震災から15年、あのとき津波に飲み込まれた三陸沿岸の町はいま本当に「復興した」と言えるのか?

被災者が心底欲していた「現金」, 震災対応に無能だった政治, 水産業従事者の意外な現実, 「漁師は浜の近くに住まなければならない」は本当か?, 防潮堤は必要最小限でいい, 高台移転のネックとなったもの

2011年3月13日、東京電力の計画停電の実施を了承したと表明する菅直人首相(写真:共同通信社)

 震災から15年になったが、震災当時、いや震災前から日本経済は未曽有の不景気に陥っていた。

 2010年9月の民主党代表選挙に立候補した菅直人氏が、選挙演説で何を言ったのか。彼は「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と強い口調で訴えた。そのことを忘れてはいけない。日本中が不況にあえぐ中、震災が襲ったのである。

被災者が心底欲していた「現金」

 日本中が不況の中で起きた震災・津波だが、三陸地方(ここでは石巻市も含めて三陸とする)は大都会よりも不況の深刻な影響を受けている。

 JR石巻駅周辺には震災前に何度か宿泊したことがあるが、2009年時点でもこの街の商店街はシャッター街と化しており、典型的な過疎の街の様相を呈していた。

 町おこしとして漫画家・石ノ森章太郎の「石ノ森萬画館」が建てられ、漫画キャラクターの像が並んでいるものの、活気は到底感じられなかった。

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震災発生から5日後の石巻市の状況。旧北上川の中州に見える白くて丸い建物が「石ノ森萬画館」(写真:阿部 崇)

 日本製紙など大きな工場を抱えている石巻市でさえ、過疎化が進んでいたのだ。他の三陸の街も同様に不況に苦しんでいる。働き口がなく、頼みの綱である水産業の不振が非常に大きい。後継者が育たない産業に未来はない。

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震災発生から5日目の石巻市。日和山公園から海側の様子(写真:阿部 崇)

 震災直後から、被災者たちは当座の「現金」を必要としていた。それなのに政府は何のビジョンも示さなかった。震災被害に加えて福島第一原発の放射能漏れによって日本中が不安に沈んでいた。本来なら国のリーダーは、即座に国民に安心を抱かせるような記者会見を開かなければならない。ところが、政権はあたふたするだけで明確な方針を示すことができなかった。

 このとき被災地ではすでに「政府はダメだ。何も分かっていない」という声が上がっていた。被災者の多くは着の身着のままで逃げた。僅かな現金だけをポケットに入れ、家財は全部流されてしまったという方も多かった。それらの方々に行政は救いの手を差し伸べることをしなかった。というか、そんな発想すらなかったのだろう。

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岩手県大船渡市の 避難所で食事を取る家族=2011年3月12日(写真:共同通信社)

「5000円でも1万円でもいいから現金が欲しい」

 当時、避難所で何人もの被災者から聞いた切実な言葉だ。メディアでは全国から巨額の義援金が寄せられているニュースを連日報じていたが、当座のお金が被災者の手元に支払われることは無かった。

「被災者には食料や支援物資が届いているのだから、お金は必要ないのではないか?」と疑問に思う方もいるかもしれない。しかし、親戚の葬式に出席するのに手ぶらで行くことはできないし、知人から車を借りるにしても、手元に現金がなければ心細い。

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岩手県陸前高田市の避難所では震災発生から4日目にしてようやく電気が復旧した(写真:共同通信社)

 被災地でも色々と現金は必要だったにもかかわらず、政府は機動的な対応をしなかった。義援金が支給されるまでの間、行政が被災者に当座の現金を貸し付けるような臨機応変な措置をとることも可能だったはずだが、それもなかった。

「役場ごと流されてしまい住民登録を確認できない」「被災者の身分証明ができないから」といった理由をメディアは報じていたが、少なくとも被災直後の避難所には“顔馴染み”が集まっていたのだから、身元を確認して現金を貸し付けることは十分に可能だったはずだ。それをしなかったのは、単に行政の手間がかかるからとしか思えなかった。

震災対応に無能だった政治

 被災地には、震災後に新しく創造された基幹産業はない。15年が経ったのに、時間だけが空しく流れていく。

 船をなくした漁師たちは、瓦礫の撤去や仮設住宅の建設工事などで日銭を稼いだ。しかし、その復興特需の仕事が終われば収入は望めない状況だった。安定的な働き口を確保することが何より大事なのに、国はその方針すら示さなかった。

 三陸地方の産業といえば、もちろん水産業だ。北から八戸・宮古・釜石・大船渡・気仙沼・女川・そして石巻・塩釜といった漁港が経済を支えている。

 八戸や石巻には製紙工場などの大規模工場もあるし、釜石には製鉄所、大船渡にはセメント工場があるが、やはり地域の根幹は水産業である。

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岩手県大船渡市の綾里漁港に打ち上げられた漁船。漁協の佐々木靖男組合長も自らの船が被害に遭った(写真:共同通信社)

 三陸の水産業が受けた被害は甚大だった。一口に水産業というが、具体的には地域にどれほどの波及効果をもたらすのだろうか。

 まず漁師がいて、漁船がある。漁船の保守点検や補修をする造船所が必要になる。魚網などの漁具を扱う店や、船を動かすための燃油も不可欠だ。さらに漁船の寝具を洗うクリーニング店にも需要が生まれ、船に積み込むための食料品店も潤う。

 魚市場には仲買人がいる。水揚げされた魚を鮮度良く保存するための製氷所も必要だ。水産加工場がなければ、魚を付加価値の高い商品として有効活用することができない。それらを消費地へ運送するトラックも必要になる。このように水産業の裾野は極めて広い。

 これらの要素を総合して「水産業の復興」と呼ぶべきなのだが、どうも行政はそうしたトータル的な視点でこの産業を理解していないように感じる。

 メディアは漁師だけにスポットを当てて復興の美談を流しがちだった。だが前述したようなエコシステム全体で判断していかなくてはならない。製氷機が稼働しなければ魚は保存できず、水産加工場がなければ二次的な処理はできない。製氷所も水産加工場も揃ってこそ、水産業は発展し地域が潤うのだ。

水産業従事者の意外な現実

 震災後、三陸沿岸の漁師たちと会い、水産業の将来について何人とも話し合った。宮古市で漁師生活と被災地の状況をブログで情報発信をしていたHさんが、現場のリアルな現状を教えてくれた。

「組合員で一番若いのが、実はオレなんですよ」

――え? そうなの? 36歳(当時)のHさんが一番若手?

「そうです。驚くでしょ。組合員の9割が普段は漁業をしていない者や、アワビの口開けのときだけサッパ舟を出す“臨時漁師”なんです。宮古漁協の場合、専業漁師は1割しかいません。残りは兼業漁師で、そもそも漁だけでメシを食っていない。だから漁業全体がどうなろうと、実のところあまり関係ないわけです」

 兼業の漁師が多いことは聞いていたが、まさか9割がそうだとは初めて知った。

 以下は、田老地区のワカメ漁師さんから聞いた話だ。

「宮古市には宮古、重茂(おもえ)、田老と漁協があるんですが、重茂は全員が専業漁師だから、漁業に対する本気度と取り組みが全く違うんです。

 重茂の漁協は例外として、三陸の多くの漁協の幹部も実は漁師出身ではなく、水産加工場の経営者とか仲買人が務めています。つまり、魚を安く買って高く売る立場の人間が漁協を牛耳っているのだから、生産者である漁師は救われません。

 もともと水産業が衰退しているとは言われていましたが、やる気のない漁協の体質にも大きな原因があったと思います。流通網を改善するとか、付加価値をつけた二次製品を開発するといった努力も怠ってきました。新しい試みをするのは『めんどくさい』というのが旧態依然とした漁協のスタンスでしたから。多分、かなりの部分で廃業する漁師が出てくるでしょう」

 震災後、マスコミは三陸の復興を声高に報じてきた。「震災による三陸地方の農水産業被害は何百億円」というような見出しが新聞に躍っていたことを記憶している読者も多いことだろう。

 しかし、こと三陸に限って言えば、ひと括りにした「農水産業」という言葉は実態に当てはまらない。産業の99%が水産業なのだから、圧倒的に「水産業」の比重が重い土地柄なのだ。

「漁師は浜の近くに住まなければならない」は本当か?

「住宅は高台に移住すべきです。漁師は利便性を考えて浜の近くに住みたがるものですが、海のすぐそばでなくとも車があるのだから、仕事に支障はないはずですよ」

 震災後、三陸沿岸の漁師たちの一部から出たこうした声がメディアを賑わせた一方で、

「浜の仕事があるので、海の近くに住まなければ仕事にならない」

「漁師の現場の苦労を知らないから、高台移転なんて簡単に言うんだ」

 などと、高台移住への否定的な意見も数多く紹介されていた。

 しかし、筆者が直接取材した現役の漁師の中で、上記のように「海沿いでなければダメだ」と頑なに述べる方はいなかった。確かに浜の近くに住めば作業がしやすいことは理解できる。だが、それは「浜の目の前」である必要はないのだ。車で5分、10分離れた高台に住んでいても実務上の支障はない。

 要は、港に十分な駐車スペースを作り、港へ向かうアクセス道路を広げるようなインフラ整備をすれば済む話なのだ。明治や昭和の三陸大津波の後にも、被災した集落を高台へ集団移住させる試みがあった。国が補助金を出して奨励したのだが、それでうまくいき、今回の津波でも被害を最小限に食い止めた「奇跡の集落」は大船渡市三陸町の吉浜地区ぐらいのものだった。

 釜石市の唐丹地区でもかつて高台に移住した歴史があったが、時を経るにしたがって利便性が優先され、再び浜に近い低地に住居が立ち並ぶようになり、それらが3.11の津波で根こそぎ持っていかれてしまった。宮古市の重茂地区でも同様に、浜の近くに後から建てられた家々は無残に破壊された。

 明治や昭和の大津波の時代と現代を比べれば、科学技術の進歩は著しい。今は車が必需品として普及しており、誰もが所有している。浜から何百メートル離れていようとも、車で容易に行き来できるし、重い荷物も運ぶことができる。

 宅地造成にしても、昔は人力で山を切り崩し、猫の額のような土地をなんとか平らにして作り上げた。しかし現代では、大型重機を用いれば山を削って安全な宅地を造成することは、過去と比較にならないほど容易である。

防潮堤は必要最小限でいい

 先人たちの並々ならぬ苦労と犠牲の歴史を考えたら、危険な浜沿いの居住に固執することがいかにナンセンスであるかが分かるはずだ。三陸地方には平地が少ないが、人が住んでいない山林は無数にある。インフラを整えて集落ごと安全な高台へ移住するのが、最も現実的で恒久的な解決方法だろう。

 被災した危険区域の土地や建物を国が等価交換で買い取り、被災者はその資金で高台に移住する。そうすれば、港の施設を高潮や波浪から守るための防潮堤は必要だが、家々を守るための巨大な防潮堤は不要になる。三陸の美しい海岸線を、視界を遮る無機質なコンクリートの壁で覆い尽くす必要もなくなるのだ。

高台移転のネックとなったもの

 結果として、三陸の各地で高台への防災集団移転そのものは進められた。しかし、被災者が希望する土地への移転がすんなりと実現したわけではない。そのプロセスにおいて最大のネックとなったのは、「高台の土地の所有者が判明しない」ことや、「遺族が多数に枝分かれして相続人にたどり着けない」といった複雑な権利問題だった。

 例えば宮城県南三陸町では、被災者たちが集団で特定の高台への移転を計画していた。しかし、候補地となった杉の茂る高台は所有者不明の土地が多く、権利関係の整理がつかずに、結局その場所への移転は頓挫してしまった。この土地を官報で公告し、「一定期間内に所有者が名乗り出なければ国が管理し、復興に活用する」といった超法規的な対応がなぜできなかったのか、今でも腑に落ちない。

(※注:この時の反省と教訓から、震災から十数年が経過した2024年4月になって、ようやく国政でも「相続登記の義務化」がスタートしたが、当時は為す術がなかったのである)

 山林の荒廃が社会問題化している昨今、過疎地の山林を手放したいと考えている所有者は少なくない。前述の南三陸町でも、広大な候補地の中にたった一部、所有者不詳の土地が混ざっていただけで計画全体がストップし、移転先の変更を余儀なくされたのだ。

 また、大船渡市では、津波で家を失った数世帯が集団で裏手の高台へ移転しようと画策したのだが、文化庁からストップがかけられた事案があった。そこが「蛸ノ浦貝塚」という国指定の史跡がある場所だったため、「遺跡の上への高台移転はまかり成らん」とされたのである。結局、彼らはその場所への移転を諦めるしかなかった。

 三陸の他の地区でも、高台移転自体は実現したものの、当初被災者が家を建てようとした土地から遺跡が見つかり、埋蔵文化財調査のために復興工事が大幅に遅れるという理不尽な例が後を絶たなかった。

 歴史を紐解く遺跡が大事だという主張は理解できる。しかし、今を生きる被災者の命と生活再建よりも、地中の遺跡の保全が優先されるという硬直化した行政のあり方には、強い憤りを禁じ得ない。遺跡よりも被災者の方がはるかに大事だという、当たり前の感覚を国は持つべきだと思う。

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