1945年8月9日「原爆投下直後」の長崎上空を飛んだ「戦闘機パイロット」が見たもの
今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。
ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。
歴戦の戦闘機搭乗員

佐々木原正夫さん。1997年、松島にて(撮影/神立尚紀)
昭和20年8月9日午前11時2分、米陸軍の爆撃機、ボーイングB-29が投下した1発の原子爆弾によって長崎市街は壊滅、焦土と化した。この原爆による人的被害は、長崎市原爆資料保存委員会の調査によると、同年12月の推計で、死者73884人、負傷者74909人におよぶ。

昭和17年6月、臨時に乗り組みアリューシャン作戦に参加した空母隼鷹で
「離陸してみると、長崎上空は黒雲に包まれ、その下は雨が降っているようでした。一通りの飛行テストを終えて、午後三時頃、着陸前に雲の下に入ってみたんです。地上は完全な焼け野原だったですね。真黒な雲が広がっていて、雨がザーッと降っていて。高度五百メートルぐらいで、残骸と化した浦上天主堂のまわりを旋回して見てみましたが、そりゃあ酷いもんでしたよ」
と、歴戦の戦闘機搭乗員だった佐々木原正夫さんは語る。
「二度目の原爆は落とさせない」
佐々木原さんは昭和14(1939)年、甲種飛行予科練習生4期生として海軍に入り、空母翔鶴零戦隊の一員として、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾作戦(機動部隊上空哨戒)を皮切りに、翌昭和17(1942)年、史上初の空母対空母の戦いとなった珊瑚海海戦、そしてガダルカナル島攻防戦、南太平洋海戦などの激戦に参加。空母瑞鶴に異動して昭和18(1943)年2月、ソロモン諸島の戦いで重傷を負った後は、主に戦闘機の空輸任務と、新鋭機紫電、紫電改の、実戦部隊に配備される前のテスト飛行に任じた。

昭和19年、局地戦闘機紫電に搭乗する佐々木原正夫さん
昭和20(1945)年7月末、紫電改で編成された第三四三海軍航空隊(三四三空)戦闘第七〇一飛行隊に転勤を命じられ、長崎県の大村基地に着任した。当時、23歳。この時点ですでに、予科練同期の戦闘機乗り21名のうち、19名が戦死し、1名は米軍捕虜になっている。
「大村に赴任したのは、すでに全軍が、来たるべき本土決戦に備えている時期で、もしも米軍が九州に上陸してきたら、三四三空は全力を挙げて迎え撃ち、一週間以内に総員が戦死するという見込みを聞かされました。
『なんだ、俺たち、みんな死ぬのが決まっているのか』と。仕方ない、ここで死ぬんだな、と覚悟を決めました。ただ、三四三空では、一度だけ敵艦上機邀撃に出撃したものの、私自身、空戦はありませんでした」

昭和20年7月、三四三空戦闘七〇一飛行隊集合写真(部分)。前列右から飛行長志賀淑雄少佐、司令源田実大佐、分隊長山田良市大尉。2列目右から2人目佐々木原正夫少尉
8月6日、広島に一発めの「新型爆弾」が投下される。8月8日、敵爆撃機と戦闘機、計200機以上による北九州への大規模な空襲があり、三四三空は可動機24機の総力をもってこれを迎え撃った。この日、三四三空は9人が戦死、戦闘第四〇七飛行隊分隊長服部敬七郎大尉は被弾し左腕を失う重傷を負う。服部大尉が戦後、孫の源(みなと)さんに語ったところによると、「2発めの新型爆弾を落とされてなるものか」との気概で、必死に戦ったのだという。
「なんだあれは?まさか広島に落ちたのと同じ…」
そして8月9日――。皮肉にも、前日に総力を挙げて戦ったために多くの飛行機の整備が必要になり、また燃料不足もあって、源田実司令の判断で「休養日」とされたこの日、長崎に2発めの「新型爆弾」すなわち原子爆弾が投下されたのだ。佐々木原さんは次のように回想する。
「この日はトラックを10台ぐらい連ねて、搭乗員を荷台に乗せ、総員で飛行場裏手の山登りに行きました。三四三空には戦闘七〇一、三〇一、四〇七の各飛行隊があり、それぞれ30何人かの搭乗員がいましたから、かなりの人数です。途中、私たちの乗ったトラックが故障して、修理の間、たまたまアイスキャンデー屋があったので、みんなでなかに入ってアイスキャンデーを食べていました。

昭和15年、飛行練習生の頃の佐々木原正夫さん

昭和16年、真珠湾攻撃前の空母翔鶴の零戦搭乗員たち。前列左から2人目が佐々木原二飛曹
すると突然、ガラスがビリビリと震えて、しばらくしてドーン、とものすごい音がした。爆撃か?と外に飛び出すと、南西の方向の青空に、真白い大きな玉が上がっていくのが見えるんですよ。その真白い玉の間から真赤な炎がはしり、そこがすぐ水蒸気に包まれて、まん丸い玉が大きくなりながらゆっくりと上がってゆく。
あれはなんだ?広島に落ちたのと同じ『新型爆弾』じゃないか、そうだそれだ!などと口々に言いながら、とは言え、どうしようもないので車に飛び乗ってとりあえずみんながいる山頂までは行き、弁当を食べながらきのこ雲を観察すると、どうやら爆弾は長崎に落ちたようでした。それを見ながらみんな無言になってね……。そのまま帰路について、基地に戻ったのは午後2時頃でした」
原爆投下直後の長崎上空を初めて飛んだ日本海軍の搭乗員
大村基地に帰ると、戦闘七〇一飛行隊の整備員が佐々木原さんに、整備のできた紫電改のテスト飛行を依頼してきた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、いまや佐々木原さん以上にテスト飛行の経験が豊富な搭乗員は、ほとんど残っていなかったのだ。
「大村基地と長崎は、直線距離で二十キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。高度をとって急上昇、急降下、そして宙返りやクイックロール、スローロール、垂直旋回など、エンジンの調子も見ながら特殊飛行を実施してテスト飛行を終え、しかしどうにも長崎のことが気になるので黒い雲の下に入ってみた。放射能のことなど、そのときは知らなかったですからね。
――黒い雨の降るなかを低空で見た長崎の情景は、一生忘れられません。浦上天主堂の残骸はかろうじてわかりましたが、一面、廃墟となって人の気配も感じられない。思わず息を呑みましたよ。たった一発の爆弾でこんなふうになるなんて、これまで長く戦ってきた経験からも想像もつかない。惨状という言葉では足りない、あまりに酷いありさまでした」

昭和17年6月、臨時に乗り組みアリューシャン作戦に参加した空母隼鷹で。前列左から3人目佐々木原さん、中列右から3人目隼鷹飛行隊長(のち三四三空飛行長)志賀淑雄大尉
このとき、佐々木原さんは「黒い雨」と言ったが、長崎で黒い雨が降ったという学術的な記録は広島と比べて少ない。私が、軽飛行機で雨のなかを飛んだ経験では、色のつかない雨でも時速数百キロで飛ぶ飛行機の風防に叩きつけるときは真っ黒に見えるから、そのせいかもしれないし、事実、黒い雨だったのかも知れない。
ともあれ、大村基地の裏手で山登り中の三四三空の隊員たちが見たきのこ雲は、まさにその原爆によるものだった。佐々木原さんは、原爆投下直後の長崎上空を、おそらく最初に飛んだ日本海軍の搭乗員となった。
「飛行機の調子はよく、着陸して『今日は非常にいいよ』と言ったら整備員は喜んでいましたが、私はいま見たばかりの長崎の光景が目に焼きついて、沈痛な気持ちでした……」
「腕の皮がズルズルと剥ける」被爆地の地獄絵図
夜中になって、大村海軍病院に、長崎で被爆した重傷患者が次々と運び込まれ、海軍基地からも整備員や搭乗員の一部が救援に向かった。
「私は、翌朝は当直で、敵襲があれば出撃する『即時待機』(燃料、弾薬を満載し、命令があれば即座に出撃できる状態)に入ることが決まっていたので行きませんでしたが、帰ってきた連中が言うには、トラックの荷台から腕をつかんでひっぱり上げて乗せようとすると、腕の皮がズルズルと剥けるんだそうですよ。それで、痛い、痛いと、かわいそうで困ったとのことでしたね……」

空母翔鶴艦上で、零戦二一型をバックに
この日、原爆を投下したB-29は、福岡県の小倉を第一目標としてテニアン島を発進、午前9時44分から3度にわたって爆撃を試みるが、小倉上空は前日の八幡市空襲による煙、もしくは霞に覆われ、照準に失敗。また、福岡県の陸軍芦屋飛行場から飛行第五十九戦隊の五式戦闘機、海軍築城飛行場から第二〇三海軍航空隊の零戦が邀撃に発進したことで、燃料の不安もあって目標を長崎に変更したと伝えられている。
いまさら仮定の話をしても始まらないが、このとき、もし長崎上空に哨戒の戦闘機がいたら、あるいは別の結果になったかもしれない。
終戦宣言
そして8月15日。戦争終結を告げる天皇の玉音放送は、大村基地にいる三四三空搭乗員の総員が、飛行場に整列して聴いた。
「終戦を知らされて、人間って不思議なもので、みんなホッとした顔をしていましたね。これで家に帰れる、と。これからどうなるか、先行きの見えない不安はありましたが」
と佐々木原さんは回想している。
その後の三四三空は、連合軍による天皇の処刑をふくむ最悪の事態にそなえて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の一人をかくまい、養育する、という「皇統護持」の秘密作戦に従事するなど、語るべきドラマはあるが、それについては稿を改めてお伝えしたい。

昭和46年、日本の元零戦パイロットが米エースパイロット協会の招きで渡米。途中立ち寄った真珠湾のアリゾナ記念館にて。右端坂井三郎さん、左から5人目佐々木原正夫さん
――長崎市から目と鼻の先の大村基地に、日本有数の実力を誇る戦闘機隊が配備されていながら、たった3日前の広島の教訓を生かすことなく、みすみす2発めの原爆投下を許した日本陸海軍の危機管理については、これまであまり顧みられることがなかったように思える。
「ポツダム宣言の受諾が遅れた」
「2発めの原爆よりも、敵の本土上陸の足がかりとなる、沖縄で完成間近の米軍沖縄中(現・嘉手納)飛行場の脅威に気をとられていた」
など、さまざまな理由が断片的に伝わっているが、当事者がことごとく鬼籍に入ったいま、これらをさらに掘り下げて検証することはむずかしい。政府、陸海軍上層部、現場部隊、民間の防衛態勢……さまざまな要素が複雑に絡んで一筋縄ではいかない問題でもある。
だが、「過ちを繰り返さない」ためにも、もっと目を向けられてもよさそうなテーマであろう。