「老いと死」におびえる52歳に住職が贈った金言

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

京都・東福寺の塔頭(たっちゅう)として知られる臨済宗の禅寺、勝林寺。静かな境内と四季折々の景色が訪れる人の心を癒やす(写真:勝林寺提供)

更年期の不調や仕事の停滞、老いや死への恐怖……。 50代になると、それまで遠くにあった問題が急速に足元に現れる。そんな悩み多き52歳の筆者が向かったのは、京都にある禅寺。坐禅と写経、そして住職の珠玉の言葉から得られた気づきとは――。

【画像】集中した後の一服タイムが幸せだった

50代、謎の不調と不安に包まれて

更年期の影響もあるのだろうか、50代になり、謎の不調が増えた。眠りが浅く、夜中に何度か目覚める。理由もなく胸がざわつき、動悸のような感覚に襲われることもある。病院に行くほどではないが、調子がいいとも言えない。そんなグレーゾーンの不調が日常に居座るようになった。

仕事もそうだ。慣れた仕事で大きな失敗はないが、達成感もやや薄い。かといって、人生を大きく変えるほどの気力も湧かない。ある日、鏡を見てギョッとした。いつの間にか、しわが深く刻まれていたのだ。

老いへの焦りと老後の健康・経済不安……。マイナス思考でいっぱいの頭の中をリセットして、空っぽにしたい。そんな折、京都に坐禅と写経が体験できる禅寺があると知った。静けさのただ中に身を置いたとき、いったい何が起こるのか。

12月上旬。変化への淡い期待を胸に、筆者は京都へと向かった。

訪ねたのは、京都市東山区にある「勝林寺」。京都駅から1駅、JR東福寺駅を降りてほどなく、市街地の喧騒がすっと遠のいた。

お寺の門をくぐって、まず目を奪われたのは、手水舎に生けられた「花手水(はなちょうず)」。色とりどりの花々が目一杯に飾られ、「ここは極楽浄土か?」と見まがうほど、心が華やいだ。境内を進むと、紅葉が見頃を迎えていた。深紅や橙、淡い黄色に色づいた葉の重なり合う姿に時間を忘れて、見とれるばかりだった。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

参拝客を目で楽しませる「花手水」と福徳の女神「吉祥天」が宿ると言われる「吉祥紅葉」(写真:筆者撮影)

午前11時半。予約していた「写経」体験の時間になった。おそるおそる本堂に上がると、案内の女性が柔和な笑顔で出迎えてくれた。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

本堂の一角にある、清々しい写経スペース(写真:筆者撮影)

「写経は椅子に座ってできるんですね。膝が良くないもので、正直、畳に正座じゃなくてホッとしました」

筆者が自虐まじりに、女性に話しかけると「以前は座卓でしたが、ご要望が多くて椅子に変えたんです」とのこと。あちこちガタが来ている50代にはありがたい配慮だ。

写経は、「般若心経」(266文字)か「延命十句観音経」(42文字)のいずれかを体験できる。写経ビギナーの筆者は、迷わず後者を選択。長文だと集中力が持たない気がしたのと、現金だが「延命」の言葉に心魅かれたからだ。

写経を始める前に、「塗香(ずこう)」という粉末状のお香で、「お清め」をする。粉末を少量、手のひらに取り、すり込むのだが、それがまたいい。白檀のような甘く深い香りが立ちのぼり、騒がしかった脳内が沈静した。

合掌し、延命十句観音経を3回唱えた後、写経に入る。筆を持つとわずかに手が震え出し、最近文字を書いていないことを痛感。だが、お経のお手本が薄墨で書かれているため、それをなぞれば何とか書き進められる。お手本を頼りに一文字、一文字、心を込めて書いていった。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

勝林寺では「写経」「坐禅」体験を毎日開催。「写仏」や「ヨガ」も体験できる(写真:筆者撮影)

文末には、観音様へのお願い事を書く欄がある。謎の不調が多い年だったため、「健康回復」と、来年こそは「開運招福」を祈願。そこだけやたらと筆圧が高かったかもしれない。

たったの42文字なのに、かかった時間は30分強。こんなにも真剣に文字に向き合ったことはあっただろうか。日常では味わえない達成感がじんわりと湧いた。

そこにちょうどよく運ばれてきた、抹茶とお菓子をいただきながら、一服。肩の重みがふっと軽くなった気がした。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

集中した後の一服タイムがありがたい(写真:筆者撮影)

雑念だらけの自分に住職から一撃

続いて案内された坐禅堂に上がると、青々しい畳の香りが冬の風に乗って漂ってきた。

この日の参加者は、46名。同世代とおぼしき夫婦や、若い女性のグループも多い。インバウンドの影響で外国人観光客が多いのではと思っていたが、ほぼ日本人だったのが意外だった。

12時30分。坐禅の時刻となった。現れた、住職の宇野虓堂(うの・こうどう)さんの凛とした佇まいに、場の空気が一段と引き締まった。

坐禅体験は、15分間の坐禅を計2回行う。まずはお寺の歴史や坐禅の詳しいやり方について説明があった。

「瞑想では目を閉じますが、坐禅では目をつむりません。『半眼』と言って、少し視線を落として1mほど先を見るようにします」と、ご住職。

目を閉じると眠たくなったり、雑念が増えたりするそう。寝不足気味の身としては正直、目を閉じたかったが、それは叶わぬようだ。

坐禅中は、呼吸に合わせて1から10まで数える「数息観(すうそくかん)」を行う。すると、雑念にとらわれなくなり、集中力も高まるという。

もし、途中で眠気が出てきたり、集中力が切れたりした場合は、平たく長い木製の棒で肩を打ち付けてもらう「警策(けいさく)」をお願いすることもできる。自分が打ってほしいタイミングで「合掌」すると、それが「警策」を求める合図となる。いきなりご住職から打たれるわけではないと知り、安堵した。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

「合掌」が警策を求める合図に(写真:勝林寺提供)

前半15分の坐禅が始まった。すると、早速心がブレブレになる場面に出くわした。開始10秒で前に座る女性が「警策」をお願いしたのだ。

「え、もう?」。思わず笑いがこみ上げ、その笑いを必死に抑え込もうと唇を噛みまくった。

だが、追い打ちをかけるように、斜め前から「ぐぅ~」っと、お腹の鳴る音が響いた。結構大きめだ。人間、笑っちゃいけないときに限って、ささいなことが引き金になる。決壊を突き破るかのように笑いがどっと押し寄せ、肩が揺れ始めた。もう、あかん。

観念した私はおもむろに合掌し、ご住職に「警策」をお願いした。合掌しながらおじぎをすると、右肩甲骨にパシッ、左肩甲骨にパシッ。小気味よい一撃で芯から目が覚めた。

雑念だらけの前半とは打って変わって、後半はだいぶ心が静まった。呼吸だけに意識を向けると、最後の数分間は完全に脳内のノイズが消えた。情報にまみれた日常で、思考が何も浮かばない時間ほど贅沢なものはないと思えた。

50代がぶつかる人生のマンネリ

「私のように、この先の人生に不安を抱える50代から相談を受けることはあるのでしょうか?」

住職の宇野さんに尋ねると、「ありますね。一番多い悩みは親の介護のこと。それから、ご自身のこれから先の仕事についてです」と答えが返ってきた。

たとえば、仕事ではこんな悩みが目立つという。「若い頃から同じ仕事を続けてきたけれど、ここ数年マンネリを感じて、やる気も落ちてきている。何か新しいことを始めたほうがいいのか。それともこのまま続けるべきなのか……」。そうした将来への漠然とした不安を抱える人が多いというのだ。

それらの不安や悩みから一度離れ、頭を空っぽにしたい。そこから新たな気づきを得たいという目的で坐禅をしに来る人が多いのだという。

「瞑想でもいいのですが、瞑想は目を閉じるので、自分の内側の世界しか見ることができません。でも、半眼で行う坐禅は、自分の内側と外側、両方を見ることができます。外側とは、今私たちがいる現実世界のこと。坐禅を通じて、内側だけでなく、外側の現実にもしっかりと目を向けることで答えが出てくるというのが、禅の考え方です」(宇野さん)

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

東福寺塔頭「勝林寺」の住職、宇野虓堂さん(写真:筆者撮影)

なるほど、答えを見出すには現実から目を背けていてはダメということか。

しかし、自分の老いを直視するのはなかなかつらい。だからこそ巷で噂のアンチエイジングや健康法に次々飛びついてしまうのだが、「それは執着なのか?」と問うと、穏やかな笑みを浮かべたご住職。

「私もあと数年で50歳になりますので、そのお気持ちはよくわかります。でも、老いや病気への恐怖にとらわれ、そこに執着しすぎると心が重くなり、行動自体も制限されてしまいます。

そのような自分を苦しめるとらわれや執着を一つひとつ手放して、心を軽くしていくほうがむしろ活力を生み、病気を寄せつけなくなると思うのです」

「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

ただ、この歳になると「死」は概念ではなくなり、急に現実味を帯びてくる。「死の恐怖」に対する処方箋はないのだろうか。

「死ぬのが怖い。これは人間誰もが持つ感情です。だからこそ、私たちのような宗教が皆さんの心の拠り所となって、最後まで安心して生きられるように支えていく。それが宗教の本来の役割だと思っています。

たとえ特定の宗教を信仰していなくても、年末にはお寺に除夜の鐘を打ちに行ったり、年始に神社に初詣に行ったり、初日の出を見れば、自然と手を合わせてしまうのではないでしょうか。そうした目に見えないけれど、大切なものを信じる心を育てていけば、心に安心が生まれ、死への恐怖が和らいでいくように思います」(宇野さん)

禅の教えに、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉があるとご住職。

「人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく。だから本来、執着すべきものは何もない」という意味だ。

若さや健康への執着も、お金の不安や人間関係のしがらみも、死の恐怖すらも、本来なくていいもの。生まれたときの何もない、無垢な心に戻っていくことこそが、これから目指すべき道なのかもしれないと思えてきた。

50代、謎の不調と不安に包まれて, 雑念だらけの自分に住職から一撃, 50代がぶつかる人生のマンネリ, 「死ぬのが怖い」にどう向き合うか

「禅は『体験する宗教』と言われます。体験すること自体に意味があるので、年齢にとらわれず、新しいことにチャレンジしていきたいですね」(宇野さん)(写真:勝林寺提供)

ご住職は最後にこんなメッセージを贈ってくれた。

「春の禅語に、『柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)』という言葉があります。柳の葉はただただ緑色であるように、花はただただ赤色に咲くように、『自然の姿、ありのままの姿が真実で美しい』という意味です。

たとえば、お寺に飾られている『花手水』を見て、“きれいだな”“美しいな”と感じる。その瞬間は、きっと何も思考が浮かばず、ただ見たままを感じているのではないでしょうか。でも現代人は、感じるよりも先に頭が働いてしまう。それでは生きるのに疲れてしまいます。ただシンプルに見たままを感じましょう。感じたことが、あなたにとっての真実なのですから」

 帰り際、再び「花手水」と燃えるような紅葉を見た。「本当にきれいだな……」。しばし、言葉を失った。もうそれだけで充分なのかもしれない、と思えた。