「僕は組まない」石破内閣からの連立打診を断っていた維新 180度方針転換で連立政権入りした三つの事情

 公明党の連立離脱から自維連立合意まで激しい政権争奪戦が繰り広げられた2025年。水面下では石破政権時代から連立工作の動きがあったという。維新は党勢が退潮する中、大きく方針を転換し勝負に出た。AERA 2025年12月29日-2026年1月5日合併号より。

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 戦後80年、昭和100年の2025年は「歴史の転換期」の予想どおり政治大激動の年だった。「日本初の女性首相」誕生だけでなく、1999年から26年続いた自民党と公明党の連携(うち約23年が自公連立政権)消滅、結党15年余で初の日本維新の会の連立政権入りが起こった。

 第1幕が25年9月7日の石破茂首相の退陣表明、第2幕が10月4日の自民党総裁選による高市早苗総裁選出、第3幕が10日の公明党の連立離脱、第4幕が15日の「自維」両党党首の大筋合意成立、第5幕が21日の高市内閣発足という全5幕、45日間の政変劇だった。舞台裏で四つの連立計画による政権争奪戦が演じられた。公明党の与党継続による「自公維」、国民民主党を含めた「自公国」、立憲民主党が国民民主党に呼びかけて不発に終わった非自民の「立維国」、具体化した「自維」の政権案だ。

 ところが、経緯を探ると、序幕となった水面下の動きが浮かび上がった。石破氏の辞意表明の前、与党が24年10月の衆議院総選挙に続いて国政選挙2連敗を喫した25年7月の参議院選挙の約1カ月後の8月、秘密の連立工作が展開された。

「石破内閣の青木一彦官房副長官からアプローチがあって、何とか仲間になってほしい、みたいな提案が」

 11月11日、維新の浅田均参議院会長が取材に答えて明かした。石破政権での連立参加の打診だ。

 浅田氏はすぐに党の吉村洋文代表(大阪府知事)に伝えた。11月21日にインタビューして確かめた。

「浅田さんから話があったのは事実です。僕は連立は組まないと返事した。連立を組んでも有権者と約束した維新の公約を実現できない。石破政権には政策推進力がなくなっていると思ったから」

 吉村氏は答えた。石破内閣の命運が尽きたのは、これで最後の望みが断たれたからではないか。

■維新が180度の方針転換、小泉政権での連立入り探る

 吉村氏は参院選の前、5月23日の取材では、自民党との連立については反対の立場だった。

「僕はやらないですね。自民党はもともと既得権側の政党だからです。今の自民党である限り、既得権側の政治に入ることになる。維新には何の意味もないと思っていますから」

 その145日後の10月15日、維新は180度の方針転換で高市政権での連立参加に舵を切ったのである。

 吉村氏だけでなく、浅田氏も取材で、「わが党は理念と運動で集まっている政党。大きい組織の自民党と組めば消滅する」と明言していたが、二人とも「自民党にのみ込まれる懸念」を強く意識していたのだ。

 方針変更は7月の参院選の結果が大きく影響したと見て間違いない。自民党の衆参過半数割れが続くことになったため、連立の相手が「既得権側の党」でも、のみ込まれる心配がなくなったと判断したのだろう。「死に体」の石破政権では、メリットがないと計算して「連立ノー」と回答したが、自民党との連立に対する拒否反応は消滅したと思われる。

 維新は次に10月4日の自民党総裁選をにらみ、小泉進次郎氏(現防衛相)の勝利を前提に、小泉政権での連立入りを探った。「その構想はありましたね」と吉村氏は認めた。

「小泉さんは信頼しています。改革の方向性は一致していると思っている。小泉さんを支える菅義偉元首相に対する信頼が僕は非常に強い」

 吉村氏は付言したが、小泉氏の総裁選敗北で、この案は消えた。

 6日後の10月10日、公明党が連立離脱した。吉村氏は「離脱は青天の霹靂だった」と打ち明けた。そこまでの石破政権からの打診も「小泉政権」での自維連立案も、すべて公明党を含めた連立プランだった。

 一方で、連立離脱は公明党の自主的な選択ではなく、自民党による自公連立解消作戦の成就の結果と唱える見解もある。自民党は「公明党との離縁」の機会を探って工作を続けていて、公明党は10月10日、最後に連立継続不可能と判断したのが離脱の真相、という分析のようだ。

 確かに自民党の一部には、自公関係は清算すべきだという主張も根強く存在した。といっても、自民党が公明党切り捨てを狙って、ポスト石破の局面で、自公連立解消と、同時に自維連立樹立を策し、それらが成功したという見方には疑問がある。

「自公」亀裂の影は数年前から見え隠れしていたが、特に衆議院小選挙区の定数是正をめぐる「10増10減」が問題となった23年以後、それが顕在化した。自民党選挙対策委員長として公明党との調整に当たった森山裕氏(後に幹事長)を当時、取材して、「連立解消の可能性」について尋ねたら、「そんな怖いこと、考えたことも、計算したこともない」と漏らしたが、「そんな怖いこと」が2年後に現実となった。

 自公関係の内実は、「愛を失った結婚歴26年の夫婦が北国の湖で互いに顔をそむけながら氷上ダンスを踊る関係」だった。支持基盤と連携の果実が健在の「厚い氷」の時代が過ぎ去り、「薄氷」で沈没の危険が高まっていたからだ。

■自民を陥れる「ジョーカー」与党・野党ではない「ゆ党」

 今回の公明党の離脱通告で、ついに「氷上ダンス」が終演した。主因は、自民党の切り捨てではなく、公明党と支持母体の創価学会の内部事情と見るのが正解ではないか。

 自維連立を決めた吉村氏に与党入りの理由を聞くと、「一番の大きな転換点は公明党の連立離脱」と答えた。自維2党だと、10月21日の時点では、衆議院の議席は計230で過半数の233に3不足(11月28日に無所属の3議員の自民党会派入りで過半数に到達)、参議院は計119で過半数の125に6不足だった。

 維新の浅田氏は自維連立を「自民党にあいくちを突きつけたような状態の連立」と評した。「あいくち」は連立離脱の武器という意味だ。公明党離脱後の2党連立で、自民党を少数与党に陥れるジョーカーを維新側が握るという「好条件」である。

 とはいえ、維新側も実は「結党後の最大のピンチ」という苦境で、生き残りの「次の一手」を模索している場面であった。背後に潜む「三つの事情」をにらみ、自維連立という「一手」に賭けて勝負に出たのだ。

 第1は、党勢の退潮である。

 一つは衆参選挙での低迷だ。維新の国政選挙初挑戦は12年12月の衆院選で、以後、全10回の衆参選挙で何度も浮沈を繰り返してきた。

 特に15年の大阪都構想をめぐる1回目の住民投票否決と、初代党代表の橋下徹氏(元大阪府知事・大阪市長)の政界引退の後に行われた過去7回の衆参選挙の比例代表選挙での総得票を見ると、維新の衰退が透けて見える。21年衆院選の805万票と22年参院選の785万票がピークで、24年衆院選は511万票に、25年参院選は438万票に落ちた。

 政党支持率も最近は低空飛行だった。朝日新聞の調査で、24年2月以降は2~4%と低調が続いた(自維連立成立後の25年10月は5%)。

 選挙と支持率の低調だけでなく、党内ガバナンスの欠如による離党者や脱落者の続出というピンチが続いていたとき、自民党政権から連立入りの誘いが届いたのだ。

 第2の事情は、反対に24年11月から始まった本格的な多党政治での「新しい実験」である。この点で先行して動いたのは、国民民主党であった。政策協議方式を自民党にのませ、与党でも野党でもない「ゆ党」の立場で政策実現という果実を手にした。維新はそれを手本に、24年暮れから同じ方式に乗り出し、石破政権下で同様の成果を上げることに成功した。

 第3の事情は、維新が主導してきた大阪・関西万博の閉幕である。政党として万博後の次の達成目標や将来のビジョンをどう描くかが、万博終了前からの維新の宿題であった。その局面を、大阪の地域政党から国政政党に脱皮する好機と見て、連立政権入りを決断したに違いない。

■「大阪」から「日本」へ、真価問われる第2ステージ

 吉村氏は維新の低迷にピリオドを打ち、再浮上の勝負に出るときの切り札として、国政での連立政権入りというカードを使った。党発祥の大阪の人たちは「吉村流政治」をどう受け止めているのか。8期30年、大阪市会議員を務める無所属の松崎孔氏(市会の会派は「自民党・国民民主党・市民とつながる・くらしが第一」)が25年11月、維新の連立入り後の大阪の空気を解説した。

「大阪市は維新の横山英幸市長で、市会も維新が過半数。税も潤沢で、どんな政策でもできる。吉村さんはこれから副首都構想を、と唱えているけど、やりたいのは過去に2回、否決された大阪都構想でしょう。だけど、維新の市議の皆さんは、みんなが都構想をやらなあかん、と思ってはいないと思うんです」

 吉村氏はまず連立合意の「一丁目一番地」と唱えて、国会議員の定数削減法案の25年臨時国会への提出を強く主張し、12月5日に一応、法案提出を果たした。もう一つの大きな挑戦目標は副首都構想だ。

「いざというとき、首都機能や国の中枢機能をバックアップしていく形態を副首都と定義付けしている。それには大阪府と大阪市を一つにした強力な行政機構が必要」と説く。大阪都構想を今も想定しているのは疑いないが、一方で、国政政党として維新が目指すべき方向は「次の世代に『強い日本・成長する日本・豊かな日本』を残す。それが僕の根幹のワード」と強調する。

 吉村氏は府知事、党代表に加え、連立政権の与党党首の「3足のわらじ」を履き、それぞれの役割をこなさなければならなくなった。「27年4月の知事任期満了までは、任務を全うする。国会議員になることは思っていない」と言い切るが、視界、視点、視座とも「大阪」よりも「日本」へ、重心を移す気構え、と映る。

 前述のように、「連立ノー」から自維連立へ、大きく方針を転換した前歴がある。「君子豹変」の決断だが、政治指導者にとって必要不可欠の場合があり、評価を下げる事例ばかりではない。問われているのは、大阪だけでなく、日本のリーダーとしての覚悟と力量と手腕である。

 少数政党並存政治での政策実現力と、維新の政党としての機能をさらに高めるリアルパワーを自ら掌握・発揮できるのか。26年、真価が問われる第2ステージを迎える。(ノンフィクション作家・塩田潮)

※AERA 2025年12月29日-2026年1月5日合併号

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