関ケ原の戦い425年、山村に伝わる「影のキーマン」救出劇 西軍襲撃から守った27人衆

教如の肖像画

関ケ原の戦い(1600年)の直前、浄土真宗の僧で東本願寺を開いた教如(きょうにょ)(1558~1614年)が石田三成の率いる西軍に襲撃され、村人27人に助けられたとの伝承が、岐阜県西部の山村に伝わる。教如は東軍の総大将、徳川家康と挙兵前後に面会しており、戦いの「影のキーマン」として東軍方の勝利に寄与したとの見方もある。天下分け目の戦いから15日で425年。村では「お東さんの開祖」の遺徳をしのぶ行事が今も続く。

五日講を終え、教如上人の御前立(肖像画)を箱にしまう野原彰雄住職。「御寿像」は手前右の箱に封印されている=5日、岐阜県揖斐川町の遍光寺

8つの寺を像が巡回

「粕川谷(かすかわたに)」と呼ばれる伊吹山北方の山中にある岐阜県揖斐川町の旧春日村。三成方の襲撃から教如を救った27人衆ら村人が住んでいたという各集落の8つの寺では、回り番で毎月、「教如上人五日講」を行っている。

関ケ原の戦い後、教如が27人衆への感謝のため自ら描いたと伝わる「御寿像(ごじゅぞう)」が、五日講を行う8つの寺を巡回。今月5日には、教如の「足跡石」がある遍光寺で五日講があり、住民約15人がお経を唱えた。

かつて五日講は27人衆の伝説に従い、8寺から27人が集まるしきたりだった。だが、住民の高齢化で移動が困難になり、近年は各寺の周辺住民だけで営む。野原彰雄住職は「(五日講を)絶やしたくはないが、いつまで続けられるかわからない」と先行きを案じる。

村人らが餅差し入れ

村の伝承に詳しい駒月作弘さん(93)によると、五日講が始まったのは、教如入滅から5年後の元和5(1619)年。27人衆の有志が10月5日の命日に教如をしのび、立ち上げたのが起源と伝わる。駒月さんは「先の大戦中も一度も休むことなく、400年以上にわたり綿々と続けられてきた」と話す。

27人衆の伝承によると、教如が関東で巡拝を済ませて美濃に入ると、すでに戦場となっており、墨俣(すのまた)の渡し場辺りで三成方に襲撃された。豊臣時代の天領だった西圓寺(同県大垣市)に逃れたが、三成方の追手が迫った。

西圓寺の住職が救援を求めると、粕川谷から屈強な信徒の27人衆が駆け付けた。寺の表門から教如にふんした住職がかごで出発する一方、裏門からは27人衆にまぎれて教如が粕川谷に向かった。

教如が粕川谷の遍光寺にたどり着くと、住職が殺害され、追手が粕川谷まで来るとの知らせが入った。27人衆は山中の岩窟に教如を連れ、他の村人もよもぎ餅や栃餅などを差し入れ。やがて東軍勝利の報が伝わり、教如は無事に京都まで戻ることができたという。その後、家康の厚遇を得て東本願寺の開祖となった。

石田三成方の襲撃から逃れるため教如が隠れたとされる岩窟「鉈ケ岩屋」=岐阜県揖斐川町春日美束

家康と親密な関係か

織田信長の大坂本願寺攻め(1570~80年)で、父の顕如とともに徹底抗戦したことで知られる教如。父の死(1592年)に伴い、京都の本願寺(のちの西本願寺)を継承するが、教団内の対立で退隠させられた。

大谷大の川端泰幸准教授(日本中世史)によると、退隠期の教如が開いた茶会に家康が赴くなど、2人は親密な関係がうかがえるという。

教如は三成ら西軍が宣戦布告をする約2週間前の1600年7月2日に京都を出発。家康が西軍への挙兵を決めた小山(栃木県小山市)で家康と対面したとされる。川端氏は「教如は武家や公家と盛んに交流しており、西国の重要な情報を家康に伝えたのだろう」と推察する。

一方で、帰途の美濃で三成方に追われた伝承については、どこまで史実なのかは不明だ。

大谷大真宗総合研究所は平成27年、粕川谷の五日講を調査し、御寿像に記された讃文や署名を教如の自筆と鑑定。慶長11(1606)年に粕川谷の人々に授与されたことまでは確認できた。

調査に参加した川端氏は「北陸や美濃、尾張を中心に(信者の)強力な親衛隊がいた教如は、関ケ原の戦いの影のキーマンと目される。五日講は教如の実態に迫る上で貴重な行事だ」と話す。(川西健士郎)