元照ノ富士・伊勢ヶ濱親方「大甘処分」が暴く角界の病理…横綱の残像に踊らされる協会と擁護派の危うい共犯関係

まるで「暴力による指導もやむなし」とするかのような判断, 巷に「伊勢ヶ濱親方擁護論」が溢れる異常, 厳罰を回避せざるを得なかった事情, 八角理事長自ら「暴力との決別」を宣言したはずではなかったか, 「鉄拳制裁」を容認するならいつか協会にとって致命傷に, 白鵬への責任転嫁は筋違い

4月9日、取材対応をする伊勢ヶ濱親方(写真:スポーツ報知/共同通信イメージズ)

 日本相撲協会が「暴力決別宣言」を採択し、角界から暴力を一掃すると誓ってから一体何が変わったのか。暴力根絶を誓ったはずの「聖域」において、またしても時計の針が昭和へと逆戻りしてしまったかのような印象を多くの人々が抱かざるを得ない。

 4月9日、日本相撲協会が両国国技館での臨時理事会において下された決断は、コンプライアンスを掲げる現代スポーツの潮流に照らし合わせたとき、どうしても“果たして正当なものと言えるのか”という疑問にぶつかってしまう。

まるで「暴力による指導もやむなし」とするかのような判断

 同協会側は弟子の幕内・伯乃富士に対して暴力を振るった伊勢ヶ濱親方(元横綱・照ノ富士)に対し、「委員待遇年寄」から「年寄」への2階級降格、および3カ月間の報酬10%減額という懲戒処分を決定した。横綱経験者が平年寄まで降格するのは、2024年に処分を受けた元宮城野親方(元横綱・白鵬翔氏)以来の事態である。

 だが、この裁定が公表された直後から角界周辺やメディアの間では「あまりに甘すぎるのではないか」「処分に二重基準が存在するのではないか」という困惑の声が収まりを見せていない。

 なぜなら師匠自らが直接手を下した暴行事案が監督責任を問われ、伊勢ヶ濱親方と同じ2階級降格のみならず部屋の閉鎖にまで至った白鵬氏のケースよりもはるかに「軽微」な扱いで幕を引こうとしているように映るからである。

 事の詳報をいま一度整理すると、そこには現代の組織運営として看過できない「異常性」も浮かび上がってくる。

 コンプライアンス委員会の調査によれば、事件が発生したのは2月21日の午前3時ごろという、深夜の時間帯であった。

 東京都港区内の会員制ラウンジにおいて、伊勢ヶ濱親方は伯乃富士、錦富士、そして後援者らと酒席を共にしていた。その際、泥酔した伯乃富士が後援者の知人女性に対し、大腿部を触るなどの極めて不適切な行為に及んだという。

 これに激昂した伊勢ヶ濱親方は、「何回同じことをやらかすんだ。酒を飲み過ぎて、覚えていないじゃすまないんだぞ」と一喝。座ったままの姿勢で伯乃富士の顔面を拳と平手で一度ずつ殴打したとされる。

 伯乃富士は以前にも同様のトラブルを起こして外出禁止処分を受けていた経緯があり、伊勢ヶ濱親方としては「何らかの仕置きをしなければ示しがつかない」との判断があったという。

 確かに、伯乃富士の及んだ行為は弁解の余地のない愚行であり、法的にも厳しく糾弾されるべきものであることは疑いようがない。

 だが、ここで我々が立ち止まって考えなければならないのは、なぜ「暴力」がその解決手段としていまだに容認され、あろうことか「正当化」されるかのような不気味な潮流が生まれているのかという点だ。

巷に「伊勢ヶ濱親方擁護論」が溢れる異常

 SNSやネット上の論調を俯瞰すると、驚くべきことに伊勢ヶ濱親方を擁護する声が根強く存在している。その多くは現役時代の照ノ富士が膝の重傷で序二段まで陥落しながらも、不屈の精神で横綱へ返り咲いた「奇跡のカムバック」を鮮明に記憶している、いわゆる熱狂的な支持層である。

 その“擁護派”の人たちの目には、今の伊勢ヶ濱親方の姿が現役時代に膝の負傷と糖尿病に苦しめられ、大関から序二段まで陥落したものの不死鳥のごとく這い上がり、横綱まで昇り詰めた「照ノ富士」の残像と重なって映っているのであろう。

 それゆえに「酒癖の悪い伯乃富士を止めるには鉄拳制裁しかなかった」「自ら協会に報告した親方は潔い」「白鵬の育て方が悪かったツケを照ノ富士が払わされただけだ」といった論法が展開され、暴力という明確な規律違反が「愛のムチ」や「必要悪」へとすり替えられてしまっているように見受けられるのである。

まるで「暴力による指導もやむなし」とするかのような判断, 巷に「伊勢ヶ濱親方擁護論」が溢れる異常, 厳罰を回避せざるを得なかった事情, 八角理事長自ら「暴力との決別」を宣言したはずではなかったか, 「鉄拳制裁」を容認するならいつか協会にとって致命傷に, 白鵬への責任転嫁は筋違い

照ノ富士の断髪式ではさみを入れた白鵬翔氏(写真:スポーツ報知/アフロ)

 一方の伯乃富士には協会側から厳重注意処分、そして果たしてどこまで厳格なのかが不透明な禁酒指令が部屋付きの楯山親方(元幕内・誉富士)によって出されたのみ。そうした背景から「むしろ伯乃富士のほうがもっと厳しく処分されるべきだ」という極論までが噴出し、結果として伊勢ヶ濱親方を「泥を被った悲劇の師匠」として祭り上げる異様な空気が醸成されている。

厳罰を回避せざるを得なかった事情

 だが、この「擁護論」の台頭こそ相撲協会が仕掛け、あるいは巧妙に便乗した極めて政治的なシナリオの帰結であるようにも思える。

 協会側にとって、伊勢ヶ濱親方への致命的な厳罰を回避することは組織の屋台骨を維持するための「死守すべきライン」だ。

 もし今回の事案を白鵬氏のケースと同等に厳格に扱い、師匠自らによる直接の暴力を理由に伊勢ヶ濱部屋の閉鎖や師匠交代にまで踏み切れば、その影響は計り知れない。全43部屋で最多の力士数を誇り、多くの関取を擁する最大派閥が解体されることになれば、本場所の興行運営そのものが立ち行かなくなる恐れさえある。

 協会は組織の安定という名の保身のために伊勢ヶ濱親方の絶大な人気と「不屈の元横綱」というカリスマ性を盾にし、世間が反発しきれない程度の「大甘処分」で決着を図ったと言わざるを得ない。

 ここで問われるべきは、指導者としての「本質的な管理責任」の所在である。

“擁護派”が意図的に目を背けている不都合な真実が、やはりそこには隠されている。それはなぜ伊勢ヶ濱親方は以前からトラブルを繰り返していた伯乃富士を、深夜3時という常軌を逸した時間まで酒席に連れ回していたのか、という点である。

 酒が入れば“暴発”する危険性は、誰よりも師匠自身が熟知していたはずだ。その場に居合わせながら事態を未然に防げなかった管理能力の欠如こそが、この問題の起点であった。

 いわば自ら火種をラウンジというガソリンの渦巻く場所へ持ち込み、引火したところで「仕置き」と称して平手打ちや鉄拳を振るう。これを「立派な指導」として美談にするのは、あまりに論理が飛躍している。

八角理事長自ら「暴力との決別」を宣言したはずではなかったか

 協会の広報部は「今までの事例と照らし合わせた。特に反対はなかった」と説明し、自ら申告したことや常習性がないことを事実上の情状酌量とした根拠に挙げた。

 しかし、これは明らかにダブルスタンダードだ。2018年12月に八角理事長(元横綱・北勝海)が声高に宣言した暴力禁止規定の精神に照らせば、親方衆による暴力は「現役よりも厳しく」処断されるべきはずであった。

 師匠自らが拳を振るった事案に対し、部屋の存続を許し、わずか10%の報酬減額を3カ月課すだけで済ませる。これが「決別」を誓った組織の出す最終回答だというのなら、その宣言は世間を欺くための空虚なパフォーマンスに過ぎなかったということにならないだろうか。

 結局のところ今回の一幕もまた、「八角体制の延命」という終わりのない無限ループの一部に過ぎない——。そのように結論付けられても仕方がないだろう。

まるで「暴力による指導もやむなし」とするかのような判断, 巷に「伊勢ヶ濱親方擁護論」が溢れる異常, 厳罰を回避せざるを得なかった事情, 八角理事長自ら「暴力との決別」を宣言したはずではなかったか, 「鉄拳制裁」を容認するならいつか協会にとって致命傷に, 白鵬への責任転嫁は筋違い

日本相撲協会の八角理事長(写真:共同通信社)

 白鵬氏という「組織に馴染まない異端児」に対しては、部屋の閉鎖という極刑をもって徹底的に排斥し、自分たちがコントロールしやすく、かつ「支持層」という強力な盾を持つ伊勢ヶ濱親方に対しては、その人気を政治的に利用して延命を図る。

 そこにあるのは正義でも教育でもなく、単なる「忖度」と「組織防衛」の力学である。旧宮城野部屋のOBが「うちの親方への処分は例外的に厳しかった。預かりになっている意味がない」と不満を漏らすのは、心情として理解できるどころか、組織としての整合性のなさを鋭く突いた指摘と言えるだろう。

 不祥事の引き金を引いたのは、確かに伯乃富士だった。だが、伊勢ヶ濱親方を「責任感あふれる自主申告者」としてSNSやネット上で“擁護派”から祭り上げられる流れには強烈な違和感を覚える。

 そして、この巧妙なレトリックによって本当に責任を追及されるべき、協会のガバナンス欠如を長年放置してきた幹部たちは、まんまと非難の矢面から逃げ出すことに成功したようにも見えてしまう。なぜならば伊勢ヶ濱親方を「大甘裁定」で守るシナリオは、ひいては八角理事長ら上層部の「管理能力の欠如」という膿を隠蔽することと同義であるからだ。

「鉄拳制裁」を容認するならいつか協会にとって致命傷に

「ケース・バイ・ケースで暴力は容認されるべきか」という問いに対し、もし相撲界が「YES」という暗黙の了解を出し続けるのであれば、国技としての尊厳は根底から崩れ去ってしまう。どんなに正当な理由があったとしても暴力で物事を解決することを許容してしまえば、それは「昭和の負の遺産」への先祖返りを意味する。

 コンプライアンスが厳格に叫ばれる現代社会において、不始末を犯した部下を殴打して「示しをつけた」と主張する組織が果たしてどこにあるのか。そのような組織は本来であれば瞬時に社会から抹殺されるのが、現代の厳しい道理であるはずだ。

 今、大相撲は空前の人気を謳歌している。しかしながら、その人気を支えているのは暴力や忖度の構造ではない。必死に稽古に励み、正々堂々とぶつかり合う力士たちの純粋な姿に、ファンは心を打たれている。

 その純粋な熱量に冷や水を浴びせ、古臭い「鉄拳制裁」を容認し続ける協会上層部の「特権意識」は、いつか必ず致命的なファン離れを招くことにならないか——。そう危惧せずにはいられない。

 伊勢ヶ濱親方の「不屈の精神」は、土俵の上でこそ称賛されるべきものであり、暴力の免罪符に使われるべきものではない。

白鵬への責任転嫁は筋違い

 さらにこれも一部から飛び出している指摘だが、伯乃富士の愚行を安易に「前の師匠である白鵬氏の教育のせい」と論じるのも事の本質をすり替えているに過ぎない。もし教育の不備を問うならば、転籍後にその「芽」を摘み取れなかった現師匠の責任も同等に問われるべきであり、都合よく過去の師匠に責任を転嫁する論調は、組織としての無責任さを露呈している。

 真の問題は、教育の名を借りた暴力を結論として心のどこかで許容し、それを政治的に利用しようとする空気にとらえられてしまう相撲協会という組織の腐敗そのものである。旧宮城野部屋の力士たちが「リスペクトに欠ける」と嘆く一斉改名の強要も含め、そこには「力による支配」という旧態依然とした空気がいまだに満ちあふれている。

 八角理事長を中心とする執行部は、今回の「大甘処分」によって伊勢ヶ濱部屋という最大勢力を温存し、事態を収束させたと安堵しているかもしれない。しかし、その甘い判断が、さらなる暴力を呼び込み、さらに深刻な不祥事への連鎖を生む「絶望のループ」の入り口となっている可能性を、なぜ直視しようとしないのか。

 膿を出し切るどころか、その膿に蓋をし、かつての英雄の残像という名の「痛み止め」でその場を凌ぐ。そんな目先の利益に走ったガバナンスを続けている限り、大相撲に真の夜明けは訪れない。

 今こそ本当に必要なのは伊勢ヶ濱親方という個人の是非を問う以上に、このような矛盾と忖度を垂れ流し続ける組織そのものへの、文字通りの「大刷新」なのである。さもなければ伝統ある国技は、自らが築き上げた古いしきたりという名の牢獄の中で静かに、しかし確実に腐朽していくことになるだろう。

 このままでは、ファンへの決定的な裏切りという名の、取り返しのつかない「黒星」を喫することになる——。

 そんな暗澹たる未来を予感させる今回の「大甘決着」に、我々はもっと敏感であるべきではないだろうか。

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