「花まんま」鈴木亮平の関西弁が日本的怪談に豊かさを加えた

「花まんま」©2025「花まんま」製作委員会

 コロナ禍の長いトンネルから抜け出し、新しい希望が芽生えていた2022年の秋、第27回釜山国際映画祭の期間中に行われた、第4回アジアコンテンツアワードのアフターパーティーを覚えている。

 パラダイスホテル近くのクラブ、長身の男が他の受賞者に囲まれて流ちょうな英語で話をしていた。授賞式では韓国語のスピーチを準備し、さらに熱い反応を得た彼は、席を離れるまでお祝いの言葉とお礼の言葉で構成された「受賞者トーク」を繰り返すのではなく、各国から来たキャストとスタッフを問わずゲスト同士で映画業界の情報を交換する「映画人トーク」を続けながら、筆者の視線をとらえた。感心していたところ向こうから質問が来た。

先入観裏切った関西弁

 「もしかして日本の方ですか?」「あ、日本で生まれて母が日本人です」。うれしくなって、「TOKYO MER 走る緊急救命室」でベストアクター賞を受賞した彼に、自己紹介までしてしまった。

 出演作のタイトルまで出したので、すでに「彼」が誰だかお気づきの方もいるかと思う。そう、近いうちにトップクラスのワールドスターになるに違いない、鈴木亮平である。

 こんな出会いのためか、彼が兵庫県西宮市出身で、関西弁の「ネーティブスピーカー」だとは想像できなかった。流ちょうな英語のように標準語を話すだろうと先入観を抱いてしまったのだ。

 しかし、今回紹介する新作で、彼は愉快な関西弁を話す町工場の労働者を演じている。筆者が全州国際映画祭に招待した「ハケンアニメ!」以来、「レジェンド&バタフライ」「室町無頼」などのウェルメードなエンタメ映画で目を離せないプロデューサー、須藤泰司の企画プロデュースの新作「花まんま」の話だ。

有村架純のスター性

 ヒロインの女優も視線を集めるのは同様である。17年に、韓国の外資系ファッションマガジン「マリ・クレール」が主催する「アジアスターアワード」で「アジアスター賞」を受賞した有村架純。行定勲監督の代表作である「ナラタージュ」に出演していた。

 彼女はその後、Netflixでの配信と劇場の同時公開で業界に新鮮な衝撃を与えた「ちひろさん」で、改めてスターとしての価値を立証した。「花まんま」で兄役の鈴木亮平との関西弁の会話があまりにも自然すぎるので、後でプロフィルを見てみると、兵庫県出身だった。

韓国とは似て非なるJ怪談

 兄妹だけでの生活はなかなか大変だが、大きく変わらない各自の暮らしぶりを「一服吸いながら」話せる作業着の仲間たち、「同級生の妹やったら自分の妹みたいなもんや」と言って、働いている父親のお好み焼き屋のカレンダーに予定を書く同窓の女の子、長年の成長を見守ってきた主人公の慶事を涙ぐんで祝ってくれる人々。

 素朴な喜びのディテールはどうあるべきかを示すような導入部を見ていると、もうあの町の人になった気分。このように情感あふれるヒューマンドラマとしても十分楽しめる感じの同作は、そこで止まらず、ファンタジーの要素を加えることでジャンル的野心を表している。ここで登場するキーワードが「怪談」である。この「怪談」がまた非常に興味深い。

 「怪力乱神は論じるべきことではない」(「論語」)という言葉を残した孔子をあがめる儒教国家・韓国の「K怪談」の怪異は、主に口伝されていた民間説話が主流を成し、晋・唐王朝の伝記文学の影響を受けた稗官野史、すなわち伝記の領域で劇的な部分を最大化する手段であり、それ自体を捉えれば物足りない。一方で「J怪談」は「ゴーストストーリー」だけでなく、ファンタジー全般にわたって独自のコンテンツとしての領域を確保してきた(これがどういう意味なのか知りたければ、なぜ「Jホラー」があっても「Kホラー」がないか考えてみよう)。

「雨月物語」に通じるゴースト

 そのルーツをさかのぼれば、古典の影響から脱したジャンル文学の形成を示す、近世日本文学の金字塔「雨月物語」に行き着く。18世紀後半に京都で出版されたこの小説では、現代人の視点から見れば王道を語ったり、正義や友情の意味を説いたり、ファンタジーメロドラマまで含んだりと、多種多様な物語が展開される。

 特に注目すべきは「ゴースト」が、ただの象徴や価値を反映する「オブジェ」ではなく、「自我」を持った「キャラクター」として物語を豊かにしていることである。「雨月物語」に登場する人間以外の者は「人間を怖がらせるか、懲罰を下す」存在ではなく、「踏み込んでいる世界が違うだけで、喜怒哀楽を共有する」様相で描かれる。

弱音吐く北欧神話の神

 欧米神話を例に挙げると、主神(ゼウス)が人間の運命を勝手に乱すギリシャ神話よりは、主神(オーディン)でさえ、弱音を吐き終末(ラグナロク)の到来を防げない限界を持つことで、神が人間を「未知と断絶させるのではなく、認知を超えた世界に導く主体」として機能する、北欧神話の多元性を連想させる。

 ギリシャ神話の影響を大きく受けている英米のジャンル文学は英雄譚(たん)に頼る例が圧倒的だが、北欧ジャンル文学は、堅固なドラマの枠に普通人を入れて劇的な完成度で勝負する。基本的には人間物語で、日本のジャンル文学と非常に似ている。

 「花まんま」はその人間物語に、「J怪談」の伝統を継承発展させた感動的なファンタジーを加え、より豊かなヒューマンドラマに結実した「成功事例」といえる。

時計の歯車のような前田哲演出

 映画は、主人公で語り手でもある俊樹が、あの世の両親から妹フミ子の世話を頼まれる場面から始まる。フミ子の婚約者に会った彼が、娘の出生の喜びを万歳で祝っていた父のまねをするところで、観客は普通のヒューマンドラマだと確信してしまうだろうが、時間がたつにつれて、そればかりではないと気づいていく。

 ここで輝くのが、全ての要素を時計の部品のようにきちんと組み合わせて回す、前田哲監督の演出である。厳しい世の中をたくましく生きてきた兄妹の話に「ファンタジー」という歯車をかみ合わせることで、「家族」の概念を拡張し、限られた個人の次元を超えてだれもが「次の世代をかわいがり、上の世代を大切にする」豊かな共同体の絆を呼び覚ます。

 ある町の子供を、両親だけでなく、隣人の皆が一緒に育てていた記憶にまでつながる、大きなメッセージ。その中心で、歯車を回すぜんまいとして作用するのが、子供たちのおままごとで使う花で作ったお弁当、花まんまである。

浄化させる感動の涙

 中盤以後、フミ子が結婚直前まで隠してきた秘密が次第に明らかになり、その過程でふくらんだ葛藤が解決された後、全てが桜の花びらのように飛んで行くさまを描く手法は、「花まんま」を忘れがたい作品にしている。特に結末部の、結婚式場と列車の二つのシーンは、ただ悲しいのではなく、「浄化される感動の涙」の意味を教えてくれるだろう。

 新緑の5月、満開の花のような映画体験を望む方々へのプレゼントのような一本である。