最高戦争指導会議は、和平派の鈴木貫太郎首相、米内海相、東郷茂徳外相と、なおも強硬論を唱える豊田軍令部総長、梅津美治郎陸軍参謀総長、阿南惟幾陸相の意見がちょうど3対3に分かれた。御前会議では、「強硬派」3人が、連合国に宣言内容を再照会すべきとの所信を述べたが、ほかに発言する者がいなかったことから、鈴木首相は最終的に天皇の決裁を仰いだ。
万が一、ポツダム宣言受諾決定が多数決によるものであったなら、和平派、抗戦派それぞれの不満から国論が割れ、陸海軍の抗争を招いたかもしれない。天皇の聖断であったからこそ、日本陸海軍は整然と武装解除に応じることができたのだ。
――まさにこれは、大西が特攻作戦に踏み切る前から描いたとおりのシナリオであった。
大西瀧治郎は、将来の日本の再興までを見据えながら最後まで徹底抗戦論者の暴将を演じきり、遺書にささやかな本心を遺して、一人黙って責任をとった。
大西の人物像について、門司は次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか」
大西中将の妻
大西中将の妻・淑惠は戦後、夫の遺志を継いで身を削りながら慰霊行脚を続けた。
昭和21年にはGHQの監視下、築地本願寺で行われた海軍飛行専修予備学生十三期生の慰霊法要で、
「主人が皆様を戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません」
と、涙を滴らせながら土下座をし、逆に十三期生から、
「大西中将個人の責任ではありません、国を思わんがための特攻隊だったと思います」
と慰められたりもしている。
じっさい、大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議と命じられた部下からの恨みを買っていない。命じるときから、自身も死ぬ気で命じていることが部下には伝わってきたし、終戦時、特攻隊員に殉じて自刃したことで、特攻戦死者の総指揮官のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。

昭和49年、大西中将や特攻、厚木叛乱事件を描いた映画「あゝ決戦航空隊」のスタジオで。左から大西淑惠、淑惠役の中村玉緒、大西瀧治郎役の鶴田浩二
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらには体調が許す限り参加し続けた。
昭和50(1975)年8月、淑惠は二〇一空の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミン)の花輪をかける。マバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51年にも慰霊団に加わったが、52年6月、肝臓を病んで九段坂病院に入院した。この年の4月、角田和男ら二〇一空の元搭乗員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかでしみじみつぶやいた。
淑惠が息を引き取ったのは昭和53年2月6日のことだった。亡くなる日の朝、見舞いに来た門司親徳に、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、つぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決してくれた、そのため、自分はみんなからゆるされ、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、わたしとくしちゃった、と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。

終戦直後、台湾で撮られた神風特攻大義隊生存隊員の記念写真。2列目中央・角田和男中尉。大西淑惠は彼らから母のように慕われていた
淑惠の葬儀は、2月18日、横浜市鶴見区の総持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が葬儀委員長を務め、数10名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついている。
特攻作戦は大西瀧治郎自身のアイディアではなく、フィリピンでの特攻作戦が始まったときにはすでに各種特攻兵器が開発され、特攻専門部隊の編成も始まっていた。だから、
「大西は、特攻の引き金を引いたにすぎず、『特攻の生みの親』とはいえない。せいぜい『産婆』役と呼ぶのが適当ではないか」
という意見もある。正論であろう。
だがそれでも、門司は、大西中将を「神風特攻隊の生みの親」と呼ぶことに躊躇いはないという。
〈生んだ子とともに死ぬ覚悟がない者に、親たる者の資格はないと思うからであります。〉
――門司が生前、最後に書いた遺稿の一行である。

2004年、靖国神社遊就館の喫茶店で語り合う門司親徳氏(右)と角田和男氏
門司親徳は、2008年、昭和と平成、元号は違えど大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に90歳で世を去った。角田和男も、平成25(2013)年2月14日に94歳で亡くなった。いまや大西瀧治郎の「特攻の真意」を語り得る当事者はひとりも残っていない。