“過激な反差別”が招いた東大五月祭・参政党講演の中止騒動、いま多数の国民をリベラルから遠ざける“正義”の暴走

参政党の神谷代表(写真:共同通信社)
「反差別」は言論封殺の免罪符ではない
私はこのあいだ、JBpressでの拙稿を通じて、反差別やジェンダーの争点で過激化していくアイデンティティ政治に警鐘を鳴らしてきたが、果たして、その象徴のような出来事が起こった。
東京大学の学園祭「五月祭」での参政党の神谷宗幣代表の講演に対し、その開催阻止を求めて複数人が会場入り口を塞ぎ、挙句に、大学に爆破予告の脅迫メールが届いて当日の全企画が中止になったのである。

東大・五月祭で開かれる予定だった神谷氏による講演会の案内(参政党HPより)
結果的に、今回の騒動は、実力行使による講演会中止と一体になった反差別運動、参加者の安全を考慮して市民的に退却した参政党、という構図になったといってよい。
政治が閉塞して煮詰まる時代、この一件は、アイデンティティ政治の先鋭化がもたらす深刻な暴走であり、リベラルの再生はそれとの絶縁によってしか果たせない。
2010年代に出現した在特会という社会病理を前に、それに対抗するカウンター運動は不可欠であり、ヘイトスピーチ解消法や罰則つきヘイト規制条例などの成果をもたらしてきた。しかし、参政党の主張は反グローバリズムや積極財政など通常の政治的主張も含み、差別的言動も外国人への不信を煽るものであるが、一義的にヘイトスピーチと定義しうるかは議論がある。
ここにあって、昨今の反差別アクティビズムは、その運動スタイルのビジュアル的側面において斬新さがあるものの、主張の内容は極めて独善的で、すでに多くの論者が指摘しているように、「何がヘイトか」を決める権利を恣意的に独占し、「レイシスト」と認定した相手にはどんな罵詈雑言を浴びせても構わないと信じている。
東大での参政党の講演会阻止は、「正義」を掲げていれば実力行使も免罪されるという「反差別無罪」の帰結であろう。このような暴挙は抗議でも運動でも何でもない。また、これまで「反差別」ゆえに彼ら彼女らを持ち上げ、増長させてきた側の責任も重い。
心ある人々は一致して、いい加減、この運動の行き過ぎを諫め、不毛な文化大革命を終焉させるべきである。
在特会と参政党との決定的な違い
2010年代に猖獗(しょうけつ)を極めた在特会の言動は、差別的言論によって民族的少数派の尊厳を傷つけることを目的としており、それに対する行政の規制と市民社会の一致した対抗が必要不可欠であった。カウンター運動の現場で奮闘された方々には私も満腔のリスペクトを持つものである。

大阪市内で街宣活動をする「在日特権を許さない市民の会」のメンバーら=2013年3月(写真:共同通信社)
他方、参政党については、日本国益の強調と裏腹の関係で外国人への不当な論難があると同時に、通常の政治的主張も見られてその中身は混然一体としている。たとえば、2026年衆院選で参政党が掲げた主な公約は消費減税、社会保険料の削減、積極財政、外国人受入の厳格化、食料自給率の上昇などである。
反ワクチンや「ディープステート(闇の政府)」による支配といった陰謀論的主張についても、私はそれらに同意しないが、しかし、それらはヘイトスピーチではなく民主社会における「意見」の範疇にある。これらは科学的には誤謬であるかもしれないが、しかし言論の機会は実力で阻止されるべきものではない。
誤謬にはそれまで前提となっていた真理がなぜ真理なのかを再び説明する努力をわれわれに強いる役割がある。その努力を通じて、真理の本質があらためて多面的に表現され、その真理性が深く浮かび上がる。デマだからといって言論の機会そのものを奪うことは、真理の真理性を再確認する道をあらかじめ閉じてしまうであろう。
「日本人ファースト」だけではヘイトと断定できない
参政党のスローガンである「日本人ファースト」についても、それだけでヘイトスピーチと断定することは難しい。
政治家は一般にその選出母体の有権者による信託を受けているのであって、東京都民に選出された都知事が「都民ファースト」を掲げるのと同様、日本国民(有権者)に選出された国会議員が「日本人ファースト」を掲げること自体は、批判されることがあっても、封殺されるべきものではない。主権国家を前提とする以上、日本の政治家が外国の利益をファーストにして判断行動するとすれば、それは有権者に対する背信行為となるだろう。

2025年参院選で「日本人ファースト」を掲げる参政党の街宣車(写真:共同通信社)
もちろん、生活保護や国費による留学生支援などをめぐっては、参政党の主張の一部は不正確な表現で外国人の「特権」を強調するものであり、これらは厳しく反駁反論されるべきである。とはいえ、現時点では、これらの主張が在特会と同じ意味で外国人への敵意や襲撃を促す「明白かつ現在の危険」をもたらすとも思えない。
また、在特会の背後にはどこまで行っても差別主義者しかいないが、参政党の背後には、その参政党に投票してきた実に740万人を超える有権者が存在する(2025年参院選・比例)。これは立憲、公明、維新の各比例得票数を超える数である。
反差別の運動の「行き過ぎ」を指摘すると、しばしば「レイシストとの対話など不可能だ!」と批判されるが、外国人との共生を目指すわれわれが本当に対話すべきなのは、神谷宗幣氏ではなく、参政党に投票した、おそらく「レイシスト」でも「ファシスト」でもない740万人の人々、われわれのすぐ隣で普通に生活している人々なのである。
「ヘイト認定」で言論封殺を容認するダブルスタンダード
東大での参政党の講演にあたっては、発言の機会と差別の抑制をめぐって調整の試みも見られたが、開催阻止を正当化する一部の学者の牽強付会(けんきょうふかい)には見過ごせないものもあった。
東大の学生有志が神谷氏に差別発言をしないよう「誓約書」を提示して署名を迫ったが、これは一つの建設的な行動であろう。しかし、一方的に提示された「誓約書」に署名するかどうかは「義務以上の徳行」であり、署名すれば評価されるものであっても、署名しないからといって責められる類の話ではない。
これに対して、「参政党側はヘイトスピーチをしないことを求めた誓約書には署名しなかった、つまりヘイトスピーチをする予定だった」(本田由紀氏)という決めつけは、「宣誓書に署名しないから共産主義者」というマッカーシズムの時の忠誠審査を真似たもの(木下ちがや氏)といわれても仕方ないだろう。
また、「ヘイトスピーチは発せられた瞬間に加害となるので事前に止めなければいけません」(藤崎剛人氏)との意見も見られたが、将来の可能性でもって目の前の政治集会の開催阻止が認められるなら、それは戦前の治安維持法の予防拘禁の発想であろう。
「ヘイトスピーチに表現の自由はない」という命題が、相手の表現の自由を否定したいのでヘイトスピーチ呼ばわりして認定するという「本末転倒の発想」(堀新氏)になっていないか、自問が必要ではなかろうか。
これらは何も神谷氏のこれまでの発言を擁護・正当化したいわけではなく、「反差別」に冷や水を浴びせたくて言っているわけでもない。参政党の言論を阻止しようとする理由づけが、その熱情のあまり、敵の姿に似てきてはいないかと問うているのである。
過激な運動との絶縁によってリベラル再生を
運動の目標を共有しながら、運動の「行き過ぎ」を批判するのは難しい。差別撤廃という目的の方向性は同じでありながら、運動のあり方が「行き過ぎ」だといっているにすぎないのだが、その「行き過ぎ」を指摘することが、往々にして目的それ自体に反対していると論難されるからだ。
しかし、アイデンティティ政治の独善性やダブルスタンダードは、もはやどちらが被害者で加害者かわからなくなる領域に達しており、正面からその過剰を諫めることが大事な局面に達している。野党やリベラル勢力は、一部の過激な運動と自らを明確に切り離し、新陳代謝を果たして新たな布陣を作っていくしかない。
政治学者のM・リラによれば、アメリカにおけるアイデンティティ政治の歴史は、そのままリベラル衰退の歴史だという。
ウォーク化したリベラルは、自分たちと異なる考えを持つ大多数の人々との接触を避け、社会運動に軸足を移してその主張を大声で社会にぶつけるようになった。人種やジェンダーをめぐっては、無知な人々を説教し、相手に精神的変革を迫るようになった。他人の言葉のあらを探し、見過ごしても問題ない失言で騒ぎ立てた。
このようなリベラルの態度や手法が国民を遠ざけ、次第に敵意をも抱かせるようになったのである。
今、われわれに求められているのは、反差別の目標を共有しつつ、あえて節度と分別をもった行動を呼びかける高校の校長先生のような市民的常識の態度なのである。「目覚めろ(Stay Woke)」、そして同時に「醒めてもいろ(Stay Sober)」。
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