「良民6人殺した」罪悪感に苦しむ元兵士 密かに残された8千のカルテで浮かぶ戦争の裏面

浅井病院で保管される国府台陸軍病院の病床日誌を説明する浅井禎之理事長=7月4日、千葉県東金市(池田祥子撮影

《良民六名を殺したることあり、之が夢に出てうなされてならぬ、又廊下なぞで誰かに殴られそうな気がしてそっとよけて歩く》

九十九里浜に近い千葉県東金市の浅井病院に残された「病床日誌」(カルテ)が、80年以上前の日本軍兵士の生々しい言葉を伝える。

患者は、昭和12(1937)年に中国に出征した28歳の陸軍上等兵。山形県出身の郵便局員だった。不眠症状などで13年8月に精神乖離症と診断され、国府台(こうのだい)陸軍病院に入院した。命令で住民を殺害した罪悪感に苦しむ様子が記され、現在の心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたとみられる。

国府台陸軍病院の入院患者の病床日誌。兵士の心の傷が記されている=7月4日、千葉県東金市(池田祥子撮影)

カルテは戦時中に国府台陸軍病院に入院していた元兵士8002人分に上る。敗戦に伴って軍はカルテの焼却を命じたが、院長で軍医中佐だった諏訪敬三郎が「学問的にも、戦傷病者の記録としても貴重な資料」と保管を指示。密かにドラム缶に入れて埋められ、その後、現在の下総精神医療センター(千葉市)に保管された。53年ごろから同病院の元軍医少佐、浅井利勇(としお)が複写し、自らの病院で保管してきた。

浅井利勇さん(「うずもれた大戦の犠牲者」より)

トラックで運びだし、1ページを2部ずつコピーして戻す作業を繰り返した。浅井は当時最新のコピー機を購入し、専用の職員も雇用。複写だけで6年を要し、疾患別と年代別に分類した計838冊を完成させた。

当時を知る長沼吉宣(71)は「ほとんどの職員も知らずに細々とやっていたが、先生は後世に残さなければとの使命感を持っておられた」と振り返る。

水野正夫さん

《多くの将、兵の患者さんの思いがしみじみと感ずる貴重なこのあかしを、真実を、残しておきたい》。浅井はカルテの経緯や分析をまとめて平成5年に自費出版した「うずもれた大戦の犠牲者」で心境を明かした。

カルテは祖父の「生きた証」

「会ったことはないが、祖父の苦悩を感じられた」。愛知県の水野昭彦(69)は、8年前に浅井病院から提供されたカルテを手に語る。

祖父の正夫は昭和13年に中国大陸で負傷。翌年4月に内地で療養中に自殺を図り、7月に国府台陸軍病院に入院したが、10月に35歳で病死した。

昭彦によると、正夫は所属部隊がほぼ全滅し、生き残った罪悪感を抱いていた。療養先で他の患者から「おめおめと生き残った」といわれたことで症状が悪化。短刀で自決を試み、国府台陸軍病院に入院した。約15年前、仏壇を整理した際に血のりがさびた短刀が見つかった。

《自責の念》《自傷》《罪障妄想感を抱き常に自殺を口にす》。カルテは116ページにわたり、発症後から症状や投薬状況が各軍医によって詳細に記されている。

現在の岐阜県多治見市出身だった正夫は、陶器職人で5人の子供の父親だった。亡くなる3日前には面会に訪れた妻に対し、《子供の事を訊ね家へ帰れと伝える》とある。

「まじめに生きてきた人が戦場で心を苛まれる様子が想像できる。切なくなりますよね」。昭彦自身も祖父の詳細な状況を知らなかっただけに、カルテは祖父の「生きた証」だと感じている。

貴重な資料 守り続ける祖父の使命

カルテは浅井病院院長だった利勇が亡くなった後も院内の一角に保管され、患者の家族に提供されるほか、研究者に閲覧が許可され、平成に入ってからの研究に活用されてきた。

「元兵士らは戦場の悲惨さは語りたがらない。だからこそカルテに兵士の生々しい声が残っているのは貴重だ」。浅井の孫で理事長を務める禎之(53)は語る。

祖父からカルテの話を聞いたことはなく、大学生のころ、祖父の書籍を通じて初めて存在を知った。禎之によると、東京・深川生まれの浅井は関東大震災で多くの級友を亡くし、東京大空襲で両親や末の弟を失う。禎之はそうした喪失体験があったからこそ、祖父はカルテの保管に使命を持って取り組んだとみる。

精神神経疾患の診断基準は80年前と大きく変化している。祖父と同じく精神科医の禎之は、カルテには戦場での経験がフラッシュバックし、入院中も追体験する患者の状況が克明に記されていることに驚嘆する。「医師として、患者の言動をありのままに、基本に忠実に記録に残している」

祖父ら当時の軍医らに思いをはせる一方で、カルテには戦場での極限状態を経なければわからない事実が記されており、歴史的にも精神医学的にも貴重な資料だとの見方も示す。

「残っているからこそわかることがある」。祖父の使命を守り続けていくつもりだ。=敬称略