カンボジアで父母ら6人失った少女、日本で手に入れた家族…「でも幸せと叫べない自分がいる」
1975年4月
「我々は解放軍だ」。無表情で叫ぶその手には機関銃が握られていた。黒い上下の服を着て、黒い帽子をかぶった男たち。車のタイヤを加工して作ったような独特の靴が、妙に記憶に残っている。
1975年4月17日、カンボジアの首都プノンペン。 久郷(くごう) (旧姓ペン)ポンナレットさん(61)=当時10歳=が目にしたのは、ポル・ポト派の兵士だった。「何が起きたんだろう」。事態の深刻さを理解するには、幼すぎた。

プノンペン陥落を報じる紙面
内戦状態にあったカンボジアでこの日、ポル・ポト派が親米政権を打ち倒し、首都は陥落した。170万人もの国民が集団虐殺や拷問、餓死などの犠牲になったとされる惨劇が始まった。

人生は一変した。両親ときょうだいの計6人を失った少女が向かった先は、日本だった。(社会部 押田健太)
2つの「家族」 弔い慈しみ
父のバイクに乗せられて、メコン川までドライブするのが楽しかった。いつも笑顔の優しい母も大好きだった。3人の兄と3人の姉、そして妹が1人。両親がいて、きょうだいに囲まれ、みんなが笑顔でおいしいご飯を食べる。そんな日常が当たり前すぎて、家族がいる幸せを深くかみしめたことなんて、なかった。
久郷(くごう) (旧姓ペン)ポンナレットさん(61)は、カンボジアの首都プノンペンにある比較的裕福な家庭に生まれた。父サルンさんは国立図書館長を務める役人、母ニァンセットさんは学校の教師。2階建ての一軒家にはテレビがあり、近所の子どもたちがいつも見に集まった。
「ポル・ポト」現れ平穏な日々一変 農村へ強制移住
1975年4月17日、すべてが暗転した。

1975年から79年にカンボジアを支配したポル・ポト氏。98年に死去した(1977年10月、AP)
ベトナム戦争のあおりでカンボジアが内戦状態に陥る中、ポル・ポト氏が率いた武装組織はこの日、首都プノンペンを制圧。200万人の市民全員に突然の「退去命令」を出したのだ。

陥落した首都プノンペン。旗を振り歓喜するポル・ポト派の兵士たちがトラックで市内に入った(1975年4月17日、AP)
「3日間だけ家を離れてください。米軍が爆弾を仕掛けたかもしれないから」
ラジオ放送を通じたポル・ポト派による発表の意味はよく理解できなかった。風呂敷に3日分の洋服を包みながら考えていたのは、「家族旅行ができる!」ということ。何かを察した母の表情は沈んでいるように見えたが、10歳の自分に事の重大さはわからない。コメや鍋、皿などの荷物を車に詰め込んで、父と母、きょうだいたちと家を出た。
退去を命じられた市民であふれかえったメコン川のほとりで、野宿した。約束の「3日間」を過ぎても家に帰れる気配はない。収穫を終えた野菜畑に残された硬い葉と、薄いおかゆで飢えをしのいだ。旅行気分は吹き飛んだ。
父は、役人や政治家らに対する出頭要請に応じてプノンペンに引き返していった。極端な共産主義思想に基づき、ポル・ポト派は都市生活や学校教育、通貨を一切否定し、知識人や都市部住民らの「粛清」にかかった。出頭要請がわなとは知らない父を、これが最後の別れになるとは夢にも思わず見送った。
不安定な生活で体調を崩した七つ上の姉オークさんを病で亡くした時には、我が家を離れて3か月がたっていた。
過酷集団労働 惨殺おびえ4年 父母ら6人失う
強制移住命令に従い、残された家族とともに、首都から北に160キロ離れたトナオット村に移ると、生き地獄が待っていた。
過酷な強制労働が始まった。早朝から夜まで、はだしのまま40度近い炎天下でコメの収穫をする。重い 鍬(くわ) を振り上げて田んぼのあぜを作る。ダム建設に使う土を運ぶ。当然、お金はもらえない。
年代や性別ごとの集団生活を強いられた。食事は配給制で、昼に出される汁ばかりのおかゆが1杯。監視から隠れて、ムカデやサソリを焼いて食べたこともある。夜は粗末な小屋に約30人が押し込まれ、地面にわらを敷いて寝た。寝不足と過労、常に見張られている緊張感。「倒れたら最後。負けたら死ぬ」。ふらふらになりながら耐えた。
恐ろしいことが起きた。
ある日、母と六つ上の姉マオさん、末っ子の妹ナェットさんが生活する家に行くことが許された。もぬけの殻だった。「数日前の真夜中、見知らぬ人に連れて行かれた」と家にいた老人に聞かされた。
ポル・ポト派は、もともとの村民を「旧人民」、都市部からの人々を「新人民」と呼んで明確に区別し、新人民を敵視した。
真夜中に呼び出された新人民たちは林で殺される。服を全部脱がされ、首の後ろをこん棒で殴られて穴に突き落とされる……。うわさを聞き、「命はそんなに軽いのか」と怒りがわいた。
苛烈を極めた労働に少しでも反発した人は、次の日から姿を見せなくなった。処刑、栄養失調、餓死。人が一人、また一人と消え、その数は後に7000人とも聞いた。
79年1月、対立していたベトナム軍に攻め込まれ、ポル・ポト政権は崩壊した。強制労働がようやく終わる。だが手放しに喜べなかった。この時点で、10人家族のうち、姉オークさんは病死し、父と母、兄タルさん、姉マオさん、妹ナェットさんの5人が行方不明になっていた。
生き残った2人の兄と地雷原を命がけで歩いて国境を越え、タイの難民キャンプにたどり着いた。目指すは、留学中で難を逃れた長姉セタリンさん(71)がいる日本。「安全な日本に来た方がいい」と願うセタリンさんを頼って、兄たちと成田行きの飛行機に乗り込んだ。「みんな、どうか生きていて。私はまた戻ってくる」。機上で強く祈った。
日本で結婚 子に恵まれても残る後ろめたさ
「皆と一緒に勉強する、カンボジアからの転校生です」
81年4月、神奈川県海老名市立海老名小学校の4年生の教室で、担任の武部 規(ただし) さん(79)にそう紹介された。日本政府から「難民」と認定され、セタリンさんの家に身を寄せながら小学校に編入したのは16歳のとき。武部先生は「つらい経験を思い出させたくない」と、「難民」であることは伏せて他の児童と同じ扱いをしてくれた。
ただ、年下の同級生たちに「なんで日本に来たの?」と尋ねられるのはつらかった。父と母を失ったからと言うのがすごく惨めに思えて、「飛行機で来た」とはぐらかした。
卒業後は夜間中学に通いながらケーキ店や喫茶店で働き、88年、23歳の時に会社員の正彦さん(60)と結婚。日本国籍を取得し、長男・正博さん(35)、長女・真輝さん(33)をもうけた。優しい夫と1男1女。心の奥底にある喪失感は消えない。でも専業主婦として子育てに専念し、「幸せなお母さん」になれた気がした。
祖国に慰霊塔 「葛藤」乗り越え平和願う
夢を見た。

2001年、夫と長男、長女と一緒にカンボジア旅行を楽しんだ。久郷さんが世界遺産のアンコールワットを見たのは、この時が初めてだった=久郷さん提供
豪雨が降る墓地に足を踏み入れると、あの日こつ然と姿を消した母、姉、妹の3人の骨が足元でむき出しになっていた。「ここから助け出して!」という悲鳴を聞いて、目が覚めた。
自分は日本で第二の家族を得て、幸せに暮らしている。一方で、祖国で家族を6人も失ったのに弔いもせずにいることに、後ろめたさを感じてきた。でも家族が「亡くなった」と決めつけたくはない。そのはざまで長く葛藤してきた自分に、母たちが夢枕で「前に進みなさい」と言ってくれたのかもしれない――。
「慰霊をしなければ前には進めない」。頭は使命感でいっぱいになった。2005年10月、中学生になった娘の真輝さんを連れて、27年ぶりにトナオット村の地を踏んだ。
カンボジアは王制を復活し、情勢が落ち着きつつあった。ヤシの木が点在するのどかな田園風景は当時と変わらない。因縁の地に足を踏み入れた瞬間、かつて負った心の傷が開いていくように感じた。すでにポル・ポト氏は死去していたが、改めて「悪魔」に対する怒りがわき上がってきた。
最大の目的は、母たちを火葬して弔うこと。しかし母や姉、妹の肉体はすでになく、骨すらもどこにあるのかわからない。村民が農作業中に土の中から見つけた5本の小さな骨をもらい、母たちと、そして犠牲になった7000人の魂に見立てて 荼毘(だび) に付した。翌06年には、故郷プノンペンに合同慰霊塔を建てた。
やっと家族の死を受け入れることができた。それからはもう、あんな夢は二度と見ない。見るのは、寝つけない私の背中を母がトントンとたたいてくれて、安心して眠りにつく優しい夢だ。「解放された」。祖国で家族を弔うこと。それは、新しい家族を得た後ろめたさや葛藤から自由になることでもあった。
国民の4人に1人にあたる170万人が犠牲になったとされる惨劇から半世紀。今は自宅がある神奈川県平塚市で夫と2人で暮らし、年3回ほど地元の学校などで講演活動を重ねる。長姉のセタリンさんや2人の兄も日本と母国で元気に暮らしている。
講演では日本の子どもたちに「平和」を訴えてきたが、世界各地で紛争が絶えない現状に無力感を覚えることもある。「家族がいて、衣食住も足りて、とても幸せですと叫びたい。でもそう叫べない自分がいる」。それでいいのかもしれない。「自分だけ幸せならいい」という考え方が、人間を戦争にかき立てる源のように感じるからだ。
カンボジアで家族を失い、日本で家族を手に入れた。23年には娘の真輝さんが結婚し、また一つ新しい家族ができた。家族みんなで笑ってご飯を食べ、眠りにつき、朝が来る。こんな毎日がどれほど幸せなことか、今ははっきりとわかる。これからも平和の尊さを訴えていきたい。カンボジアに眠る両親やきょうだいもきっと同じ気持ちだと思うから。
おしだ・けんた 2017年に入社し、23年9月から東京社会部。はじけるような笑顔で結婚式の思い出を話す久郷さんだったが、ポル・ポト政権下の体験を語り始めると、涙に変わった。癒やせない傷の深さを感じた。32歳。