【東大卒→日銀】激務の“月100時間残業”に直面した彼が「朝7時出社、終電帰宅」の末に得たもの

「働きたくない」「結婚もそこまでしたくはない」——そんな本音を抱えた人が増加する日本の未来はどうなるか。大胆な予測と衝撃的な分析が話題を呼び、発売後たちまち重版となった『働く人が減っていく国でこれから起きること』(朝日新書)。この本を執筆したのが、気鋭のエコノミストの河田皓史さんだ。東京大学経済学部で学び、日本銀行、シンクタンクとキャリアを歩んできた河田さんは、実は「FIRE(早期リタイア)」を真剣に考える30代のひとりでもある。なぜ日銀を去り、そしてFIRE願望を持つに至ったのか。その原点には、少年時代に経験した「ある出来事」があった。
* * *
■父の会社が倒産
経済が「自分ごと」になったのは、小学校高学年の頃だった。1997年、98年にかけて、銀行や証券会社が相次いで破綻する、金融危機の真っただ中だった。
その荒波は、当時北海道に住んでいた河田さんの一家も襲った。父親が支店長クラスの役職で勤めていた建設関係の会社が、倒産したのだ。
「食生活が貧しくなったとか、私自身の生活について目に見える影響があったわけではないのですが、家庭内の雰囲気はかなり暗くなったのを感じました」
当時の家庭内の空気をそう振り返る。父親の転職に伴い、一家は岩手県へ転居。この出来事を通じて、心にはひとつの確信が刻まれた。
「経済や社会の動きを分かっていないと、予想外の経済・社会イベントに巻き込まれてひどい目に遭わされるんだな。そのことが教訓のように自分に刷り込まれていったんです」

世の中の変化を先読みできるようになるためには、経済や社会を学ばなければ――この体験が、後の進路を決定づける原体験となった。
■「行けそうなら」の東大進学
岩手県有数の進学校である盛岡第一高校に進学。文系の中では常にトップクラスの成績だったという。当初は多くの同級生と同じく東北大学への進学を志望していたが、模試での成績が想定以上に良いことを知り、「行けそうなら東大にするか」と志望先を変更した。
当時から経済学に特別な関心があったわけではない。社会科学系を学ぼうと決めていた河田さんだったが、自身の成績と東大の入試難易度との兼ね合いで、経済学部に進む学生が多い文科二類を選択した。
経済学のおもしろさに目覚めたのは大学3年生の時だ。経済学には、個々の経済主体の行動を分析する「ミクロ経済学」と、国全体の経済動向を分析する「マクロ経済学」がある。河田さんが惹かれたのは後者だった。
「本当に数学が得意で『数理モデルをいじっているとテンションが上がってくる』ような人はミクロ経済学を好むことが多いのですが、自分はそのようなタイプではありませんでした。マクロ経済学は一国全体の景気や経済成長を考える“手触り感”のある領域で、自分はどちらかというと、現実社会のことを考えたいと感じていました」
■社会のことを知らなければ
大学で本格的な分析に初めて取り組んだのは、2008年の夏。リーマン・ショックが起こる直前、原油や資源の価格が高騰していた時期だ。
なぜ原油は高騰しているのか。中国やインドなどの新興国はなぜ急成長しているのか。仮説を立て、GDPや為替といった実社会のデータを分析ソフトに取り込み、回帰分析などを通して検証していく。
「このモデルで計算してみようとか、この変数が一番説明力が高いねとか。議論と試行錯誤を重ねることで、社会で起きていることの原因がわかり、おもしろさを感じました」
少年時代の、社会のことを知らなければならないという教訓。現実の経済の分析に惹かれる根底にはそれがあった。

■日銀は「かっこよく見えた」
2008年9月にリーマン・ブラザーズが経営破綻。その直後の10月から、就職活動が始まった。
当時の東大経済学部には、財務省などの人気官庁、日銀、外資系の金融機関やコンサルティング会社に進むことを「就活成功」とみなすような独特の空気感があったという。河田さんは「激務は避けたい」という理由で官庁と外資を除外。「消去法的に日銀が選択肢として残った」と語る。
しかし、日銀を志望した理由はそれだけではなかった。未曾有の金融危機に対し、FRB(米連邦準備制度理事会)やECB(欧州中央銀行)など各国の中央銀行が、経済の崩壊を防ぐため、矢継ぎ早に異例の政策を打ち出していた。日銀もまた、必死に市場の安定化に奔走していた。
「私が就職活動をしていた時期の日銀は、すごくかっこよく見えたんです。まさに経済・金融を支える“最後の砦”として頑張っている姿を見て、ああいう社会的意義のある仕事ができたらいいな、と思っていました」
■深夜2時に寝て、朝5時に起き……
日銀入行後、河田さんが配属されたのは日本経済のリサーチを担う調査統計局だった。その後、1年半ほどの支店勤務を経て配属された部署は、河田さんが避けようとしていた「激務」の部署だった。
「霞が関や外資と比べればまだ可愛いものだったかもしれませんが、当時は朝7時に出社して終電で帰る毎日でした。三鷹にある独身寮に住んでいたので日本橋の職場まで遠く、深夜2時頃に寝て朝5時頃に起きる、というような生活でしたね。昼も起きているのか寝ているのかわからないような状態でした。
部署によって違うと思いますが、2012年の当時は『働き方改革』も始まっておらず、月100時間近くまで猛烈に残業をしていました。当時そんな言葉はありませんでしたが、今で言う『配属ガチャ』に失敗したような感覚でした。他の同期は現実的な時間に帰って飲み会をやったりしていて、楽しそうでいいなとやさぐれていましたね」

入行2年目の時、行内の海外留学制度の募集に手を挙げた。日銀では総合職の半数以上が海外留学を経験するという。本店の部署には留学帰りの先輩や留学準備中の同僚も多い。ランチタイムには、留学先で著名なエコノミストと会った、中央銀行の幹部と会った、といった体験談が飛び交う。その光景は「それまでの人生で出会ったことのないタイプの人々」であり、「華やかに見えた」という。
平日は仕事に没頭し、週末は疲労と戦いながら英語の勉強と必要書類の作成に時間を費やした。その結果、米国のデューク大学大学院への留学の機会をつかんだ。
■「バンク・オブ・ジャパン」にリスペクト
当時のデューク大学大学院の経済学修士プログラムは、学生の半分が中国人、4分の1がアメリカ人、残りの4分の1がその他のさまざまな国から集まった人たちで構成されていたという。
中国、アメリカ以外の出身の人々は、河田さんのように各国の会社や役所から派遣されてきたミッドキャリアの社会人も少なくなかった。社会人経験のある人たちとは話も通じやすく、「バンク・オブ・ジャパン」と言えばリスペクトしてくれた。「楽しく過ごせた」と振り返る。
大学院では、新興国の為替介入に関する実証分析をテーマに研究した。学部卒の知識だけでは読むのが大変だった専門的な論文も、その背景にある理論や研究の系譜の理解を深めることで、読み解けるようになった。
こうしてエコノミストとしてのスキルを身に付けた河田さんは、2015年、日銀へと戻る。しかし、日本を離れていた2年の間に、組織の空気は静かに変わっていた。
※後編<【元日銀エコノミスト】10回以上引き止められて辞めた彼が、本当に書きたかったこと 「FIREブームが人手不足を加速させる」>へ続く
(構成/書籍編集部・白石圭)
・【後編を読む】【元日銀エコノミスト】10回以上引き止められて辞めた彼が、本当に書きたかったこと 「FIREブームが人手不足を加速させる」
・東京23区は「塾代」3割増、「マンション」2倍に高騰 子どもを持つ「経済的コスト」が上がり続ける厳しい現実
・「いい人がいない」「理想を下げてまで結婚したくない」… 非婚化はもはや「経済対策」だけでは止められないという悲しい現実