なぜ1人と3頭の命は失われたのか、世界遺産知床で見過ごされたリスク 襲われた登山者、崩れるヒグマとの「共存」

北海道・知床の世界遺産地域にある道路を歩くヒグマの親子=5月、北海道斜里町
世界自然遺産の北海道・知床。羅臼岳から西へ流れ、オホーツク海に注ぐイワウベツ川の近くの道路には、20台以上の車が止まり、渋滞が起きていた。出没するヒグマを目当てに、詰めかけた観光客だ。カメラを構えて待ち伏せし、巡回する環境省の職員の注意は無視。ヒグマにつきまとったり、餌付けをしたりする姿も見られた。
「ヒグマとの距離感はここ数年明らかにおかしい」
地元の斜里町で宿泊業を営む男性は、ヒグマと観光客双方の警戒感が薄まっていると感じていた。喜んでヒグマに駆け寄っていく観光客もいたという。
今年8月、羅臼岳で登山者がヒグマに襲われて死亡した。知床には数百頭のヒグマがいるとされるが、登山者が襲われて亡くなったのは、2005年の世界自然遺産登録後初めて。専門家は「リスクは常にあった」と悔やむ。
なぜ、「共存」の先進地は有効な対策を取ることができず、命は失われてしまったのか―。(共同通信=尾碕明)

▽2週間前の警告
登山者が襲われる2週間前、専門家が知床のヒグマについて議論する「ヒグマワーキンググループ(WG)」の会合では、深刻化する「人慣れ」への対策が進まないことに厳しい声が上がっていた。
「人が死ぬようなことがあってからでは遅い」
人慣れの原因は、観光客の接近や餌付けだ。対策は数年間、議論されてきた。観光客をシャトルバスで目的地に直接運ぶなど、人とヒグマの接近を避けるのが有効とされるが、予算や人手の不足を理由に継続的な実現はしていない。専門家は「明白な方向性が出ているのに、一向に進んでいない」と焦りを見せた。
会合では、2022年に26人が死亡、行方不明となった知床の観光船沈没事故を引き合いにだし、警告を発する専門家もいた。
「このままだと沈没事故同様に、予測できていたのに手を打たなかったという批判は免れない」

▽数日前の予兆?
襲撃の数日前。登山道ではヒグマが登山者に接近したり、つきまとったりする事案が発生していた。環境省などが策定したルールでは「登山道の利用自粛」を求めることもできたが、実際に行われたのは登山口への看板設置と交流サイト(SNS)への投稿だけだった。
十分な対策が取れなかった理由について、管理者側は歯切れが悪い。
斜里町の増田泰副町長は、ヒグマが襲撃前日のパトロールで見つからなかったことを挙げ、注意喚起にとどめた理由をこう説明した。「どのような場合にどの手段を取るかまでは決められていない」

北海道・知床半島の羅臼岳=9月、北海道羅臼町
▽子グマを守ろうと?
そして、8月14日午前。北海道警に「友人の男性がヒグマに襲われた」と110番が入る。26歳の男性の遺体が現場近くで見つかったのは翌日のことだ。ヒグマの親子3頭をハンターが駆除した。
知床でヒグマの生態調査を担う「知床財団」によると、男性を襲い、駆除された母グマは、事故以前から「SH」として記録されていた。人に対する警戒心が低く、道路に出てきて追い払われることもあったという。人を襲うような行動は見られなかった。
地元住民も、現場近くの岩尾別地区を親子3頭で歩く姿がよく目にしていた。母グマは「岩尾別の母」と呼ばれていたといい、羅臼岳でもたびたび見かけたが、穏やかな様子だったという。
襲撃された男性は、道幅が狭く見通しの悪いカーブを抜けた地点で、母グマに遭遇したとみられる。ヒグマのエサとなるアリが多く発生し、ヒグマがよく現れる場所だった。下山の際には岩陰となるため、知床財団の関係者は、男性とばったり出くわした母グマが、子グマを守るために攻撃した可能性を指摘している。

草刈りをする「クマ活」の参加者=5月、北海道斜里町
▽消える境界線
ヒグマは、世界遺産地域の高山帯から海岸線まで餌を求めて移動し、海と陸の生態系をつなぐ。フェリーから観察するツアーが組まれるなど、重要な観光資源でもある。地域住民らは人とヒグマの住むエリアの境界線を明確にして、世界自然遺産としての価値と、安全な生活を守ろうとしてきた。
斜里町ウトロなどでホテルを展開する北こぶしリゾートは2020年から、「クマ活」と題した取り組みを続けている。参加者を募って、草刈りやごみ拾いなどをする。目的は、クマが隠れやすい場所を減らし、人とクマの生活圏を分離することだ。
一部の地域では、ごみが荒らされないよう、ヒグマが壊せない特別な構造を持つゴミ捨て場を設置。生態や出会ってしまった時の対処法を学ぶ授業を通し、地域の子供たちへの意識付けも徹底している。
しかし、一部の観光客の問題行動で境界線は消滅する。斜里町ウトロ地区で宿泊施設を営む男性は「数年前まで道路にゴミが落ちていることなんてなかった」と話す。放置された生ゴミなどの「誘引物」や、餌付け行為が人里にヒグマを呼び寄せる。男性は「ヒグマをペットか何かだと思っているんじゃないか」とあきれた様子で話した。

上は監視カメラ設置前の2024年10月、ヒグマを待ち伏せる観光客らの車か滞留するイワウベツ川周辺。下は今年9月、監視カメラ設置後、待ち伏せ行為が減った様子=北海道斜里町、環境省提供
▽変われるか
知床は、国や自治体に加え、生態調査を担う知床財団、専門的な知識を備えた科学委員会など多くの知見が集積する、ヒグマ管理の先進地とされてきた。しかし、事故は防げなかった。ある関係者は「ここで知床が変わらないと、亡くなった人も報われない」と、再発防止が不可欠だと話す。
事故後、環境省はイワウベツ川付近に監視カメラを設置した。ヒグマに過度に近づく観光客は劇的に減ったという。ヒグマWG座長の佐藤喜和酪農学園大教授はヒグマの頭数管理について、世界自然遺産として一定の数を維持しつつ、地域住民に悪影響が出る大量出没を避けるというバランスが求められると指摘する。
登山ならではの、対策も必要となる。環境省釧路自然環境事務所の岡野隆宏所長は、ヒグマ対策で電気柵を張り巡らせた名所「知床五湖」などの観光客と違って、登山者には相応の準備と覚悟が必要だとの立場だ。「登山はリスクを承知で楽しまれているレジャー。扱いが全く違う」
今後は訪問者にリスクを伴う「ヒグマの領域」に入る自覚を持たせ、知識と装備を身に付けてもらえるかどうかがカギになる。問題個体の情報を訪問者に漏れなく周知する仕組みも求められている。
羅臼岳の登山道は、環境省や地元自治体が事故を検証して再発防止策をまとめるまで閉鎖され、再開は来年以降になる見通しだ。
大自然を象徴するヒグマが、遠い未来も知床で生息することを望む人は多い。世界最高レベルで高密度のヒグマ生息地・知床に集う人々は、人とヒグマが折り合いをつけて暮らせる道はあると信じている。
最前線の現場で活動する知床財団の玉置創司事務局長は事故について語る時、襲撃の犠牲者と駆除された親子グマ両方にふれる。
「1人と3頭の命が失われた。二度と繰り返してはいけない」