「女三四郎」の依頼で支援、柔道部も設立 誰かやらなアカンことに出合ったら御縁だ、と 話の肖像画 ミキハウスグループ社長・木村皓一<23>

アテネ五輪出場者たちと(右から3人目が本人)

《歌手の桑名正博さんにお願いされて支援を始めた車いすバスケット。会社はそのころ、女子ソフトボール部も持っていたが、スポーツ選手を本格的にサポートし始めたきっかけは女子柔道のパイオニア、〝女三四郎〟からの突然の依頼だった》

確か1980年代の後半か90年代初頭だったと思うんだけど、自宅に突然ね、あの山口香さんが訪ねて来られたんです。会社と違いますよ、いきなり自宅に来られました。

筑波大の女子柔道部の監督とともに来られて、「どうしても女子柔道を支援してほしいんです」とお願いされたんです。

当時は男子柔道は他の複数の大企業が支援していましたけど、女子を応援する企業はどっこもなかった。日本でひとつもない。

でも、山口さんからは「女子柔道界の発展のためにぜひ、一層のご支援をお願いします」というお願いでしたね。

《山口さんは高校時代の1980年に米国で開催された世界柔道選手権52キロ級で銀メダルを獲(と)って〝女三四郎〟として注目を集めると、84年のウィーン大会で金メダルを獲得し、88年には公開競技だったソウル五輪で銅メダルを獲得。女子柔道の世界を切り開いてきた》

実はね、そのときはすでに何人かの女子柔道選手を支援していたんです。

公開競技だったソウル五輪72キロ級で銅メダルを獲り、92年のバルセロナ五輪、96年のアトランタ五輪で銀メダルを獲得した田辺陽子やバルセロナ五輪代表の小林貴子、ソウル五輪66キロ級で金メダルを獲った佐々木光らを支援してはいたんです。

ただね、世間的には「柔道は女子がするものではない」という意識が強く残っていた時代でした。学生時代だけではなく、社会に出ても柔道に打ち込みたいという女子選手の受け皿がまったくなかった時代でしたよ。

そら酷な話ですやんか。世界で戦うためにはご飯もいっぱい食べなあかんし、稽古にも励まなあかんでしょ。仕事をしながら世界と戦うなんて絶対に無理やん。

でも、どこの支援もなかったら、将来有望な選手が柔道の道を諦めるしかないんですよ。そこで、山口さんの依頼を受けて、ミキハウスに柔道部をつくって、本格的に応援を始めたんです。

最初につくった道場は近鉄八尾駅の近くでしたね。誰かがやらなアカンことに出合ったらそれも御縁だと思ってやる、というのが私のポリシーです。

その後、女子柔道は92年のバルセロナ五輪から正式種目になり、バルセロナでは銀メダルが3個、銅メダルが2個でした。そこからどんどんメダリストが生まれ、2004年のアテネ五輪なんか金メダル5個と銀1個ですよ。

応援し始めたころから考えたら、まさかこんなに女子柔道が発展するとは思ってもみなかったですね。

田辺さんは全日本柔道連盟初の女性理事、アスリート委員会の委員長も歴任して、女子柔道界を引っ張り続けてくれました。でも道を拓(ひら)くのは大変だったと思いますよ。今みたいに方針やルールが明確ではなかったですしね。過渡期だったんでしょうね。(聞き手 植村徹也)