「エリトリア出身の難民女性」が日本のマンションで「孤独死」…「国籍」も「宗教」も違う友人たちで開催した明るく自由なお別れ会

おしゃれに老いる、素敵に老いる、小さくて快適な暮らしのための、スッキリする断捨離。ところでお金は? 住まいは? 親の介護は? お墓はどうしよう?

日本でしばしば話題になる「老い支度」だが、ドイツ人はどうしているのか? 合理的で節約を重んじているのか? 親子関係はどのようなものだろう?

日本とドイツにルーツを持つサンドラ・ヘフェリンが、実際のインタビューをもとに綴る実用エッセイ、 『ドイツ人は飾らず・悩まず・さらりと老いる』 より、一部を抜粋・編集してお届けする。

『ドイツ人は飾らず・悩まず・さらりと老いる』 連載第103回

『「初めて自由投票で誕生したドイツの市長」のお墓が存続の危機に…“20年単位”で墓地の契約を更新するドイツ人が考えた「無常な死生観」』より続く。

エリトリア出身の難民女性との交友

これはドイツとも日本とも関係のない、私が個人的に忘れられない友達との「お別れ」の話です。

ネジャット(Nejat)とは1990年代後半、日本のあるバラエティー番組で出会いました。2年以上にわたって、番組の収録のために月に2回は会い、みんなで食事をしたり、個人的にお出かけをすることもありました。

彼女は「エリトリア出身者」として出演していましたが、内戦のために難民としてオーストラリアに渡ったのは9歳の頃。以来、20代で日本に来るまでメルボルンに住んでいました。アラビア語も話せたけれど、文化的には「オーストラリア人」の部分が大きかったように思います。

エリトリア出身の難民女性との交友, 「内戦の映像の翻訳が精神的にきつい」, 「マンションで孤独死」という連絡, 宗教や伝統を超えた「お別れ会」

Photo by gettyimages

そのうち番組は終わってしまいましたが、お互い長らく独身で、言葉を使う仕事をしているという共通点もあり、交流は続いていました。育った国も家族などのバックグラウンドも違うのに、とても話しやすかったのです。

ネジャットはアラビア語、英語と日本語ができることから、テレビのニュース番組を翻訳する仕事を多く受けていました。アラビア語圏の国で内戦やテロが起きるたびに依頼があり、「今から1時間以内に局に来て」と言われるなど、常に忙しくしていました。

「内戦の映像の翻訳が精神的にきつい」

社交的で明るいのに、どこか寂しげな雰囲気のある人でした。10人もきょうだいのいる大家族で育ったことを知っていたので、私は通勤途中に彼女が一人暮らしをしているマンションの前を通るたびに「元気にしているかな?一人暮らしで寂しくないかな?」と気にかけていました。

そういう私も一人暮らしでしたが、7歳で弟が生まれるまで一人っ子でしたし、母と二人でいることが多かったので大家族とは言えません。さらに「基本的に一人が好き」で、一人で過ごすことに慣れていました。だからこそ、勝手な思い込みかもしれませんが「大家族で育ったネジャットは一人暮らしで寂しくないかな?」と心配だったのです。

お互いに忙しく暮らしていて、久しぶりに会った時、ネジャットは酷く疲れていました。

「シリアの内戦の映像の翻訳をするのが精神的にきつい」という話を聞いて、胸騒ぎがしました。別の人から「翻訳者が目にするのは撮影されたままの映像なので、『カットされていない残酷な場面』が映っている」と聞いていたからです。心配でしたが「いつでも連絡してね」と言いその日は別れました。

エリトリア出身の難民女性との交友, 「内戦の映像の翻訳が精神的にきつい」, 「マンションで孤独死」という連絡, 宗教や伝統を超えた「お別れ会」

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その後しばらくして仕事場でバッタリ会った時、彼女は足を少し引きずっていました。

「歩いていたところを自転車に突っ込まれたの。病院に行って痛み止めを出してもらったけれど、あまり効き目がなくて辛い」

その話を聞いて、「少し前からお酒の量も増えていたようだし、大丈夫かな……」とまた胸騒ぎがしました。

「マンションで孤独死」という連絡

共通の友達から「ネジャットがマンションで孤独死した」と連絡があったのはそれからしばらく経ってからでした。家賃を滞納し、携帯も連絡がつかず、更に仕事先にも現れなかったことから、大家さんが部屋に入ると亡くなっていたとのこと。鎮痛剤などと一緒にお酒を大量に飲んだことが原因らしい、という話でした。

エリトリア出身の難民女性との交友, 「内戦の映像の翻訳が精神的にきつい」, 「マンションで孤独死」という連絡, 宗教や伝統を超えた「お別れ会」

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よりによって、大家族で育った彼女が日本という異国のマンションで一人で死ぬなんて……と大泣きをしてしまいました。

思い返してみると、ネジャットはボランティア活動をきっかけに精神のバランスを崩したような気もします。ボランティア精神にあふれる彼女は、東日本大震災の直後に東北入りし、避難生活をしている子どもたちと絵を描いたり、歌ったり、ダンスをしたりしていました。

「東北で体育館に集まる子どもたち」を見た時、「母国エリトリアの内戦から逃れ、家族とともに2週間かけてスーダンの難民キャンプまで歩いた記憶」がフラッシュバックし、精神的な不調が続いていたのではないか、そんなふうにも感じられたのです。

宗教や伝統を超えた「お別れ会」

親族はオーストラリアや香港在住だったため、家族によるお葬式やお別れ会が日本で開かれることはありませんでした。でも、80年代の後半に来日し、社交的だった彼女には、仕事関係者も含めて日本に多くの友達がいました。そこで「みんなでネジャットのお別れ会をやらない?」という話になったのです。

場所は代々木公園。11月の寒いけれど爽やかな秋晴れの日、ネジャットの友達数十人が代々木公園に集まりました。

誰かがネジャットの顔が中央にプリントされた大きな布を用意していて、みんなでそのまわりにお別れのメッセージを書き込みます。みんなで輪になって、それぞれ「ネジャットとはどういうつながりだったのか」「ネジャットとの思い出」を話していきます。そして輪の隣の人と手をつないで黙祷しました。

最後はマジックペンで大きく「ネジャット」と書かれた風船を放ち、風船が見えなくなるまで空を見上げました。ああ、今までいつでも会えると思っていたけど、ネジャットはお空へ還ってしまったんだ……彼女らしい晴れた空を見ながら、そう感じたことを覚えています。

エリトリア出身の難民女性との交友, 「内戦の映像の翻訳が精神的にきつい」, 「マンションで孤独死」という連絡, 宗教や伝統を超えた「お別れ会」

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私にとってこの「お別れ会」は忘れられない思い出となりました。お葬式という場で別れを告げられなくても、彼女が生前仲良くしていたみんなと公園に集まって、風船を放ってお別れする……そんな別れの会でもいいんだ、と「目から鱗」だったのです。

ネジャット自身はイスラム教でしたが、集まった友達は国籍も宗教も様々。

「代々木公園でのお別れ会」は宗教や伝統を超える彼女にピッタリの「明るく自由な会」だったと思います。

今でも私は、かつてネジャットの住んでいたマンションの前を通ることがあります。そのたびに「何かできることはなかったのか……」と胸がちくりと痛みます。でもそれと同時に彼女の笑顔も浮かんできます。

彼女の魂がどこに行ったのかはわかりません。9歳まで過ごして幸せだったという生まれ故郷のエリトリアの生まれ育った家なのか? 10代を過ごし、家族が今も住んでいるオーストラリアのメルボルンなのか? それとも……?

どこに行ったのかはわからないけれど、あの日、代々木公園でネジャットとお別れをした人たちの胸のなかに彼女は今もいます。

人が亡くなった時、「お葬式」という形式でなくても、仲の良かったみんなと一緒に「お別れ」はできる。そんな思いを強くしました。ふとした時に故人のことを思い出すこと、それが残された人の癒しになると感じています。