6日間で5000人亡くなった伊江島 民家庭先から衣装ケース5箱、20人分の遺骨発見

「遺族のもとへ遺骨が戻ってほしい」と語る知念洋輝さん。現場には花が手向けられていた=5月、沖縄県伊江村
沖縄県北部の伊江島(伊江村)には「東洋一」と呼ばれた旧日本軍の飛行場があった。先の大戦末期の昭和20年4月16日に始まった米軍の攻撃は熾烈(しれつ)を極め「沖縄戦の縮図」といわれる。わずか6日間で住民の4割にあたる約1500人と兵士ら計約3500人が犠牲になった。

遺骨収集事業の写真を示しながら沖縄戦を回顧する知念正行さん
旧日本兵20人分
この伊江村の民家で昨年、日本兵とみられる約20人分の遺骨が掘り出された。「80年も土の中に眠っていたと思うとあまりにも悲しい。いつか身内のもとに戻ってほしい」。島の人たちはこう願っている。
造園業の知念洋輝(ひろき)さん(38)が重機で土を掘り返していたのは昨年8月末。沖縄戦を描いた映画「木の上の軍隊」(7月全国公開、平一紘(かずひろ)監督)の撮影で使う木の植栽作業だった。
1メートルほど掘り進むと、すくい上げた土の中に白いものが見えた。重機から降りて手に取ると、足の骨のようだった。
牛の骨と思ったが、看護師でもある妻に見せると「これは人の骨よ」と言われ、慌てて村役場に連絡した。県の戦没者遺骨収集情報センター職員の立ち合いのもと、スコップなどで掘り進めると鉄かぶとや手榴弾(しゅりゅうだん)、水筒も見つかった。「おじい、おばあに聞いていた沖縄戦が庭先に埋まっていたとは…」
遺骨は衣装ケース5個分になった。頭骨や手足の骨は向きが逆さになったもの、かがみこむような姿勢のものもあった。「丁寧に横たえられたのではなく、どさっと埋められたように思えた」。発掘を通じて当時の混乱した状況が浮かび上がった。

約1キロ東方に旧日本軍が陣地を敷いた城山(ぐすくやま)(標高170メートル)があり、一帯は特に激戦地。遺骨は同センターに移され、厚生労働省が鑑定を進めている。
知念さんが気になっているのが、掘り出された衣服のボタンだ。さまざまな色や大きさがある。「軍服か女性の服かなどが分かれば身元の特定につながるかもしれない」
米艦隊が包囲
伊江島の戦闘の激しさについては、米軍攻撃の際に家族7人で海岸の洞窟に避難していた知念さんの大おじ、知念正行(せいこう)さん(86)がこう証言する。
「攻撃は4月16日に始まったというが、何日も前からアメリカの戦艦が島を取り巻いて攻撃してきた」。自宅が爆撃され、海に向かって避難したのは17日夜。米戦艦から照明弾が上がると昼間より明るくなった。
「照明弾が消えるまでサトウキビ畑に隠れた。茎が伸びる時期だったので助かった」
海からは艦砲射撃、空からは戦闘機の爆撃…。洞窟でひたすら身を隠した。「親から頭を伏せておくよう言われた。爆弾の音がとにかく怖かった」。目の前には海しかなく、上陸した米兵が迫ってきた。「生きるか死ぬか分からないが、穴から出るしかない」。父親の判断で洞窟を出た。
結局、米軍に捕まって捕虜収容所に連れていかれた。2年後に島に戻ると、城山は艦砲射撃で岩が吹き飛ばされ、立ち木は1本もなかった。
遺骨発見の知らせを聞き「ここにも埋まっていたのか。戦争を語れるのは僕らの世代まででしょう」と声を落とす。正行さんは地元新聞社の通信員として40年近く務め、遺骨収集事業も取材してきた。戦後80年を機に、これまで撮りためた写真に文章を添えて手作りの新聞を製作し、住民に届ける。
米軍の爆撃時は小学1年生だった。「もし平和だったら入学式があってみんなで学校に通っていたのに。戦争でそんな思い出もない。今の子供たちにはそんなつらい思いをしてほしくない」(小畑三秋)
伊江島の戦闘 伊江島は周囲約23キロの島で、昭和18年に旧日本軍が長さ1500メートルの滑走路2本と副滑走路からなる大規模な飛行場を建設。南方作戦の拠点とし、米軍は翌年から大規模空襲を展開し、20年3月下旬から艦砲射撃を始めた。4月21日に米軍が占領すると、本土攻撃の拠点とし、住民を渡嘉敷島などに移した。知念洋輝さん方で見つかった鉄かぶとや水筒は、伊江島「はにくすにホール」で展示されている。