「自白」偏重捜査で起きてしまった袴田巌さん冤罪事件…犯罪心理学が示す再発防止の教訓
日本の刑事司法史において、袴田巌氏の冤罪事件は極めて象徴的な存在です。1966年に静岡県で発生した一家4人殺害・放火事件において、袴田氏は強盗殺人・放火の容疑で逮捕され、1968年に死刑判決を受けました。
その後、40年以上死刑囚として拘禁されましたが、長年の再審請求を経て2014年に釈放され、2024年9月に再審無罪判決が言い渡され、同年10月に検察が上訴権を放棄して無罪が確定しました。
本件は、日本の司法制度が抱える構造的問題を浮き彫りにした事例として、犯罪心理学の立場からも検討に値します。
袴田さんに対する補償としては、2025年3月に刑事補償約2.17億円の支払が命じられました。さらに、9月11日に国家賠償請求の提起がなされ、その帰結が注目されています。

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冤罪を生む心理学的メカニズム
冤罪が発生する背景には、制度上の欠陥だけでなく、人間心理に基づく認知バイアスや社会的圧力が深く関わっています。
1 自白偏重と取調べの心理的影響
袴田氏は逮捕後、長時間に及ぶ過酷な取調べを受け、自白を余儀なくされました。心理学研究によれば、長時間の取調べや心理的圧力は「虚偽自白」を引き起こすリスクを高めます(Kassin et al., 2010)。
特に孤立状態や疲労、恐怖の中では、本人が無実であっても「早く苦痛から逃れたい」という動機が自白を誘発します。本件においても、自白の矛盾や不自然さが後に指摘されましたが、当時は「自白が最も有力な証拠」として扱われ、裁判所も大きく依存しました。
2 確証バイアスと警察・検察の判断
一度「この人物が犯人だ」と仮定すると、その仮定に合致する証拠ばかりを重視し、矛盾する証拠を軽視する傾向が強まります。これを心理学的には「確証バイアス」と呼びます(Nickerson, 1998)。
袴田事件では、後に決定的な証拠とされた「味噌樽から発見された衣類」の信憑性に重大な疑問があるにもかかわらず、捜査機関はそれを犯人性の裏付けと位置づけました。ここには「有罪仮説」を前提に事実を解釈する心理的傾向が見て取れます。
3 権威への服従と社会的圧力
警察・検察・裁判所といった司法機関は社会的に強い権威を持ち、その判断は一般市民に大きな影響を及ぼします。ミルグラム実験に代表される心理学研究が示すように、人は権威の指示や判断に対して批判的に検討することを抑制されやすいのです(Milgram, 1974)。この点で、当時の社会やメディアも「司法が言うなら正しい」という同調傾向を示しました。
一方で、司法機関そのものもまた「社会的圧力」から自由ではありません。当時の警察・検察・裁判所は「早期に犯人を特定しなければならない」という世論やメディアの期待にさらされており、それが証拠評価の偏りを強めた可能性があります。すなわち、司法は「権威として影響を与える存在」でありながら、「社会から影響を受ける存在」でもあるという二重の立場に置かれていたのです。
冤罪の長期化を支えた要因
冤罪は発生だけでなく、長期間にわたり是正されにくいという特徴を持ちます。再審請求は、刑事訴訟法上「新証拠」によって無罪の可能性が合理的に高まることを示さなければなりません。
しかし、証拠開示が制限され、検察が持つ資料を防御側が入手しにくい構造が続いてきました。心理学的にみれば、組織は自らの誤りを認めにくい傾向である「組織的防衛機制」を持ち、これが再審妨害の一因となります。

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また、一度有罪判決が確定すると、社会的にも「犯人」として扱われ、そのレッテルが覆されにくくなります。社会心理学では「ラベリング理論」と呼ばれる現象で、本人のアイデンティティだけでなく、社会全体の認知も固定化されていきます。
袴田氏も40年以上にわたり死刑囚として扱われ、その間に精神的健康を著しく損なったと報告されています。
犯罪心理学的に見た教訓
袴田事件から学ぶべきポイントを整理すると、以下のような点が重要です。
1 自白依存から証拠基盤型捜査へ
犯罪心理学の研究は、自白がいかに不確実なものであるかを繰り返し示してきました。今後は取調べ全過程の録音・録画を徹底し、物的証拠や科学的分析を基盤とする捜査体制を強化する必要があります。
2 捜査官・裁判官の認知バイアス教育
警察・検察・裁判所に従事する人々が、人間の認知には誤りや偏りが不可避であることを理解することが不可欠です。心理学的研修を導入し、確証バイアスやステレオタイプの影響を減じる仕組みが求められます。

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3 再審制度の透明性と証拠開示
冤罪救済のためには、検察が保持する証拠の全面的な開示と、再審請求における柔軟な証拠評価が必要です。透明性を高めることで、組織的な誤りの是正が可能になります。
4 冤罪被害者の心理的ケア
長期の拘禁や社会的レッテルは、深刻なトラウマや精神疾患を引き起こします。袴田氏の場合も、精神的後遺症が報告されています。金銭的な賠償に加え、社会復帰支援や心理的リハビリテーションを制度化することは、司法が人権を保障する上で不可欠です。
われわれに問われていること
袴田事件は、一人の人生を根底から破壊しただけでなく、司法制度そのものへの信頼を揺るがしました。私たち市民一人ひとりが「冤罪は誰にでも起こりうる」という事実を理解し、司法に対して批判的な視線を持ち続けることが重要です。
心理学の視点から言えば、制度を運用するのもまた「人間」である以上、誤りや偏見を完全に排除することは不可能です。しかし、その不完全性を自覚し、誤りを早期に修正する仕組みを整えることは可能です。
袴田事件は、このような日本の刑事司法の構造的欠陥と、人間心理の限界を同時に示しています。虚偽自白を誘発する取調べ手法、確証バイアスに基づく証拠評価、権威に対する無批判な追従、そして誤判を是正しにくい再審制度。これらはすべて、犯罪心理学が長年警告してきた問題と深く結びついています。
本件の教訓を活かし、制度改革と心理学的知見の導入を進めることこそ、同じ過ちを繰り返さないための唯一の道といえるでしょう。
さらに袴田氏が現在進める国家賠償請求は、単なる個人補償にとどまらず、国家権力がもたらした被害への責任追及であり、制度改善への圧力としての意味を持ちます。
冤罪を生んだ司法に対して社会がどう責任を問うか、その姿勢は将来の再発防止に直結します。袴田事件は、被害者個人の救済とともに、司法制度全体の透明性と公正さを取り戻すための社会的契機となるべきなのです。
そしてまた、それは袴田氏一人の問題ではなく、誰にでも起きうる問題であることを念頭に置き、司法がかつての大きな過ちをどう是正してゆくのか、主権者たる国民は厳しい目で監視する必要があります。

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参考文献
• Kassin, S. M., et al. (2010). Law and Human Behavior, 34(1)
• Nickerson, R. S. (1998). Review of General Psychology, 2(2)
• Milgram, S. (1974). Obedience to Authority. Harper & Row.