元遊郭、飲食店200軒の賑わいはどこへ 大津の「柴屋町」で守り抜かれる最後の一献

スナック「鉦山」でずらりと並んだキープボトルをバックにポーズをとる昭和50年代の金正多恵子さん
江戸時代から遊郭で知られる歓楽街だった柴屋町(しばやまち)(大津市長等(ながら))は昭和33年の売春防止法(刑事処分)施行でいったん灯(ひ)が消えた。しかし、その後も約30年間は飲食店街として栄えた。だが、バブル経済崩壊後は急激に衰退。約200軒あった飲食店も今では10軒に満たない。「昔に戻るのは無理」という一方で、「歓楽街の土壌はあるので、いつかは昔に近づく」という飲食店もある。今も残るいずれも個性的な店を訪ねた。

「笑い止まらず」

「柴屋町も今はひっそりとしている」と話すカフェ「aco」の金正多恵子さん
「柴屋町の通りだけでなく、路地にもびっしりとスナック、クラブ、居酒屋があった。笑いがとまらないほどにぎやかだった」
柴屋町でカフェ「aco」を経営する金正多恵子さん(79)は懐かしそうに昔を振り返る。
柴屋町は南北に走る約230メートルの通りの両側に面した町。細い路地が何本も走り、ピーク時は約200軒の飲食店があったという。

大津市志にある柴屋町全図。遊郭が連なる様子が伝えられる
金正さんの店は売春防止法施行までは屋号「友春」という遊郭の店だった。しかし、父親がいち早く転業し、明石焼き専門店「蛸春」を経営。その後もスナックや喫茶店、居酒屋と時代に合わせて店を変えてきた。
「蛸春には女性従業員が2人いたという。私は19歳から働いているが、忙しいときは連日夜明けまで店にいた。2代目としてスナック『鉦山(しょうざん)』を経営していたころは6人の女性を雇っていた」と話す。
近世初頭からにぎわい
「柴屋町は通称で、正式には上馬場町、下馬場町だった」。大津市歴史博物館の木津勝副館長(学芸員)はこう説明する。
江戸時代中期の享保19(1734)年に発行された地誌「近江輿地(よち)志略」にはすでに柴屋町の起源が記されている。「古薪を売る者多く此地に住す故」のほか、「遊女三味線を弾き酒を勤むる間戯言し、笑を作って遊客を悦ばしむるをさして焼くといひ燃する」「恋慕の心をたきつくる意」など遊郭に由来する推測がなされている。
昭和37年発行の「新大津市史 下」によると、大津は近世初頭ですでに東海道と北陸からの航路の要地だった。井原西鶴(1642~93年)が浮世草子(ぞうし)「日本永代蔵」に「柴屋町より白女(しろめ)(遊女)よび寄せ、客の遊興昼夜のかぎりない」と記していることから、このころから柴屋町の遊郭がにぎわっていたことがわかる。
「歓楽街の土壌ある」
「昔が懐かしいが戻りたいとも思わない。もう一度、にぎやかな町にしようという人もいないのでは」と金正さんはいう。
27年前から細い路地で鉄板焼き・創作一品「こんがり亭」を経営する奥分(おくわけ)悦子さん(72)は「本当は昔に戻ってほしいが無理では。この細い路地にもスナックや焼き肉店など7軒の飲食店があったが今はうちだけ」と寂しげに話す。
一方で、将来に夢を持っている飲食店もある。
平成18年から創作家庭料理「つわぶき」を経営する出村昌子さん(62)は「新しい感覚で飲食店を始める人が出てくれば、柴屋町は歴史もあり、歓楽街の土壌もあるので、かつての200軒にはならないが、昔に近づくのではないか」と期待する。
40年前に母親が始めたスナックを引き継ぎ、今はスナック「龍馬 ポッポ」を経営する赤尾良子さん(54)も「柴屋町の灯を消してはいけない。母親も頑張ってきた」といい、「今はその役目が回ってきた」と未来を見据える。
今は住宅街となった柴屋町で300年前に思いをはせるのも楽しい。(野瀬吉信)
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