終戦で中国に取り残された私を育ててくれた「世界で一番の母」 戦後80年を超えて伝えたい、感謝と友好
終戦で中国に取り残され、その後に日本に帰国した残留孤児らが今秋、中国東北部のハルビン(黒竜江省)を訪問した。2009年以降、養父母らの恩に感謝を伝えようと数年おきに訪中してきたが、高齢化が進み、戦後80年の今回を最後の「感恩の旅」とした。訪中団長を務めてきた池田澄江さん(81)=東京都足立区=は「育ててくれた中国への感謝と日中友好の思いは変わらない」と、高市政権下でぎくしゃくする両国の関係改善を願う。(森田真奈子)

養父母への感謝や日中友好への思いを語る池田澄江さん=東京都内で
◆ギリギリの生活でも、周囲の人を助けた養母
池田さんは1944年、旧満州の牡丹江市で生まれた。1945年8月、軍人だった父はソ連(当時)に連行され、母が5人の子を連れて逃げ回った。母乳が出なくなり、末っ子の池田さんを中国人に預けたという。
商売をしていた養父母は比較的裕福で、池田さんは恵まれた環境で育った。だが8歳の頃、養父が違法な商売をしたとして逮捕され、生活が一転した。
養母は読み書きができず、纏足(てんそく)の影響で足も不自由だったが、早朝から夜遅くまでアイスキャンディーをリヤカーで売り歩き、池田さんが学校に通うために必要なお金を稼いだ。ギリギリの生活でも周囲に困っている人がいれば、必ず食べ物を分けていた。

子どもの頃の池田さん(中)と養父母(池田澄江さん提供)
「私にとって世界で一番の母だった。人を助けることや、うそをついてはいけないことを熱心に教えてくれた」
小学2年の時には、尊敬する女性の教師にも出会った。日本軍の残虐な行為を描いた映画をクラスで鑑賞した際、クラスメートから非難の標的とされた池田さんが泣いていると、教師は「この子が人を殺したわけではない。いじめてはダメ」などと諭した。
「あの時のことはずっと忘れられない。自分も弱い人を助ける先生になりたいと思った」。池田さんは師範学校を卒業し、中国の小学校で約10年間、教師を務めた。
◆帰国後は残留孤児の支援と日中友好に取り組み
帰国は1981年。その前年に、生き別れた子どもを捜す日本の訪問団が牡丹江市を訪れたことがきっかけとなった。帰国時に肉親と思っていた人は後に別人と判明し、強制退去させられそうになったが、弁護士らの協力で1982年に日本国籍を取得した。
1987年からは弁護士事務所で働き、1300人以上の残留孤児の法的支援に尽力。孤児の生活保障を国に求めた2002年の集団提訴では原告団代表を務めた。国の支援策が実現した2008年以降は、NPO法人中国帰国者・日中友好の会(東京)の理事長に就き、残留孤児の生活支援とともに日中友好に取り組んできた。
養父母や中国への感謝を伝える訪中もその一環だ。5回目となった今年9月の旅は、残留孤児1世20人と2世や支援者など計90人が参加。5日間の日程でハルビン市の大学を訪れたり、劇場で残留孤児の生涯を描いた演劇を披露したりした。

ハルビン市の空港で歓迎を受けた残留孤児ら(NPO法人中国帰国者・日中友好の会提供)
孤児らはそれぞれの故郷の街も訪問。池田さんも牡丹江市で、中国各地から駆けつけた同級生やかつての教え子らに歓待された。「中国人の温かい心を感じた。育ててくれた祖国と生んでくれた祖国、両方を愛しているし友好関係になってほしい」と話す。
最近では戦争の歴史が忘れられ、中国を敵視する世論も目立つ。「私たちは戦争のために家も親も亡くして苦労してきた。若い人たちがつらい思いをしないよう、戦争は絶対に繰り返さないでほしい。残留孤児を二度と生み出さないように、平和のために努力してほしい」

養父母への感謝や日中友好への思いを語る池田澄江さん。背景はハルビン市の空港で歓迎を受けた残留孤児ら(コラージュ)
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