「奇跡」の戦後復興、支えた元軍人…収容所・復員の経験を糧に前へ
[戦後80年 昭和百年]次代<上>
海軍軍人として戦場に赴き、真珠湾攻撃では日本人の「捕虜第一号」となった酒巻和男(1999年に81歳で死去)。戦後は企業人として日本の再建を支えた。その軌跡をたどった。
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米国で開催された行事で、自身が50年前に乗った特殊潜航艇と対面した酒巻和男(米テキサス州で、1991年5月撮影)
世界を視野に
酒巻は1969年から、ブラジルにあるトヨタ自動車の現地法人社長を務めた。トヨタ自動車によると、当時の主力車種は四輪駆動車「バンデランテ」。酒巻が着任した69年に900台だった生産台数は、退任した83年には2500台に伸びた。ブラジル法人は、中南米の生産拠点の中で最も歴史が古く、現在もカローラなど21万2000台を生産している。
<主要国別(自動車)生産(数) 米国1024万6千台 日本468万2千台……>
企業戦士に転身した酒巻の手帳には、トヨタ全体の自動車生産台数や、ラテンアメリカの国民所得などのデータも細かな文字でびっしりと書き込まれている。
当時、別のトヨタグループの会社でブラジルに赴任していた 許斐(このみ) 幹彦さん(86)(東京都葛飾区)は「世界を視野に入れ、日本の商工団体から訪問者が来ると手帳を基に講義していた」と話した。仕事の進め方に悩むと酒巻の元を訪れ、教えを請うた。
忘れられない出来事がある。休日、グループの駐在員約10人で夜行バスに乗って「イグアスの滝」に出かけたとき、酒巻は一睡もせずにドライバーの運転を見守り、周囲の安全に気を配っていた。許斐さんは「元軍人で責任感が強かったが、怖い印象はなく、物腰柔らかだった。人付き合いや面倒見も良かった」と懐かしむ。
戦後復興、酒巻の視点
酒巻の歩みは、戦後日本の復興と重なる。
敗戦から2年後の47年に出した手記では、<米国人は経済的見地からすべてを合理化し、生活文化の向上に努力している><我々も行き当たりばったりではなく、統計比較などを調べ、成果効率を良くするよう創意工夫すべき>と記した。
国内では64年、東京―大阪間で東海道新幹線が開通し、東京五輪が開かれた。68年、日本は世界2位の経済大国になる。酒巻は、日本のものづくりを支えた自動車産業で、高度経済成長期のまっただ中を生きた。
絶望のち挑戦
ブラジルで社長を14年間務めた後は、関連会社の社長などになり、現役を退いた。世界を股にかけて働いていたため、参列できていなかった戦友らの慰霊祭にも顔を出すようになった。
酒巻について研究している元高校教諭、青木弘亘さん(84)(徳島市)は「戦前から分厚い辞書2冊で英語を勉強していた努力家だった。収容所で米国流の考え方に触れ、捕虜第一号としてリーダーシップを取ったことが、戦後生きたのだろう」と語る。
そしてこう続けた。「絶望の淵から立ち上がり、挑戦していく物語は、現代でも多くの人の胸を打ち、勇気を与えてくれるはずだ」
予防薬に着眼した元特攻兵
1955年頃から73年の石油危機まで、日本は約20年間にわたり高度経済成長を続けた。戦争に動員された後、軍装を解いた700万人超の元軍人らの思いも、驚異的な発展を遂げる原動力になった。
上野駅でDDT
「これからは予防薬が大切になる」。特攻兵だった瀬川隆彦さん(101)(岐阜市)は、終戦直後のある体験をもとに、この一心で医薬品販売会社を起こし、戦後の衛生環境の向上に寄与した。
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「中部化成薬品」創業者の瀬川隆彦さん
岐阜市で旅館業を営む家庭に生まれた。近くに薬局があったことで薬剤師に興味を持ち、東京にある明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)の門をたたいた。
「お国のために」と海軍の薬剤官を目指し、1945年6月に入隊。しかし配属されたのは山口県の特攻部隊だった。目の前に、魚雷2本を搭載し、海中から敵艦に肉薄して攻撃する特殊潜航艇「 蛟龍(こうりゅう) 」があった。
訓練は過酷を極め、毎日のように上官に殴られたり、竹刀でたたかれたり。ある日、訓練中に蛟龍のハッチに右手首をはさんで負傷し、自身の出撃は見送られた。無謀な攻撃とわかっていたから、命が助かり 安堵(あんど) した。やがて配置が変わり、青森・大湊で敗戦の報を聞いた。
「バーッ!」。大湊から故郷へ戻る途中の上野駅。列車を降りると、いきなり頭から白い粉を浴びせられた。
あっという間に視界が真っ白になったこの粉の正体は殺虫剤の「DDT」。当時、海外からの引き揚げ者や復員する兵士らのシラミやノミを駆除し、発疹チフスなどの感染症を防ぐため、散布したものだった。病気を予防する重要性に気づかされた。
戦後、会社設立
故郷の岐阜市の街は、空襲で焼け野原になっていた。家族は無事だったものの、実家の旅館は焼失。これからどのように生きていけばいいのか。考えを巡らせた結果、医薬品の販売業に裸一貫で挑むと決め、47年2月に旅館の跡地に瀬川薬局を開いた。
戦後間もない頃は薬が飛ぶように売れた。専門学校で培った人脈を生かし、全国で開業医や薬剤師として働く同級生を訪ね、薬を仕入れた。祖父や母、妹、弟を食べさせるため必死だったが、特攻の訓練と比べれば苦にならなかった。
徐々にワクチンや血清など取り扱う製品を増やし、50年8月に「中部化成薬品」を設立した。
70年以上にわたり、自宅を改装した寮に自分の会社で働く若者を住まわせ、夜間学校で学んでもらう取り組みをしてきた。繊維業が盛んな岐阜県内の紡績工場にも多くの人材を送り出した。「私は特攻で死ぬかもしれなかった。生き延びたからこそできることを考え、薬の販売や教育に取り組んできた」。その思いで、地域から日本の復興を支えてきた。
原爆で焼失したみそ工場を再建
「より多くの人においしい 味噌(みそ) を届けるという夢に向かって頑張ってきた」。原爆の焼失から再建した味噌製造会社「新庄みそ」(広島市西区)の会長山本弘樹さん(89)はそう語る。
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新庄みその山本弘樹さん
実家の隣に祖父の代から続く工場があり、戦時中も朝食は決まって味噌汁だった。食糧難だったが、母はサツマイモを入れた「甘い味噌汁」を作ってくれた。
45年8月6日朝。疎開先だった広島市近郊の小学校にいた時、窓の外が光り、山の向こうにきのこ雲が見えた。たった1発の爆弾が実家と工場を破壊し、学徒動員で作業中だった中学生の兄・勇樹さんの命を奪った。兄の死を知った山本さんは実家に戻り、被爆した。
家族は悲しみの中で前へ歩んだ。戦後、台湾から復員した父は、工場を再建して味噌を造った。山本さんは兄に代わって家業を継ぐと決め、広島大で発酵学を研究。昆布やかつお節のエキスを使った「ゴールデン新庄みそ」など多くの商品を開発し、85年に社長に就いた。
7年前に長女(61)と社長を交代し、近年は会長として海外への輸出拡大を目指す。「広島ががれきの山から復興できた背景には、悲しみを乗り越えて挑戦し続けた人間たちの力があった」と振り返る。
軍用から民生へ、技術転用
日本軍の兵器の開発に携わった技術者たちは戦後、民生分野で活躍した。
爆弾を搭載したロケット特攻機「桜花」を設計した三木忠直・海軍技術少佐は、「団子鼻」で知られる初代新幹線0系車両の開発で中心的な役割を担った。
0系車両は、スピードを出すため先頭部分が流線形をしている。東海道新幹線に導入され、東京―大阪間を走り、多くの人たちの足となった。
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新幹線0系車両
海軍の戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎氏(1903~82年)は、戦後初の国産旅客機「YS11」の開発に携わった。同機は64人乗りのプロペラ機で、1962年に初飛行に成功し、各地の空港を結んだ。
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84年前のきょう始まった太平洋戦争で焦土と化した日本の復興を支えたのは、戦争を体験した人たちだった。米国と戦うために武器を握った手で民生品を作り、日本再生の礎となった。
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社会部 波多江一郎、鈴木直人、広島総局 岡本与志紀、編成部 望月尭之、デザイン部 滝沢南実が担当しました。