米軍機の機銃掃射で予科練生ら82人犠牲「住吉丸」の悲劇 後世に

住吉丸の慰霊法要で手を合わせる永光頼光さん(左)=兵庫県南あわじ市阿那賀、春日寺

先の大戦が終わる直前の昭和20年8月2日、兵庫・淡路島と徳島・鳴門市の間にある鳴門海峡で、海軍予科練生らを乗せた民間木造船「住吉丸」が米軍機の機銃掃射を受け、10代の若者を中心に82人が犠牲となる惨事があった。発生から80年を迎え、実際に体験した人は次々と他界。それでも、今を生きる人々は関係する地で法要を営んだり、新たに慰霊祭を開いたりと悲劇を後世に伝えるため模索を続ける。

住吉丸の悲劇を伝える紙芝居を朗読する中学生たち。奥に見える海が、惨事の現場となった=徳島県鳴門市瀬戸町大島田

「敵襲ーッ!!」

若者たちで立錐(りっすい)の余地もないほどの甲板下。上から大声が聞こえた。それを合図にしたかのように、米軍機の爆音とバリバリバリッという機銃音が響く。船体前部に板を渡しただけの〝甲板〟は瞬時に壊され、上にいた予科練生らが変わり果てた姿で降ってきた。

船はエンジンと帆を備えただけで武器はない。米軍の侵攻を想定して砲台を造るため、「宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生」ら111人を乗せた住吉丸は徳島・撫養(むや)から淡路島・阿那賀に向かっていた。そこに襲来した米軍機が機銃掃射を浴びせ、各地から集まった10代の予科練生76人を含む82人が犠牲になった。

犠牲になった82人の墓碑と、それらを見守るように建立された慈母観音像=兵庫県南あわじ市阿那賀

このとき、四国側(現・徳島県鳴門市)では異変に気付いた漁師たちが舟で海へ飛び出し、米軍機が飛び交う危険な状況下で17人を救助している。生き残った予科練生たちは平成3年、同市瀬戸町大島田(島田島)の海を望む場所に救出劇を伝える「予科練習生救助顕彰碑」を建てた。

今年8月1日には、地元有志らが顕彰碑近くで初となる慰霊祭を行った。鳴門側での救出劇を伝える声が少ない-との思いからだった。式典では、予科練生らの写真が飾られた献花台に参列者約50人が花を捧げた。併せて、鳴門市立瀬戸中の生徒による住吉丸の悲劇を伝える紙芝居が朗読された。

関係者によると、紙芝居は平成14年に地元・鳴門市立島田小の児童が住民から話を聞き取って作成。朗読劇として伝えてきたが、児童数減少で22年に小学校が休校となったことなどから約15年間、途絶えた。そうした中、残されていた紙芝居の写真を元に瀬戸中生徒らが今春、復刻させた。

この日の式典に参加した同中3年の田中希さん(14)=同市=は「自分たちの幸せがあるのも、昔の人の苦労があったから。これからも語り継いでいきたい」と決意を語った。

住吉丸は淡路島まで曳航(えいこう)され、島の住民らが協力して予科練生らを港近くの春日寺(現・兵庫県南あわじ市)まで運んでいる。その後、鳴門海峡を見下ろす同市内の丘の上には昭和40年に82の墓碑が、42年には「慈母観音像」が建てられた。関係者らは「慈母観音会」を立ち上げて春日寺で法要を営む。そうして迎えた今年の8月2日。参列者約40人は手を合わせ、82人の冥福を祈った。

住吉丸に乗るはずだった永光頼光さん(96)=熊本市=は、鳴門市の慰霊祭と春日寺の法要の両方に出席。当時は16歳で隊長の秘書的な仕事を務めていた。「君は待ちなさい(次の便で来なさい)」という命令に従って難を逃れた。40代の隊長は亡くなった。

永光さんは戦後、故郷・鹿児島県甑島の復興に尽力し、熊本県警の警察官として定年まで勤めた。偶然から得られた命。「私は運が良かった。それをいつも思う」と振り返る。鳴門市の慰霊祭では有志らに「本当にありがたい」と謝意を伝え、2日の法要を終えた後、仲間たちに思いを馳(は)せながらこう語った。「みんな生きていれば、きっと世の中のため色々な所で活躍していた」。

(藤崎真生、写真も)