司令官自決後も続いたゲリラ戦…包囲された末の選択肢は投降か死か、逃げ場なき沖縄戦
[戦後80年 昭和百年]沖縄<中>
沖縄戦では、日本陸軍が首里の司令部を離れ、「南部撤退」に踏み切ったことが住民被害を拡大させた。1945年6月23日に組織的抵抗が終わった後も、米軍による掃討作戦と日本兵によるゲリラ戦は続いた。

左上腕部に負った傷痕を見せながら戦闘の様子を語る山下和明さん(5月26日、大分県国東市で)=中島一尊撮影
海軍の兵士として沖縄戦を戦った山下和明さん(97)(大分県国東市)の腕と脚には、小銃の弾と 手榴(しゅりゅう) 弾の破片を浴びてできた5か所の傷痕が生々しく残る。後遺症に苦しみ、今もまっすぐ座ることはできない。
地元の学校を出て海軍に入り、17歳だった1944年12月、沖縄の海軍航空隊小禄派遣隊の所属となった。航空戦力は壊滅し、間もなく地上での戦闘配置に着くように命じられた。
前線で相まみえた米兵との距離は200メートルもなかった。<キューン>。頭の脇を銃弾がかすめる。倉庫から持ち出した飛行機用の機銃は、銃身が焼けて使い物にならない。対する米兵はこちらの100倍はいると思った。
砲撃で仲間の体はちぎれ飛び、「戦争にならんかった」。自身も右脚に銃弾を受け、銃を放り出して「もう撃たんでくれ」と一心に念じながら逃げた。
満身 創痍(そうい) でたどり着いた本島南端の 摩文仁(まぶに) では、追い詰められた民間人が断崖から飛び降りていた。「生きて虜囚の辱めを受けず」とする訓示をたたき込まれた兵士たちも、青酸カリを飲んで自決していった。
すでに日本軍の組織的戦闘は終結していた。山下さんは生き延びるため、米軍の包囲を突破して北に脱出することを決めた。その途中で米軍に狙撃され、左腕を銃弾が貫通。20人の敵兵に囲まれ、投降するしかなかった。
収容所を経て故郷に戻ったのは、終戦から1年以上過ぎた46年10月。周囲は「あんた生きとったか」と目を丸くした。共に沖縄に渡った海軍の同期54人のうち、生き残ったのは、自分を含めて4人だけだった。
孫からみた第32軍司令官
沖縄の防衛にあたった第32軍は、首里城(那覇市)の地下に総延長1キロに及ぶ 壕(ごう) を構築し、前線の部隊を指揮した。しかし米軍の攻勢で戦線が崩壊し、通信網が途絶する中で、45年6月19日、司令官の牛島満中将は最後の命令を出す。
「最後マデ敢闘シ、悠久ノ大義ニ生クベシ」

沖縄戦について語る牛島貞満さん(東京都千代田区で)=加藤学撮影
自らの指揮は困難になったとし、各部隊は上官の指示に従い、最後の一人になっても戦い続けるようにという意味だ。
牛島中将の孫、貞満さん(71)(東京都世田谷区)は「本土決戦があると信じ、時間稼ぎのため戦闘継続に重きを置いた。だが結果的にゲリラ戦を余儀なくされ、住民も投降できず、亡くなる必要がない多くの命が失われた」と考える。その後、牛島中将は自決したが、「軍が降伏文書に署名した9月7日まで戦闘による悲劇は続いた」と語る。
祖父と、元軍人の父・貞二さんから1字ずつもらって名付けられた。約30年前から祖父を知る県民らに話を聞くなどして沖縄戦を研究してきた。
その中で見えてきた祖父の人物像がある。ひめゆり学徒隊の少女は「『どんな本を読んでいるの』と優しく尋ねられた」という。ある男性は「金平糖をくれたり、馬に乗せてくれたりした」と話した。
「優しい人でも戦争では、非情な判断をする状況に追い込まれる」。貞満さんはこう思うようになった。
小学校教諭を退職し、現在は首里城地下にある司令部壕の保存活動や講演を行っている。「孫として祖父の責任を取ることはできないが、沖縄戦と無関係ではいられない。後世に語り継ぐことが義務で、未来の平和につながると信じている」と力を込める。
「県民斯ク戦ヘリ」
沖縄では海軍の地上部隊も戦った。大田実少将が率いる約1万人は現在の那覇空港に近い小禄地区に陣地を構築した。米軍に囲まれて孤立し、大田少将は6月13日、司令部壕で自ら命を絶つ。その前に東京に向け、〈現状ヲ看過スルニ忍ビズ〉として異例の電報を送っていた。
<県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ……><陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレ……>
県民の辛苦と協力ぶりを 綴(つづ) り、こう結んだ。<沖縄県民 斯(カ) ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>
大田少将の三男で、元海上自衛官の落合 畯(たおさ) さん(85)は「沖縄戦では住民を島外避難させるのが遅れ、多くの死者が出てしまった」とみる。

大田実・海軍少将について語る三男の落合さん。手前の写真は大田少将(神奈川県鎌倉市で)=中川慎之介撮影
一方で父の「遺言」については、「陸軍と比べて部隊が小さく、司令官が県民と直接関わる機会も多かったはずだ。身を惜しまず協力してくれる姿を目にし、強い思いを抱いていたのだろう」と推しはかった。
「根こそぎ動員」で犠牲に
本土から陸軍部隊の増援が見込めなかった沖縄戦では、軍が人員と物資を現地調達する「根こそぎ動員」が行われた。県内の師範学校や旧制中等学校全21校からは、少年兵部隊の「鉄血勤皇隊」や負傷兵の看護を担う学徒隊などに約2000人の子どもたちが組み込まれ、半数が死亡したとされる。

鉄血勤皇隊に動員された与座さん(沖縄県南風原町で)
「17年間、育ててもらってありがとうございました」。米軍が上陸した1945年4月、鉄血勤皇隊員だった 与座章健(よざしょうけん) さん(96)(沖縄県南風原町)は、両親あての遺書をしたためていた。
「戦争だからお前たちはこれ以上、勉強する必要がない」と言われ、5年制の旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高校)を4年で卒業した。最下級の二等兵扱いで、星ひとつが付いた粗悪な軍服を与えられ、親の承諾を得るよう指示されて自宅に戻ると、父は黙って判をついた。家を出る時、「これが家族との別れになるのか」と一人涙を拭った。
艦砲射撃や空襲下で陣地を掘る作業が続いた。近くで爆弾がさく裂し、命からがら 壕(ごう) に飛び込んだこともある。仲間は一人、また一人と死んでいった。
隊から放り出されたのは突然だった。「全員を食わせる食糧はない」。将校の一言で、身長1メートル52と小柄な自身を含む20人ほどが隊から出された。「元気でね。弾に当たらないように」と別れた友人の行方は今もわからない。
戦場をさまよった末、奇跡的に再会した家族と米軍に投降したが、その後も軍と行動を共にした仲間は半分が死んだ。今も戦火に消えていった同級生たちの顔を思い出して、こう思わずにはいられない。「すばらしい人間が何人もいた。もったいないことだ」
本土決戦へ「時間稼ぎ」
1941年12月の日米開戦以来、快進撃を続けた日本軍だが、42年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に後退を始める。44年7月に太平洋のサイパン島が陥落し、戦争を続けるために不可欠な防衛線「絶対国防圏」が崩壊した。
同10月には、フィリピン・レイテ沖海戦に敗れ、連合艦隊は壊滅的な打撃を受ける。大本営が日本本土で米軍を迎え撃つ方針を固める中で、沖縄は本土決戦に備える時間を稼ぐための戦場と位置付けられた。
日本軍が持久作戦をとったことが、住民の被害が拡大した原因だ。日本軍が降伏文書に署名した9月7日にかけてゲリラ戦が続き、県民の4人に1人が犠牲になった。日本軍の戦死者は約9万4000人に上り、米軍も1万2520人が死亡した。