1945年8月15日、終戦を知り、航空隊に「降参するな」と嘆願に来た民間人たちがいた

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

終戦と聞いて気が抜けた

昭和20年8月15日――国民に戦争終結を告げる天皇の「玉音放送」をめぐっての反応は、「ホッとした」「悔しかった」と、まさに人それぞれだが、こんな例もある。

空母乗組の艦上攻撃機搭乗員として、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦、南太平洋海戦に参加、3度の雷撃で魚雷を3本とも敵艦に命中させて生還した稀有な戦歴を持つ、丸山泰輔さん(当時22歳、少尉)の回想である。丸山さんは昭和19(1944)年以降は陸上爆撃機銀河(ぎんが)に搭乗、サイパン島の米軍飛行場爆撃や沖縄戦にも参加し、島根県の大社基地(出雲市)で終戦を迎えた。

「サイパン島爆撃や沖縄沖の敵艦隊に夜間雷撃をかけたり、必死で戦っても米軍の勢いは止められない。優秀な搭乗員がどんどん戦死していく。私はもうこれ以上、戦いを続けることは無理だとは思っていたから、終戦と聞いてホッとした、というより気が抜けたような気がしました。まあ、放心状態ですね。ところが、玉音放送のあと、基地周辺の住民が大勢で飛行場に押しかけてきましてね。飛行機がまだこんなにあるのに、どうして降参するんだ、戦いを続けてくれ、と言うんです。説得して帰ってもらうのが大変でした」

大社基地のあたりは大きな空襲もなく、住民たちも「負け戦」の実感がなかったのかもしれない。――だからこそ、まとまった機数の飛行機が温存、配備されていたのだが。

終戦と聞いて気が抜けた, 偵察員として、真珠湾攻撃に参加, 無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅, 雷撃とはチームプレー

丸山泰輔さんの戦中、戦後(右写真撮影/神立尚紀)

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飛行服姿の丸山泰輔さん。袖に日の丸が縫いつけられているところから、昭和20年2月以降の撮影と思われる

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真珠湾攻撃からミッドウェー海戦にかけて乗組んだ空母飛龍

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九七式艦上攻撃機。大戦前期に活躍した水平爆撃、雷撃兼用機だった

GHQの指令により作成された、昭和20年9月1日現在の各航空基地の保有機一覧を見ると、大社基地には銀河38機と九三式中間練習機1機の計39機の飛行機があった。複葉機の九三中練はともかく、双発の新鋭機銀河が38機もあれば、確かに「こんなに飛行機があるのに降参するのか」と思う人がいてもおかしくはなかっただろう。

丸山さんは大正11(1922)年11月、和歌山県に生まれた。三重県の中学に進み、4年のとき「海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)」募集のポスターを見て、飛行機乗りになろうと思い立つ。難関を突破して昭和13(1938)年10月、甲飛三期生として横須賀海軍航空隊に入隊する。

このとき、海軍が「航空幹部募集」と銘打って募集しながら、じっさいの待遇は最下級の四等飛行兵からのスタートであったことで、「海軍に騙された」と甲飛三期生たちは結束し、待遇改善を求める前代未聞のストライキを起こした。とはいえしょせんは「軍隊」である。上層部が将来、予科練の制服を水兵と同じセーラー服から七つ釦の詰襟に変えることを呑んだことでストライキも沈静化され、猛烈なシゴキをともなう訓練が始まった。

偵察員として、真珠湾攻撃に参加

丸山さんは偵察要員に選ばれ、予科練での基礎教育を卒業すると鈴鹿海軍航空隊、大村海軍航空隊の飛行練習生課程で、偵察員としての訓練を積んだ。偵察員とは、複座(2人乗り)以上の攻撃機や爆撃機、偵察機などで、偵察、航法、電信などを担当する、緻密さと計算能力を要求される役目である。

昭和16(1941)年4月、教育課程を卒業すると空母飛龍乗組。ほどなく太平洋戦争が始まった。丸山さんは飛龍雷撃(魚雷攻撃)隊、九七式艦上攻撃機の偵察員(3人乗りの真ん中の席)として、12月8日の真珠湾攻撃に参加した。

「真珠湾の敵戦艦群が見えたときは、よしやるぞ!と、思わず武者震いしました。真珠湾に係留されている戦艦は動かないですから、魚雷が走りさえすれば必ず命中する。水深の浅い真珠湾で、いかに魚雷を走らせるか、それだけに集中していました」

と、丸山さんは回想する。アメリカ側の記録によると、丸山機が放った魚雷は戦艦オクラホマに命中した、とある。

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日本海軍機の奇襲を受け炎上するハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊

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米軍機の攻撃を回避する空母飛龍

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「友永雷撃隊」の攻撃を受ける米空母ヨークタウン。このとき丸山機は、弾幕をかいくぐって魚雷を命中させている

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魚雷を受け、まさに沈まんとする米空母ヨークタウン

さらに丸山さんは、真珠湾攻撃の帰途、12月22、23日に行われたウェーク島攻撃に参加。いったん内地に還って再出撃後は、翌昭和17(1942)年2月19日のオーストラリア・ダーウィン、4月5日のセイロン島コロンボ、4月9日には同・トリンコマリ空襲など、機動部隊の主要作戦のほとんどに参加した。

6月5日、日本海軍の惨敗に終わったミッドウェー海戦でも、ただ1隻、被害を免れていた空母飛龍を発艦した最後の雷撃隊の一員として出撃、米空母ヨークタウンに魚雷を命中させ、一矢を報いている。

「進撃高度3000メートルで飛ぶこと1時間、敵艦隊発見。指揮官・友永大尉が『トツレ』(突撃準備隊形作レ)を下令しました。雷撃隊は友永大尉の第一中隊5機と、橋本大尉の第二中隊5機に分かれ、敵空母を挟み撃ちにする態勢に入った。緩降下しながら攻撃態勢に入り始めたとき、後席の電信員が、『後方グラマン!』と叫んだかと思うと、脚を撃たれて激しくのけぞりました。振り返ると、垂直尾翼や水平尾翼が敵弾で穴だらけになっていて、後方に敵戦闘機が取りついている。とにかく魚雷を命中させなきゃいけないから、発射する前に墜とされるわけにはいかない。私は操縦員に、機体を右、左と滑らせて敵機の射線をかわすように指示を出しながら、敵艦の側方に回り込んでいきました」

無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅

執拗な敵戦闘機の追撃。左主翼の燃料タンクに被弾して、ガソリンが激しく噴き出した。いよいよ敵空母に近づき、グラマンがいなくなったと思ったら、こんどはすさまじい対空砲火が、投網のように雷撃隊を包んだ。

「グラマンを振り切ったときにはもう、敵艦隊の全砲火が、自分の飛行機の一点に集中してくるような気がしましたよ。やられた!と思ったら、機銃弾がピッというするどい音を残して左右を通り抜けていく。敵の機銃弾が、スコールのように海面に水しぶきを上げる。曳痕弾の下をかいくぐって海面すれすれを、敵空母の左舷(ひだりげん)に向かって肉薄しました」

角度はほぼ90度、距離500メートル。丸山機はなおも突撃を続ける。視野いっぱいに敵空母の巨体がせり上がってくる。距離300メートル。敵艦がいかに回避運動をしても絶対に避けられない距離で、艦首に狙いを定めると、「ヨーイ、テッ!」の合図とともに、丸山さんは右手で魚雷の投下索を引いた。

友永大尉が率いる第一中隊は、魚雷を発射する前に5機全機が敵戦闘機に撃墜されたが、橋本大尉の第二中隊が攻撃に成功、敵空母に2本の魚雷を命中させたと報告している。うち1本は丸山機が放ったものだった。

終戦と聞いて気が抜けた, 偵察員として、真珠湾攻撃に参加, 無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅, 雷撃とはチームプレー

ただ1隻で反撃を試みた空母飛龍も、ついに被弾した。写真は、状況偵察に飛来した空母鳳翔の九六式艦上攻撃機が撮影したもの

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第二航空艦隊司令長官・山口多聞少将。ミッドウェー海戦で空母飛龍と運命をともにした

終戦と聞いて気が抜けた, 偵察員として、真珠湾攻撃に参加, 無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅, 雷撃とはチームプレー

丸山さんが大戦末期に搭乗した陸上爆撃機「銀河」

「飛龍に帰艦すると、艦橋のあたりは騒然としていました。報告もそこそこに、もう一度飛ぶつもりで搭乗員室で戦闘配食の握り飯を食べ始めました。ところが、ひと息つこうとしたその途端に対空戦闘のラッパが鳴って、来たな、と思ったらダダダーンと爆弾が命中した。あとは、他の3隻と同じ運命です」

こうして、真珠湾攻撃から半年にわたって無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊の主力は空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を失い、壊滅した。

丸山さんは、その後も第一線で戦い続けた。空母隼鷹艦攻隊の一員として参加した南太平洋海戦(昭和17年10月26日)では、同年4月18日、日本本土初空襲のB-25爆撃機を発艦させた空母ホーネットに魚雷を命中させている。

雷撃とはチームプレー

超低空で敵艦にギリギリの距離まで肉薄し、魚雷を放つ雷撃隊は、敵に与えるダメージの大きさと引き換えに、一度の出撃で大半を失うことがめずらしくないほど、損耗率の高い任務である。敵艦に3本の魚雷を命中させて生還した搭乗員はきわめて稀だという。

「雷撃というのは、サッカーなどの競技と同じで、チームプレーです。あっちから攻め、こっちから攻めて初めてゴールできる。ミッドウェーでいえば、友永大尉以下の第一中隊が敵戦闘機の多くを引きつけてくれたからこそ、われわれ第二中隊が雷撃に成功したんです。私の機が放った魚雷が命中したといっても、1機だけで攻撃したのではうまくいくはずがありません。これは戦死したみんなの力なんですよ」

丸山さんはさらに、新鋭の陸上爆撃機銀河に搭乗、昭和19(1944)年12月25日には、米陸軍の大型爆撃機・B-29の基地となっていたサイパン島アスリート飛行場を爆撃。昭和20(1945)年になると、沖縄沖の敵艦船に対する夜間雷撃などで出撃を重ねたのち、島根県の大社基地で終戦を迎えたことは、冒頭に述べた通りである。戦後は材木会社に勤め、平成22(2010)年、87歳で亡くなった。

終戦と聞いて気が抜けた, 偵察員として、真珠湾攻撃に参加, 無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅, 雷撃とはチームプレー

丸山さんが大戦末期に搭乗した陸上爆撃機「銀河」設計者の三木忠直技術少佐は戦後、0系新幹線の車体デザインを手掛ける

終戦と聞いて気が抜けた, 偵察員として、真珠湾攻撃に参加, 無敵を誇ってきた日本海軍機動部隊、壊滅, 雷撃とはチームプレー

丸山さんは、平成13(2001)年12月、真珠湾攻撃60周年にハワイを訪れ、真珠湾の戦没者の霊に花を手向けた(撮影/神立尚紀)

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2001年12月、真珠湾攻撃60周年にアリゾナ記念館で。敬礼する左から丸山泰輔さん、蒼龍零戦隊の原田要さん(撮影/神立尚紀)

私が丸山さんと初めて会ったのは、平成13(2001)年、真珠湾攻撃60周年記念式典でハワイに旅したときだ。60年前のまさにその日、飛龍雷撃隊の一員として真珠湾上空を飛んだ人と同じ場所に立っているのが、とても貴重な体験のように思えた。式典を終えて帰国の途につくホノルル空港で、別の一行で来ていた第二航空戦隊司令官・山口多聞少将の四男・宗敏さんと偶然出会ったときのことは忘れられない。宗敏さんは、写真で見る父親と瓜二つの人だが、その顔を見るなり、丸山さんの目から滂沱たる涙があふれた。宗敏の手をしっかりと握りながら、

「ミッドウェーで、『赤城』『加賀』『蒼龍』の3隻がボーボー燃えているなかでね、山口司令官は飛行甲板に降りて私たち搭乗員一人一人の手を握って、仇をとってくれ、と……」

あとは言葉にならなかった。二人の周囲だけ、瞬時に60年前にタイムスリップしたかのような気がした。私はただ、傍らで立ちつくして見ているしかなかった。

その後、丸山さんには何度かインタビューの機会を得たが、以下の述懐がいまも心に残っている。

「予科練では海軍に対し、待遇改善を求めるストライキまで起こした私たちでしたが、いざ戦争が始まれば、『プロの飛行機乗り』の矜持を胸に秘めて最前線で戦いました。同期生265名の84パーセントにあたる223名が20歳前後で戦死しています。戦後も『海軍精神』を拠りどころに生きてきましたが、あれから60年ものときが過ぎ、いまとなってはもう、戦闘のことはなにもかもが遠い夢のなかの出来事のような気がします。しかし、終戦のとき、抗戦を陳情しに大社基地に押し寄せた人たちのことは忘れていません。われわれ軍人がホッとしてるのに民間の人はまだ諦めてなかったんですから……群集心理もあったでしょうが、そもそもそうさせたのは『大本営発表』や新聞、ラジオの力。対空砲火など浴びたことのない人が国民に希望的観測を植えつけたのでしょうね」