震災で旧店舗が流出 大船渡の理容室3代目・井上知子さん、創業100年へ「私がやる」

母を亡くし、現在は1人で理容室を切り盛りする「理容おいしん」の井上知子さん=2月23日、岩手県大船渡市(矢島康弘撮影)

襟足やもみあげをバリカンで短く刈り上げ、きれいなグラデーションをつくっていく。「スキンフェードというんです。いかつめの雰囲気に仕上がる」。大船渡周辺の漁業や建設業関係の客の間で口コミが広がり、ここ2、3年は注文が増えた。「70年近く通っている方もいるし、最近は幅広い方がいらっしゃる」。常連も若者も来店し、和やかで忙しい日々を過ごす。

岩手県大船渡市の理容室「理容おいしん」の店主、井上知子さん(52)は3代目。祖父の代だった昭和23年に開業し、井上さんはそのバトンを母の及川文子さんから受け継いだ。震災で旧店舗は流失し、仮設の店舗を経て、現在は平成29年に開業した「おおふなと夢商店街」の一角で営業している。

震災から半年後、築約40年の自宅兼店舗が解体されるのを見守る井上知子さんの母、及川文子さん。「家のお葬式を見てるみたい」と涙を流し、手を合わせた=平成23年9月1日、岩手県大船渡市(矢島康弘撮影)

にぎやかな暮らしが

盛岡市で生まれ、3歳の時に大船渡に住み始めた。理容室を兼ねた住まいは商店街の真ん中にあり、家族は8人。住み込みの従業員も常に4、5人はいた。隣はスナックで、当時は多くの漁船が入港しており、毎晩のようにけんか騒ぎで、パトカーが来ることも珍しくなかった。にぎやかな暮らしを思い出し「本当にうるさいところで育ちましたね」と笑う。

子供のころの夢は美術教師だったが、家業は誰かが継がないといけない。渋々了承し、高校卒業後に東京・西荻窪の店で修業を積んだ。母の病気をきっかけに20代で東北に戻り、「おいしん」を手伝った。

震災が起きたのは、夫の仕事の都合で宮城県南三陸町に住んでいるときのことだった。コンビニエンスストアでのアルバイト中、激しい揺れが東北を襲い、津波もくるという。制服のまま急いで飛び出し、車で総合体育館を目指した。途中、営業車で走っていた夫と偶然すれ違い、一緒に逃げた。体育館には一時千人以上が身を寄せ、夫婦は車の中で一晩を過ごした。

その夜の間、たくさんの遺体が運び込まれるのを見た。「体育館が遺体の集積所になっていて、軽トラックとか、動ける車がどんどんと運んでくる。それを見ていると、『親は生きているのかな』、と」。大船渡の両親が浮かび、不安が募った。南三陸の惨状を見るに、実家が流されているのは間違いなかった。最悪の事態も覚悟した。

道路が潰れていたためにすぐに大船渡へは向かえなかった。親類宅を転々とした後、震災から3日後の14日の夕方に地元に戻った。あたりはどんより曇っていた。幼いころからの津波訓練の経験もあり、有事の際に家族が避難する場所は地区の公民館に決まっていた。嫌な予感もよぎったが、両親を見つけ、抱き合って涙した。

理容室は流され、2代目の母ももう還暦を過ぎていた。一から立て直すのは難しいか―。

「私がやる」。家族会議のさなか、気が付くとそう宣言していた。

一人で店を切り盛り

仮設商店街での営業を経て、かさ上げした土地で現在の店を始めたのが平成29年。母はがんの再発などで令和6年に亡くなった。以来、1人で店を切り盛りしている。

ただ、5年の暮れには自身も脳梗塞を経験。一時は左半身のまひにもなった。「創業してから初めての1人体制。やっぱり、自分が倒れたら終わりだな」。後継者の見通しも立っていない。

それでも、目標に掲げるのは「創業100年」だ。この街を、形を変えながら見守ってきた店を、半端に終わらせられない。「『ここなくなったらどこさ行けばいいの』ってお客さんはいう。迷惑はかけられないですから」(山本玲)

東日本大震災では、多くの人が自宅や職場、学校など思い入れのある場所で被災し、大切な人を亡くした人もいる。故郷から避難せざるを得ない人もいた。復興や再建が進む中で、その土地とどう向き合い生きてきた15年だったのか。