「命カエシテ」名湯・草津温泉の湯けむりの陰に、重大な人権侵害が隠されていた 4人に1人が命を落とした牢獄、同意のない妊娠中絶…素通りの観光客に考えてほしいこと

草津温泉の湯畑を指し示す案内人の川口正昭さん=3月、群馬県草津町

 地下から湧き出た温泉の湯けむりが立ちこめている。年間400万人以上の観光客が訪れる群馬県草津町の草津温泉。温泉街の中心には、高温の湯を地表で冷ます設備「湯畑」が広がる。

 広大な湯畑を前に、案内人の川口正昭さん(66)が語り始めた。

 「観光客が知らない、もう一つの草津を見に行きましょう」

 全国有数の温泉地の裏側には、ハンセン病患者に関する“負の歴史”があった。劣悪な環境で監禁され、患者の4人に1人、23人もが死亡した懲罰施設「重監房」、本人の意思に反して行われた妊娠中絶、「命カエシテ」と刻まれた碑の意味は―。

 町を1日かけて巡り、埋もれた歴史をひもといた。(共同通信=赤坂知美)

▽説明板から削除された記述

 古来、草津温泉には湯治を目的に多くの人が集まってきた。町が発行した「草津温泉誌」によると、強酸性の湯は病に効くとされ、多くのハンセン病患者も滞在していた。

 川口さんは、旅館が並ぶ温泉街を歩きながら説明した。

 「江戸時代、温泉街の外れには被差別部落の人々がまとまって暮らしていました。温泉水の成分が冷えて固まった『湯の花』の販売や、湯治に来て亡くなり引き取り手のない遺体の処理を担っていました」

 「明治時代に温泉街が大火事で壊滅状態となり、被差別部落に暮らしていた人々が立ち退いた後、置き換わるようにハンセン病患者が移り住みました。集落は『湯ノ沢』と呼ばれました」

 かつて湯畑前に設置されていた説明板には、複数の被差別部落を束ねていた「三右衛門(さんえもん)」という人物が、江戸にまで湯の花の商いを手がけていたことが記されていた。しかし、2017年に説明板が新設された際、記述は削除された。

 川口さんは続けた。

 「県や町は観光に重点を置き、その背後にある被差別部落やハンセン病の歴史については十分に関心を払っていません。このような行政の姿勢は、強制連行され犠牲となった在日朝鮮人の歴史が語られてこなかった構図と重なります」

 川口さんがそう語るのには理由がある。

▽強制動員の朝鮮人と重なる点

 川口さんは、太平洋戦争中に動員されて犠牲となった朝鮮人労働者を悼み、群馬県立公園「群馬の森」に設置された追悼碑を管理していた市民団体のメンバーの一人だ。2024年、県が行政代執行で碑を撤去した後も、歴史を語り継ぐ活動を続けている。

 草津町のハンセン病国立療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」の自治会長と20年以上前に知り合い、ハンセン病の歴史を教わったことをきっかけに、県内の朝鮮人やハンセン病患者への差別を学ぶフィールドワークを行っている。

 「戦時中、朝鮮人が開発に携わった鉄山や鉄道の跡地は県内各地に残っています。しかし、県や市町村は観光地としての整備は進めるものの、加害の歴史を残そうとする試みは見られません」

 川口さんの話は続く。

 「記録に残さないことで歴史は消し去られていきます。政治家は簡単に『悲惨な歴史を繰り返さない』と言いますが、真に歴史と向き合っているのでしょうか」

▽全国から患者が集められた栗生楽泉園

 ハンセン病は、手足の末梢神経まひや感覚障害などの症状があり、効果的な治療法がない時代には体の一部が変形する後遺症が出ることがあった。感染力は非常に弱いが、日本では20世紀初頭から患者を地域社会から切り離す隔離政策が進められた。

 草津町に栗生楽泉園が開設されたのは、患者への隔離政策が続く1932年。湯畑から東へ約3キロ離れた尾根上の民有地を国が買い取り、現在の敷地面積は74万平方メートルを超える。

 栗生楽泉園には、湯ノ沢集落だけでなく全国から患者が集められた。ピーク時には1335人が入所し、26年3月現在、23人が園内で暮らす。

 川口さんの案内で、園に向かった。

「重監房」跡地で説明する川口正昭さん=3月、群馬県草津町

▽静かな園に残る監禁施設の跡

 湯畑から車で山道を10分ほど進んだ先に、栗生楽生園の正門が見えてきた。小雨が降る中、人通りは少なく、園内はひっそりとしていた。川口さんは語る。

 「炊事、洗濯、清掃などは患者らで分担し、共同生活をしていました。園内には入所者の心の拠り所となった教会やお寺もあります」

 正門を入ってすぐ、細い脇道を5分ほど歩くと、療養所側から「反抗的」とみなされた患者が監禁された懲罰施設「重監房」跡地がある。高さ4メートルのコンクリート壁と四重の扉があった建物は、現在は基礎部分だけが残り、クマザサが周囲を取り囲んでいた。

 さらに車を走らせ、園の奥にある「重監房資料館」に行くと、復元された建物の一部を見ることができる。学芸員の黒尾和久さん(64)が案内してくれた。

 「冬には氷点下20度近い極寒の地となり、獄死した患者の遺体を運び出す際、布団が凍りついて床から離れなかったという証言もありました。過酷な人権侵害が行われた重監房という牢獄は、草津にしかありません」

国立「重監房資料館」を案内する黒尾和久学芸員=3月、群馬県草津町

▽患者の4人に1人が死亡

 重監房が設置されたのは1938~47年。正式名称は「特別病室」だったが治療は行われず、患者を底の浅いトイレと質素な寝具しかない約4畳半の小部屋に閉じ込めた。

 9年間に93人が送り込まれ、少なくとも23人が死亡した。死因のほとんどは凍死や衰弱死、自死など病気によるものではなかった。

 「反抗的」とされ重監房に入れられた人はどんな人たちだったのか。ある男性は、洗濯作業に必要な新しいゴム長靴の支給を要求した。夫の収容に抗議した妻。空腹の息子がジャガイモを盗み罪に問われた父親。収監にあたって、明確な基準はなかった。

国立「重監房資料館」にある復元された重監房の内部=3月、群馬県草津町

▽跡地から発見された監禁の動かぬ証拠

 戦後、新聞報道や患者らの訴えで療養所の実態が明るみになり、1947年に重監房は廃止された。

 2013年に跡地で発掘調査が行われると、南京錠が5点見つかった。黒尾さんは「患者が監禁されていたことを示す動かぬ証拠だ」と指摘する。

 他に、屋根や壁の一部と想定されるモルタル片、支援者の差し入れであろう卵の殻や牛乳瓶なども発見された。看守が過ごした部屋以外にガラス片がなかったため、患者の房には窓ガラスがなく、風雨が吹き込んだことがうかがえた。

 資料館では、これらの出土品を展示し、ハンセン病の歴史を伝える。入場は無料、予約なしで見学できる。月曜休館。

 この資料館を昨年度訪れた人は、およそ4700人。草津温泉を訪れる400万人以上の観光客数と比べると、ほとんどが素通りの状態だ。

 黒尾さんは説明の最後にこう結んだ。

 「なぜ重監房が建てられ維持されねばならなかったのか。多くの人に展示品と向き合い、偏見や差別が残る今と結びついた人権問題として考えてほしい」

「重監房」跡地から発掘されたモルタル片などを展示した企画展=3月、群馬県草津町

▽「命カエシテ」

 資料館の隣には、栗生楽泉園に入所し、死亡した患者らの納骨堂がある。病気への差別が根強く、家族が引き取りに来ることができなかった患者1238人の遺骨が眠っている。

 納骨堂の隣には、「命カエシテ」と書かれた小さな碑があった。園内で行われた強制堕胎によって命を奪われた26人の胎児を供養するためのものだ。そのうちの1人は、国立感染症研究所ハンセン病研究センター(東京都東村山市)でホルマリン漬けの標本となって発見された。

 川口さんは語る。

 「なぜ、人間は人間に対して残酷なことができるのか。差別心を持つとこれほど悲惨で非人道的なことが可能なのか。この問いは、異なる立場や属性の人に対して不寛容な姿勢が広がりつつある日本社会にも投げかけられています」

強制堕胎で命を奪われた胎児26人を供養するための「命カエシテ」と記された碑=3月、群馬県草津町

  ×   ×   ×

 ハンセン病は、ノルウェーの医師ハンセンが発見した「らい菌」による感染症を指す。日本の隔離政策は、1931年に「らい予防法」で法制化された。病気が遺伝するという誤った医学的知識や優生思想により、患者への断種や人工妊娠中絶など人権侵害も行われた。

 1940年代に新薬「プロミン」による効果的な治療法が導入された。しかし、1996年のらい予防法廃止までハンセン病患者に対する強制隔離政策は続いた。

 法撤廃後も、各地で元患者や家族が差別に直面した。2003年、熊本県の黒川温泉で元ハンセン病患者の宿泊が拒否されたほか、就職や結婚で身元調査が行われ、排除された事例がある。

 厚生労働省によると、2025年5月現在、全国13の国立療養所の入所者は639人、平均年齢88・8歳という。